第14話 栞の「断片」
その日の図書室は、いつもより少しだけ暗かった。
外が曇っているわけではない。むしろ午後には少し晴れ間も出ていて、窓の外の空は春らしく明るかった。ただ、図書室のカーテンが半分だけ引かれていたせいか、差し込む光が棚と棚のあいだで途切れて、全体の色がいつもより落ち着いて見えた。
静かな場所の暗さは、たまに人を正直にする。
僕はそんなことを考えながら、カウンターの前に立っていた。
美晴と話した翌日。結局、昨日は何も話せなかった。いや、何も話さなかったと言う方が正しいかもしれない。言えるところまで近づいて、でも最後の線だけは越えなかった。そのことが少しだけ後ろめたくて、少しだけ救いでもあった。
けれど、その保留は何も解決していない。
水崎澪の名前は消えないし、写真の中の顔も、空気の止まり方も、教室の中にある妙な「一人分だけ薄い」感じも、そのまま残っている。
だから僕はまた図書室に来ていた。
来る理由はもう、本の返却だけではなかった。
「今日も来た」
栞が、昨日と同じような調子で言う。
「図書室に来るたびにそれ言うの?」
「最近頻度が高いから」
「それは否定できない」
僕は肩をすくめて、借りていた本をカウンターに置いた。
「読み終わった?」
「一応」
「一応なんだ」
「最後の話、ちょっと重かった」
「そういう本だから」
「知ってて貸したんだ」
「たぶん今の湊くんには、それくらいの方がよさそうだったから」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
今の僕には、それくらいの方がいい。
つまり彼女は、僕が今どんな顔で何を抱えているかを、ある程度わかったうえで本を選んだことになる。考えすぎかもしれない。でも栞は、そういうふうに本を人へ渡せる人なんだろうと思った。
僕は返却された本が脇へ置かれるのを見ながら、少しだけ間を空けた。
すぐに本題へ入るのも変な気がしたけれど、世間話を長くするほど器用でもない。
「この前の話」
結局、まっすぐ切り出す。
「水崎澪のこと」
栞の手が、ほんの少しだけ止まる。
でも今度は、それを隠そうとはしなかった。
「うん」
「もう少しだけ、教えて」
言葉にすると、思ったよりも素直な頼み方になった。
追及ではなく、頼んでいる感じ。たぶん僕は、相手が栞だからそういう口調になっているんだろう。彼女は隠すときは隠すけれど、嘘で押し返してくるタイプではない。だから、強く詰めるより、話せるところだけを待った方がいい気がしていた。
栞はすぐには答えず、カウンターの端に置かれたペンを横へずらした。
「断片だけだよ」
「それでもいい」
「全部知ってるわけじゃない」
「それももう聞いた」
「大事だから何回でも言う」
そう言って、彼女は少しだけ視線を伏せる。
図書室の窓から入る光が、カウンターの木目の上に細く落ちている。遠くで誰かが参考書のページをめくった。静かな場所では、沈黙も会話の一部みたいに存在できる。
「同じクラスにいた」
栞は言った。
「うん」
「途中から来なくなった」
「それは……いつ頃?」
「去年の、秋の後半くらい」
秋。
その季節感が、妙に生々しかった。
春でも冬でもなく、秋。文化祭が終わって、行事の熱が少し引いて、でもまだ卒業とか受験とかには遠い、あの中途半端な時期。学校が一番「普通の日常」の顔をしている時期かもしれない。
「転校したとか、そういう説明は?」
僕が聞くと、栞は少しだけ首を横に振った。
「はっきりとは、なかったと思う」
「思う?」
「そこも曖昧だから」
曖昧、という言葉が今は妙に嫌だ。
でも現実はたいてい、きれいに断定できない。むしろ学校みたいな場所では、曖昧にされるものの方が多いのかもしれない。
「先生たちも、ちゃんと説明しなかった?」
「たぶん、してない」
「たぶんばっかりだな」
「そういう記憶しか残ってないから」
栞は静かに言った。
「誰かが“転校したらしい”って言ってた気もするし、しばらく休んでるだけって空気だった気もする。でも、明確にそうですって説明された記憶はない」
その話を聞いて、僕の中に嫌な感覚が広がる。
たとえば、はっきり「転校しました」と言われていれば、人はその穴に名前をつけられる。いなくなった理由が整理される。悲しくても、寂しくても、少なくとも枠はできる。
でもそうじゃないなら、残るのは空白だ。
しかも、その空白が「空白だ」とも共有されないまま日常だけが続いていったら――。
「じゃあ、みんな何となくそのまま……?」
「そう」
栞が頷く。
「来ないことに慣れていった」
その言い方は、とても静かで、だから余計に残酷だった。
慣れていった。
それは、いじめとか排除とか、そういうはっきりした言葉よりずっと怖い。誰かが明確に「消そう」と決めたわけじゃなくても、人は来ないものに慣れる。いないことを前提に会話を組み直し、席が空いていても気にしなくなり、やがて名前を出す機会も減っていく。
そうやって、人は少しずつ薄くなる。
「……雪平さんは、覚えてたんだね」
僕が言うと、栞は少しだけ目を細めた。
「覚えてる、とは違うかも」
「違う?」
「残ってる感じ」
その表現が妙にしっくりきた。
はっきりと思い出せるわけではない。でも、消えていない。輪郭の全部じゃなくて、何かの断片だけが残っている。たぶん僕が感じているのもそれに近い。
「何が残ってるの?」
「名前とか」
「うん」
「あと、図書室」
その一言に、僕は少しだけ身を乗り出した。
「図書室?」
「たぶん、澪もよく来てた」
栞はそう言って、図書室の奥の棚の方へ目を向けた。
「ずっといるわけじゃなかったけど、放課後とか、昼休みとか、たまに見た気がする」
その光景を想像してみる。
この静かな場所に、水崎澪がいた。棚のあいだを歩いて、本を選んで、誰かと話したり、話さなかったりしていた。そういう当たり前の行動のイメージだけは、なぜか少しだけ作れるのに、顔と声がついてこない。
そこが、また気持ち悪い。
「記録とか、残ってないのかな」
気づけば、そんなことを口にしていた。
栞がこちらを見る。
「何の」
「いや、図書室の貸出記録とか。文化祭の名簿とか、クラスの文集とか、そういう……紙に残るやつ」
言ってから、自分でも驚く。
昨日までの僕なら、こんな発想はしなかった気がする。記憶が曖昧なら、記録を見ればいい。理屈としては当然なのに、学校生活の中でそこまで考えることなんて普通はない。
でも今は、感覚だけでは足りない気がしていた。
違和感が本当に存在するのか、何か一つでも形あるものに触れたい。
栞はそれを聞いて、少しだけ考える。
「図書室の貸出記録は、たぶんある」
「見られる?」
「簡単には」
「無理か」
「でも、全部無理ではないかも」
その言い方に、僕はすぐに食いつきそうになって、やめた。
たぶん彼女も、今その場で軽率に「見せる」とは言えないんだろう。図書委員としての線引きもあるし、そもそもそこまでして記録を辿ること自体が、彼女にとってはもう一歩踏み込むことになる。
「無理にじゃなくていい」
僕は先にそう言った。
「ただ、そういうのもあるのかなって思っただけ」
栞はその言葉を受け取って、少しだけ頷いた。
「文化祭のしおりとか、クラス文集とかなら、教室の後ろの棚にまだ残ってるかも」
「ほんとに?」
「たぶん」
「またたぶん」
「記憶だから」
その返し方に、少しだけ笑ってしまう。
栞も口元だけで笑った。
でも、その短い軽さのあとにすぐ、僕たちはまた同じ話の中へ戻る。
「澪って」
僕は少し迷ってから聞いた。
「どんな子だったか、覚えてる?」
これも難しい質問だと思う。
顔も声も思い出せないのに、「どんな子」と聞かれても困るはずだ。けれど、それでも聞きたかった。性格でも、話し方でも、何か一つでも輪郭に近いものがほしかった。
栞は答えるまでに少し時間をかけた。
「……普通だったと思う」
「普通?」
「うん」
「それじゃわかんない」
「でも本当に、最初はそういう感じだった気がする」
普通。
その言葉の曖昧さが、逆に嫌に残る。
目立つ子でも、浮いている子でも、最初から透明な子でもなかった。普通にクラスにいた。普通に話していた。たぶんそういう意味なんだろう。
「ただ」
栞が言葉を続ける。
「途中から、少し扱いづらそうだった」
「扱いづらい?」
「うん」
「どういう意味で」
「そこが、私もはっきりしない」
また断片だ。
でもその断片の方が、むしろ本物みたいに思える。人の記憶なんて、たいていそういう曖昧な印象でしか残らない。あの子は明るかったとか、静かだったとか、ちょっと面倒だったとか、近づきにくかったとか。そういうラベルみたいなものだけが、最後まで残る。
「扱いづらいってさ」
僕は自分でも意地の悪いことを聞こうとしていると思いながら言う。
「それ、本人が悪かったって意味にもなるよね」
栞はすぐに首を振った。
「そういうつもりじゃない」
「でも、クラスってそうやって整理するじゃん」
口にしてから、その言葉の冷たさに自分で少し驚く。
クラスってそうやって整理する。
明るい子、静かな子、面白い子、優しい子、面倒な子、ちょっと近づきづらい子。そういうラベルで人を見て、わかったつもりになる。僕だってその外側にいたわけじゃない。
栞は僕を見たまま、静かに言う。
「だから、記録の方がまだましなんだと思う」
「記録?」
「人の記憶は勝手に整理するから」
その言葉が、すとんと落ちた。
たしかにそうだ。
記憶は都合よく並び替わる。話しやすいように、思い出しやすいように、傷つかないように。誰か一人の存在すら、その都合の中で少しずつ薄くなっていくなら、最終的に残るのは感情だけだ。あの子は面倒だった、空気が悪くなった、来なくなった。そういう雑な印象だけ。
だから、紙に残るものを見たくなる。
「湊くん」
栞が少しだけ声を落とす。
「今、ちゃんと知りたいって思ってる?」
「……たぶん」
「思い出したいんじゃなくて?」
その問いかけは、第2章のタイトルみたいにまっすぐだった。
知りたい。思い出したい。
似ているようで、たぶん違う。
知りたいは外へ向かう。記録とか、他人の言葉とか、残されたものへ手を伸ばす。
思い出したいは内側へ向かう。自分の中のどこかに沈んでいるものを、引き上げようとする。
僕は今、どっちなんだろう。
「……両方かも」
ようやくそう答えると、栞は少しだけ困ったように笑った。
「それがいちばん大変」
「なんで」
「片方だけの方が、まだ楽だから」
その意味を、僕はまだちゃんとはわからなかった。
でも、たぶんその通りなんだろうとは思う。
もし知るだけなら、記録を追えばいい。
もし思い出すだけなら、自分の記憶と向き合えばいい。
両方やろうとすると、たぶん外と内のどちらにも言い逃れが効かなくなる。
それはたしかに、面倒で、重い。
「……今日はもう帰る」
僕は言った。
「うん」
「文集とか、しおりとか、ちょっと見てみる」
「教室の棚の一番下に、去年のがあるかも」
「ありがとう」
「見つからなくても、たぶん誰かが捨てたわけじゃないと思う」
「それ、妙に怖い言い方だな」
「そう?」
「うん」
でもたしかに、記録は誰かが意図して消さない限り、案外残るものだ。
人の口から消えても、紙には残る。
そう思うと、少しだけ救いみたいなものも感じる。
図書室を出る前に、僕は一度だけ振り返った。
栞はもう手元の作業に戻っていた。けれど、その背中には少しだけ疲れた感じがあった。たぶん彼女も、断片を話すたびに、自分の中の曖昧なものをもう一度触っているのだと思う。
廊下に出る。
放課後の校舎は相変わらず静かで、どこかの教室からだけ笑い声が聞こえてくる。その明るさと、自分が今考えていることとの落差が、今日は妙に大きかった。
教室の後ろの棚。
去年の文集。文化祭のしおり。
そういう「紙に残るもの」が、本当に何かを教えてくれるのかはわからない。たぶん、決定的な答えはないだろう。でも、少なくとも感覚だけよりはましだ。
僕はやっと、少しだけ前へ出てしまっているのかもしれない。
ただ気味が悪いと思っていた違和感を、確認したいと思い始めている。
それが正しいのかどうかは、まだわからないまま。




