第13話 美晴は怒っているのではなく、不安になっている
その日の放課後は、妙に静かに始まった。
静かといっても、教室が本当に静かなわけじゃない。終礼が終われば、いつも通り椅子を引く音がして、誰かが部活の愚痴をこぼして、花音がその横で「今日の顧問ぜったい機嫌悪いって」と笑いを取っている。窓際には夕方の光が差していて、グラウンドの方からは遠くホイッスルの音も聞こえていた。
全部、いつも通りだ。
ただ、僕の周りだけが少しだけ遅れて動いている感じがした。
昨日、写真を見直そうとして見られなかったこと。花音に「掘らない方がいいかも」と言われたこと。栞に「見間違いじゃないと思う」と言われたこと。そのどれもが、まだ頭の中で片づいていない。
机の中へノートをしまいながら、ふと前を見る。
美晴が、席を立つ前に一度だけこちらを見た。
その視線は、最近よく向けられる「また何か考えてるでしょ」というものに近い。でも、今日はそれだけじゃない気がした。苛立ちとも違う、問い詰めるほど強くもない、けれど確かに何かを待っているような目。
昨日、「連絡くらいしてよ」と言われたことを思い出す。
そういえば、結局昨日は帰る前に短くメッセージを送っただけだった。
『今から帰る』
それに対して美晴は、
『了解』
とだけ返してきた。
いつもならそこに一言くらい余計なものがつく。『遅い』とか、『ちゃんと夕飯前に帰りなよ』とか、『今日は何してたの』とか。昨日はそれがなかった。
それを気にしている自分が、少しだけ面倒だった。
「湊」
前から呼ばれる。
「なに」
「今日、時間あるんでしょ」
美晴は立ち上がりながら言った。
「うん」
「じゃあ、ちょっと付き合って」
「どこに」
「購買じゃなくて、自販機のとこ」
「細かい指定だな」
「教室だと橘がいるから」
その言い方で、僕は少しだけ察した。
ちゃんと話すつもりなんだろう。しかも花音のいる場所ではなく、少しだけ人目から外れたところで。
それだけで、胸の奥が少しだけ重くなる。
別に責められるわけじゃない。たぶん。美晴は怒っているわけではないのだと思う。もし本気で怒っているなら、もっと単純に不機嫌になるし、幼馴染の遠慮のなさで真正面からぶつけてくる。
今のこれは、怒りよりも確かめたい気持ちに近い。
だからこそ、少し面倒で、少し怖い。
僕たちは教室を出た。
廊下にはまだ人がいたけれど、教室の中よりは音が少ない。階段の手前、自販機のあるあたりは放課後になると意外と人が散る。部活へ急ぐやつはもっと下へ行くし、帰るやつは昇降口へ向かうからだ。
美晴は自販機の横の壁にもたれかかるみたいに立って、僕の方を見た。
「で」
「で?」
「何があったの」
やっぱり、直球だった。
美晴はこういうところがある。探るのが下手というより、探るより先に本人に聞いた方が早いと思っている。たぶんそれで困らずにやってきたんだろうし、僕も昔からそれに付き合ってきた。
「別に、大したことじゃ――」
「それ禁止」
ぴしゃりと言われて、口を閉じる。
「最近ずっとそれ言うじゃん」
「だって本当に」
「本当に大したことないなら、そんな顔しないでしょ」
その言葉は思ったより優しかった。
責めるというより、ちゃんと見ている人の言い方だ。
「湊って、自分では隠せてるつもりなんだろうけど、考えごとしてるときすぐわかるよ」
「そんなに?」
「そんなに」
美晴は少しだけ目を細めた。
「最近、私に話さないこと増えたよね」
その一言が、不意打ちみたいに胸に入ってきた。
怒っているのではなく、不安になっている。
そういう声音だった。
「……話してないことなんて、別に前からあるでしょ」
僕が言うと、美晴は小さく首を振る。
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ何」
「前は、話すほどじゃないことでも、なんとなくわかったの」
その言い方に、幼馴染という関係の長さが滲んでいた。
「今日はちょっと眠そうだな、とか。授業めんどくさがってるな、とか。誰かに何か言われて微妙だったんだな、とか。そういうの、いちいち説明されなくても、なんとなくわかってた」
「……うん」
「でも最近は、わかるのに、わかんない」
僕は返事をしなかった。
わかるのに、わかんない。
それはたぶん、美晴にしか言えない言葉だと思った。僕の表面の変化は見えている。でも、その中身に届かない。その距離を、彼女はたぶん初めて意識している。
そして僕の方もまた、その距離を利用している。
言えばいいのに言わない。言ったらどうなるかを見たくなくて、曖昧にしたままにしている。
「怒ってる?」
僕は何となく聞いた。
美晴は一瞬だけ眉を上げ、それから少し苦笑した。
「怒ってるように見える?」
「ちょっとは」
「じゃあ半分だけ正解」
「半分?」
「イライラはしてる。でも怒ってるっていうより……」
彼女は言葉を探すみたいに視線を少しだけずらした。
「置いていかれてる感じがする」
それを聞いて、僕は少しだけ息を止めた。
やっぱり、と思った。あるいは、言葉にされるとこんなにまっすぐなのか、とも思った。
「別に、置いていくとかじゃ」
「わかってるよ」
美晴はすぐに言った。
「そういうつもりじゃないのはわかってる。でも、最近の湊、なんか違う場所見てる」
違う場所。
その表現は正確だった。
僕は最近、教室にいながら教室の外側みたいなものを見ている。机の並びとか、止まる空気とか、去年の写真とか、誰も話さないこととか。そういう、今までならわざわざ意識しなかったものに意識を取られている。
そのぶん、目の前の会話やいつもの流れに乗り遅れる瞬間が増えた。
たぶん美晴は、それを「違う場所」と呼んだのだ。
「……ごめん」
気づけばそう言っていた。
でも美晴は首を振る。
「謝ってほしいわけじゃない」
「じゃあ何してほしいの」
少しだけ投げやりに聞いてしまったかもしれない。
美晴はそのことに気づいたのか、一瞬だけ黙った。けれど、責めるような顔はしなかった。
「話してほしいだけ」
それだけだった。
すごく単純で、たぶん一番難しいこと。
話してほしい。
僕は今、そこに一番困っているのだと思う。水崎澪の名前を口にすること。写真の中の女子のことを、美晴の前で言葉にすること。それ自体はできる。たぶん、言おうと思えば今ここで言える。
でも、言った瞬間に美晴の顔がどう変わるのかが怖い。
驚くのか。黙るのか。知ってる顔をするのか。知らないふりをするのか。
その反応が確定するのが、妙に怖かった。
「そんなに言いにくいこと?」
美晴が聞く。
僕は少しだけ目を逸らす。
「……たぶん」
「私に?」
「美晴に、というか」
「じゃあ誰に」
そこで言葉が詰まる。
栞には少しだけ話せた。というより、あの人は最初からこちらの違和感を受け取る姿勢があった。花音は話を流してしまうから、まともに向き合う相手ではない。担任はたぶん最初から答える気がない。
じゃあなぜ、美晴に言えないのか。
その答えを、自分でちゃんと持っていない。
「……反応を見るのが怖いのかも」
口にしたあとで、自分でも意外だった。
けれど、たぶん本音だった。
美晴は少しだけ目を見開く。
「私の?」
「うん」
「なんで」
「わかんない。でも」
言葉を選びながら続ける。
「知らないって言われても変だし、知ってるって顔されても、たぶんきつい」
美晴はしばらく黙っていた。
風が少しだけ吹いて、自販機の横の空気が冷える。廊下の向こうでは誰かが走っていく音がした。放課後の校舎は、こういう細かい音だけが妙にはっきり聞こえる。
「それって」
やがて美晴が言う。
「私が何か知ってる前提なんだ」
「……ごめん」
「だから謝らなくていいって」
彼女は少しだけ強く言って、それからすぐに声を落とした。
「でも、そう見えるなら、たぶん私も変なんだろうね」
「変って」
「わかんないけど」
美晴は視線を廊下の先へ向ける。
「教室ってさ、みんなで同じ話してるようで、急に一人だけ違う場所に立たされることあるよね」
その言葉に、僕は反応できなかった。
聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さく引っかかる。これは昨日までの美晴が言う台詞ではない。もっと曖昧で、もっと嫌な手触りのある言葉だ。
「それ、どういう」
「私も、ちゃんとはわかんない」
彼女は先にそう言ってしまう。
「でも、たまにあるじゃん。何か話してたのに、急に“今それ言う?”みたいな空気になるときとか。誰も嘘は言ってないのに、なんか一人だけ遅れる感じとか」
僕は、その感覚を知っている。
最近、何度もそういう空気に引っかかってきたからだ。
「それが、最近の湊にはある」
美晴は言う。
「教室の中にいるのに、少しだけ遅れてる」
その見方は、少しだけ痛かった。
図星だったからだろう。
僕はもう、何も知らない側の顔ではいられない。名前を知ってしまったし、違和感を気のせいだけでは片づけられなくなっている。だから教室の流れに、以前みたいに無意識では乗れなくなっている。
たぶん美晴には、それが見えてしまっている。
「……ねえ」
美晴が少しだけためらうように言った。
「それって、雪平さんのこと?」
「え?」
「最近よく話してるから」
その問いには、嫉妬の気配が少しだけ混ざっていた。
でも、それだけじゃない。彼女はたぶん、栞が何かのきっかけになっていることを感じ取っている。
「違う、って言うと嘘になるけど」
僕が答えると、美晴は少しだけ唇を結んだ。
「……そっか」
「でも、雪平さんのせいじゃない」
「そういう言い方するところが、もう変」
その指摘は厳しかったけれど、責めるというより、疲れているように聞こえた。
「せいとか、悪いとかじゃなくてさ」
美晴は壁から背を離す。
「私、別に誰かに取られるとか、そういうのが嫌なんじゃないと思う」
その言い方に、少しだけ驚く。
彼女自身も、今その言葉を自分で確かめながら言っているようだった。
「じゃあ何」
「……わかんない」
少しだけ眉を寄せる。
「でも、湊が最近ちゃんと私の見えるところにいない感じがする」
その一言は、恋愛っぽくも聞こえるし、幼馴染としての不安にも聞こえる。
たぶん、今はまだその両方なんだろう。
僕たちの間には昔から距離が近い分、関係に名前をつけないで済ませてきた時間が長すぎた。だから、少しズレただけで何が揺れているのか自分でもわからない。
「……今日はさ」
僕は小さく言った。
「まだ、ちゃんと話せないかも」
正直に言うしかなかった。
美晴はしばらく黙っていたけれど、やがて小さく息を吐いた。
「うん」
それだけだった。
怒るでもなく、責めるでもなく、ただ受け取るだけの返事。
その方が、かえってしんどかった。
「でも」
彼女は続ける。
「話せるようになったら、ちゃんと最初に私に言って」
「なんで最初に」
「幼馴染だから」
その答えは、少しだけ意地っ張りで、少しだけ寂しそうだった。
僕は思わず笑いそうになって、でも笑えなかった。
「わかった」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「……じゃあ、今日はいい」
美晴はそう言って、階段の方へ歩き出しかける。
けれど二歩進んだところで、また振り返った。
「湊」
「なに」
「ちゃんと帰ってきてるなら、それでいいから」
その言葉の意味を、僕はすぐには飲み込めなかった。
でもたぶん、彼女が言いたかったのはそういうことなんだろう。
どこを見ていてもいい。何を考えていてもいい。今すぐ全部話さなくてもいい。ただ、完全に別の場所へ行ってしまうみたいな顔をしないでほしい。たぶん、そういう意味。
「うん」
僕が答えると、美晴はようやく少しだけ安心したように見えた。
それから本当に階段を下りていく。
一人になった廊下で、僕はしばらく立ち尽くしていた。
美晴は怒っていたわけじゃなかった。
不安になっていたのだ。
置いていかれることに。わからなくなることに。いつもの距離が曖昧になっていくことに。
そして、それはたぶん僕自身も同じだった。
ただ違うのは、僕の不安の先には水崎澪という名前があることくらいで。
廊下の窓から見える空は、夕方の色に変わり始めていた。
自販機の明かりが白く光って、そこだけ妙に現実的に見える。日常はいつも通り続いている。美晴は帰る。花音は笑う。栞はたぶん図書室にいる。教室では誰かがまだ笑っているかもしれない。
なのに、その全部のすぐ横で、言葉にできない違和感だけが少しずつ形を持ち始めている。




