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放課後、君とだけ秘密の話をする  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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13/23

第13話 美晴は怒っているのではなく、不安になっている

 その日の放課後は、妙に静かに始まった。


 静かといっても、教室が本当に静かなわけじゃない。終礼が終われば、いつも通り椅子を引く音がして、誰かが部活の愚痴をこぼして、花音がその横で「今日の顧問ぜったい機嫌悪いって」と笑いを取っている。窓際には夕方の光が差していて、グラウンドの方からは遠くホイッスルの音も聞こえていた。


 全部、いつも通りだ。


 ただ、僕の周りだけが少しだけ遅れて動いている感じがした。


 昨日、写真を見直そうとして見られなかったこと。花音に「掘らない方がいいかも」と言われたこと。栞に「見間違いじゃないと思う」と言われたこと。そのどれもが、まだ頭の中で片づいていない。


 机の中へノートをしまいながら、ふと前を見る。


 美晴が、席を立つ前に一度だけこちらを見た。


 その視線は、最近よく向けられる「また何か考えてるでしょ」というものに近い。でも、今日はそれだけじゃない気がした。苛立ちとも違う、問い詰めるほど強くもない、けれど確かに何かを待っているような目。


 昨日、「連絡くらいしてよ」と言われたことを思い出す。


 そういえば、結局昨日は帰る前に短くメッセージを送っただけだった。


 『今から帰る』


 それに対して美晴は、


 『了解』


 とだけ返してきた。


 いつもならそこに一言くらい余計なものがつく。『遅い』とか、『ちゃんと夕飯前に帰りなよ』とか、『今日は何してたの』とか。昨日はそれがなかった。


 それを気にしている自分が、少しだけ面倒だった。


「湊」


 前から呼ばれる。


「なに」


「今日、時間あるんでしょ」


 美晴は立ち上がりながら言った。


「うん」


「じゃあ、ちょっと付き合って」


「どこに」


「購買じゃなくて、自販機のとこ」


「細かい指定だな」


「教室だと橘がいるから」


 その言い方で、僕は少しだけ察した。


 ちゃんと話すつもりなんだろう。しかも花音のいる場所ではなく、少しだけ人目から外れたところで。


 それだけで、胸の奥が少しだけ重くなる。


 別に責められるわけじゃない。たぶん。美晴は怒っているわけではないのだと思う。もし本気で怒っているなら、もっと単純に不機嫌になるし、幼馴染の遠慮のなさで真正面からぶつけてくる。


 今のこれは、怒りよりも確かめたい気持ちに近い。


 だからこそ、少し面倒で、少し怖い。


 僕たちは教室を出た。


 廊下にはまだ人がいたけれど、教室の中よりは音が少ない。階段の手前、自販機のあるあたりは放課後になると意外と人が散る。部活へ急ぐやつはもっと下へ行くし、帰るやつは昇降口へ向かうからだ。


 美晴は自販機の横の壁にもたれかかるみたいに立って、僕の方を見た。


「で」


「で?」


「何があったの」


 やっぱり、直球だった。


 美晴はこういうところがある。探るのが下手というより、探るより先に本人に聞いた方が早いと思っている。たぶんそれで困らずにやってきたんだろうし、僕も昔からそれに付き合ってきた。


「別に、大したことじゃ――」


「それ禁止」


 ぴしゃりと言われて、口を閉じる。


「最近ずっとそれ言うじゃん」


「だって本当に」


「本当に大したことないなら、そんな顔しないでしょ」


 その言葉は思ったより優しかった。


 責めるというより、ちゃんと見ている人の言い方だ。


「湊って、自分では隠せてるつもりなんだろうけど、考えごとしてるときすぐわかるよ」


「そんなに?」


「そんなに」


 美晴は少しだけ目を細めた。


「最近、私に話さないこと増えたよね」


 その一言が、不意打ちみたいに胸に入ってきた。


 怒っているのではなく、不安になっている。


 そういう声音だった。


「……話してないことなんて、別に前からあるでしょ」


 僕が言うと、美晴は小さく首を振る。


「そういう意味じゃなくて」


「じゃあ何」


「前は、話すほどじゃないことでも、なんとなくわかったの」


 その言い方に、幼馴染という関係の長さが滲んでいた。


「今日はちょっと眠そうだな、とか。授業めんどくさがってるな、とか。誰かに何か言われて微妙だったんだな、とか。そういうの、いちいち説明されなくても、なんとなくわかってた」


「……うん」


「でも最近は、わかるのに、わかんない」


 僕は返事をしなかった。


 わかるのに、わかんない。


 それはたぶん、美晴にしか言えない言葉だと思った。僕の表面の変化は見えている。でも、その中身に届かない。その距離を、彼女はたぶん初めて意識している。


 そして僕の方もまた、その距離を利用している。


 言えばいいのに言わない。言ったらどうなるかを見たくなくて、曖昧にしたままにしている。


「怒ってる?」


 僕は何となく聞いた。


 美晴は一瞬だけ眉を上げ、それから少し苦笑した。


「怒ってるように見える?」


「ちょっとは」


「じゃあ半分だけ正解」


「半分?」


「イライラはしてる。でも怒ってるっていうより……」


 彼女は言葉を探すみたいに視線を少しだけずらした。


「置いていかれてる感じがする」


 それを聞いて、僕は少しだけ息を止めた。


 やっぱり、と思った。あるいは、言葉にされるとこんなにまっすぐなのか、とも思った。


「別に、置いていくとかじゃ」


「わかってるよ」


 美晴はすぐに言った。


「そういうつもりじゃないのはわかってる。でも、最近の湊、なんか違う場所見てる」


 違う場所。


 その表現は正確だった。


 僕は最近、教室にいながら教室の外側みたいなものを見ている。机の並びとか、止まる空気とか、去年の写真とか、誰も話さないこととか。そういう、今までならわざわざ意識しなかったものに意識を取られている。


 そのぶん、目の前の会話やいつもの流れに乗り遅れる瞬間が増えた。


 たぶん美晴は、それを「違う場所」と呼んだのだ。


「……ごめん」


 気づけばそう言っていた。


 でも美晴は首を振る。


「謝ってほしいわけじゃない」


「じゃあ何してほしいの」


 少しだけ投げやりに聞いてしまったかもしれない。


 美晴はそのことに気づいたのか、一瞬だけ黙った。けれど、責めるような顔はしなかった。


「話してほしいだけ」


 それだけだった。


 すごく単純で、たぶん一番難しいこと。


 話してほしい。


 僕は今、そこに一番困っているのだと思う。水崎澪の名前を口にすること。写真の中の女子のことを、美晴の前で言葉にすること。それ自体はできる。たぶん、言おうと思えば今ここで言える。


 でも、言った瞬間に美晴の顔がどう変わるのかが怖い。


 驚くのか。黙るのか。知ってる顔をするのか。知らないふりをするのか。


 その反応が確定するのが、妙に怖かった。


「そんなに言いにくいこと?」


 美晴が聞く。


 僕は少しだけ目を逸らす。


「……たぶん」


「私に?」


「美晴に、というか」


「じゃあ誰に」


 そこで言葉が詰まる。


 栞には少しだけ話せた。というより、あの人は最初からこちらの違和感を受け取る姿勢があった。花音は話を流してしまうから、まともに向き合う相手ではない。担任はたぶん最初から答える気がない。


 じゃあなぜ、美晴に言えないのか。


 その答えを、自分でちゃんと持っていない。


「……反応を見るのが怖いのかも」


 口にしたあとで、自分でも意外だった。


 けれど、たぶん本音だった。


 美晴は少しだけ目を見開く。


「私の?」


「うん」


「なんで」


「わかんない。でも」


 言葉を選びながら続ける。


「知らないって言われても変だし、知ってるって顔されても、たぶんきつい」


 美晴はしばらく黙っていた。


 風が少しだけ吹いて、自販機の横の空気が冷える。廊下の向こうでは誰かが走っていく音がした。放課後の校舎は、こういう細かい音だけが妙にはっきり聞こえる。


「それって」


 やがて美晴が言う。


「私が何か知ってる前提なんだ」


「……ごめん」


「だから謝らなくていいって」


 彼女は少しだけ強く言って、それからすぐに声を落とした。


「でも、そう見えるなら、たぶん私も変なんだろうね」


「変って」


「わかんないけど」


 美晴は視線を廊下の先へ向ける。


「教室ってさ、みんなで同じ話してるようで、急に一人だけ違う場所に立たされることあるよね」


 その言葉に、僕は反応できなかった。


 聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さく引っかかる。これは昨日までの美晴が言う台詞ではない。もっと曖昧で、もっと嫌な手触りのある言葉だ。


「それ、どういう」


「私も、ちゃんとはわかんない」


 彼女は先にそう言ってしまう。


「でも、たまにあるじゃん。何か話してたのに、急に“今それ言う?”みたいな空気になるときとか。誰も嘘は言ってないのに、なんか一人だけ遅れる感じとか」


 僕は、その感覚を知っている。


 最近、何度もそういう空気に引っかかってきたからだ。


「それが、最近の湊にはある」


 美晴は言う。


「教室の中にいるのに、少しだけ遅れてる」


 その見方は、少しだけ痛かった。


 図星だったからだろう。


 僕はもう、何も知らない側の顔ではいられない。名前を知ってしまったし、違和感を気のせいだけでは片づけられなくなっている。だから教室の流れに、以前みたいに無意識では乗れなくなっている。


 たぶん美晴には、それが見えてしまっている。


「……ねえ」


 美晴が少しだけためらうように言った。


「それって、雪平さんのこと?」


「え?」


「最近よく話してるから」


 その問いには、嫉妬の気配が少しだけ混ざっていた。


 でも、それだけじゃない。彼女はたぶん、栞が何かのきっかけになっていることを感じ取っている。


「違う、って言うと嘘になるけど」


 僕が答えると、美晴は少しだけ唇を結んだ。


「……そっか」


「でも、雪平さんのせいじゃない」


「そういう言い方するところが、もう変」


 その指摘は厳しかったけれど、責めるというより、疲れているように聞こえた。


「せいとか、悪いとかじゃなくてさ」


 美晴は壁から背を離す。


「私、別に誰かに取られるとか、そういうのが嫌なんじゃないと思う」


 その言い方に、少しだけ驚く。


 彼女自身も、今その言葉を自分で確かめながら言っているようだった。


「じゃあ何」


「……わかんない」


 少しだけ眉を寄せる。


「でも、湊が最近ちゃんと私の見えるところにいない感じがする」


 その一言は、恋愛っぽくも聞こえるし、幼馴染としての不安にも聞こえる。


 たぶん、今はまだその両方なんだろう。


 僕たちの間には昔から距離が近い分、関係に名前をつけないで済ませてきた時間が長すぎた。だから、少しズレただけで何が揺れているのか自分でもわからない。


「……今日はさ」


 僕は小さく言った。


「まだ、ちゃんと話せないかも」


 正直に言うしかなかった。


 美晴はしばらく黙っていたけれど、やがて小さく息を吐いた。


「うん」


 それだけだった。


 怒るでもなく、責めるでもなく、ただ受け取るだけの返事。


 その方が、かえってしんどかった。


「でも」


 彼女は続ける。


「話せるようになったら、ちゃんと最初に私に言って」


「なんで最初に」


「幼馴染だから」


 その答えは、少しだけ意地っ張りで、少しだけ寂しそうだった。


 僕は思わず笑いそうになって、でも笑えなかった。


「わかった」


「ほんとに?」


「ほんとに」


「……じゃあ、今日はいい」


 美晴はそう言って、階段の方へ歩き出しかける。


 けれど二歩進んだところで、また振り返った。


「湊」


「なに」


「ちゃんと帰ってきてるなら、それでいいから」


 その言葉の意味を、僕はすぐには飲み込めなかった。


 でもたぶん、彼女が言いたかったのはそういうことなんだろう。


 どこを見ていてもいい。何を考えていてもいい。今すぐ全部話さなくてもいい。ただ、完全に別の場所へ行ってしまうみたいな顔をしないでほしい。たぶん、そういう意味。


「うん」


 僕が答えると、美晴はようやく少しだけ安心したように見えた。


 それから本当に階段を下りていく。


 一人になった廊下で、僕はしばらく立ち尽くしていた。


 美晴は怒っていたわけじゃなかった。


 不安になっていたのだ。


 置いていかれることに。わからなくなることに。いつもの距離が曖昧になっていくことに。


 そして、それはたぶん僕自身も同じだった。


 ただ違うのは、僕の不安の先には水崎澪という名前があることくらいで。


 廊下の窓から見える空は、夕方の色に変わり始めていた。


 自販機の明かりが白く光って、そこだけ妙に現実的に見える。日常はいつも通り続いている。美晴は帰る。花音は笑う。栞はたぶん図書室にいる。教室では誰かがまだ笑っているかもしれない。


 なのに、その全部のすぐ横で、言葉にできない違和感だけが少しずつ形を持ち始めている。

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