第15話 花音の才能は、残酷さと紙一重
花音は、空気が悪くなる寸前の場所を見つけるのがうまい。
ただ会話がうまいとか、明るいとか、そういう一言で片づけるには少し違う。誰かが言いすぎる手前、誰かが黙り込む手前、笑いが消えて沈黙になる手前。そういう“まだ何も起きていないけれど、このままだと少し嫌な感じになる”境目を見つけて、そこへ軽口を差し込むのがうまいのだ。
前からそうだったのかもしれない。
ただ、僕がそれを「便利で明るい才能」としか見ていなかっただけで。
その日の五時間目は現代文だった。
眠くなるほど退屈な授業ではなかったけれど、みんなが心から集中しているわけでもない、いつもの午後の教室だった。窓際の席には少し傾いた光が差し込んでいて、黒板の文字の端が白く滲んで見える。先生は教科書の評論文を読みながら、「作者の言う“共同体”って何だと思う」とか、ちょっとだけ面倒な問いを投げている。
共同体。
その言葉にだけ、僕は少しだけ反応した。
最近は、そういう単語の何でもないところに変に引っかかる。教室。みんな。同じ話をしているはずの空間。誰もはっきり嘘はつかないのに、何か一つだけ同じ速度で共有されていない感じ。
共同体という語の意味を先生が黒板に書くのを見ながら、僕は無意識に教室全体へ視線を滑らせた。
前の方で、美晴が真面目な顔で板書を写している。斜め後ろでは花音が一見ちゃんと聞いている顔をしながら、たぶん半分くらいは周りの空気も見ている。一番後ろの栞は、ノートは取っているのに、どこか先生の言葉より別のことを考えているみたいにも見えた。
みんな同じ教室にいる。
でも、見ているものは少しずつ違う。
それが当たり前のはずなのに、今は妙に気持ち悪く思える。
授業が終わって休み時間になると、教室はいつものざわめきへ戻った。
六時間目の前の短い休み時間は、昼休みほど緩まず、でも授業中ほど張りつめてもいない。誰かが次の教科書を出し、誰かが飲み物を飲み、誰かがさっきの現代文の話を「まじでだるい」と雑にまとめる。そのくらいの温度が僕は好きだった。好きだった、という方が正しいのかもしれない。最近は、その“ちょうどよさ”の中にも少しずつ別のものが混ざって見えるから。
そのとき、教室の中央あたりで、小さな険悪さが生まれかけた。
きっかけは本当にどうでもいい話だった。
文化祭のクラス企画について、男子の一人が「どうせまた去年みたいな無難なやつになるんだろ」と言い、別の女子が「じゃあ自分で案出せば」と返した。そこまでは普通の応酬だ。どのクラスでもある。でも、その男子が少しだけむっとした顔で「そういう言い方なくない?」と返した瞬間、空気がほんの少しだけ細くなった。
大喧嘩になるほどじゃない。
でも、そのままだと何人かが気まずい顔をして、数分だけ居心地の悪い空気が残る程度には、嫌な線へ入っていく感じ。
そのときだった。
「じゃあさー」
花音が、まるで最初から話の続きを用意していたみたいな明るさで口を挟んだ。
「無難なの嫌なら、“無難じゃないけど絶対先生に怒られる案選手権”やろうよ」
一瞬、何人かがぽかんとした。
でも花音はもう止まらない。
「はい一位、教室全部暗くしてホラー迷路。二位、職員室前で屋台。三位、先生を一日執事化」
「最後ただの願望だろ」
誰かがすぐに笑う。
「いやでも、国語の先生ならちょっと似合いそうじゃない?」
「似合うのが腹立つ」
「ていうか職員室前で屋台は怒られる以前に出禁でしょ」
笑いが起こる。
さっきまで少し尖りかけていた男子も、「執事は無理だろ」と口元を緩めていた。女子の方も溜息をつきながら「はいはい、次の授業始まるから」と空気を戻す側へ回る。
たったそれだけで、その場の険悪さは消えた。
きれいに。驚くほどきれいに。
僕はその様子を窓際の席から見ていて、素直にすごいと思った。
やっぱり花音はうまい。場が沈む前に、誰も傷つけない形で別の方向へ話を転がせる。空気が悪くなるよりずっといいし、実際、そのおかげで助かっている場面は多いはずだ。
でも同時に、別のことも思ってしまった。
こうやって流されたものの中に、水崎澪のこともあったんじゃないか。
思った瞬間、自分でその考えを打ち消した。
飛躍しすぎだ。
今のやりとりは、ただの教室の小さな空気の修復だ。むしろ花音がいなければ、誰かが嫌な気分のまま六時間目を迎えていたかもしれない。善意ですらある。そこに、水崎澪を重ねるのはあまりに乱暴だ。
なのに、乱暴だと思いながらも、その連想だけが消えなかった。
何かが険悪になる前に笑いへ変える。
誰かが言いすぎる前に別の話題を差し込む。
その技術は、日常を守るために役立つ。
でももし、“ちゃんと止まるべき話”まで同じように流してしまったらどうなるんだろう。
その問いは、僕の中で嫌な形のまま残った。
六時間目が終わって、教室はまた放課後の顔になる。
文化祭の話題はそのまま少しだけ続いていて、さっきのやりとりに出てきた「先生を執事化」がなぜか妙に受けていた。花音は「だから国語の先生だって」と笑い、美晴は「絶対嫌がるに決まってるでしょ」と呆れながらも少し笑っている。
普通の放課後だ。
少なくとも、外から見れば。
「湊」
斜め後ろから花音に呼ばれる。
「なに」
「さっき見てたでしょ」
「何を」
「私の華麗なる空気修正術」
「自分で言うんだ」
「だって事実じゃん?」
彼女は悪びれずに笑う。笑顔が本当に軽いから、こっちも深刻な顔をしづらい。
「まあ、すごいとは思った」
「お、珍しく素直」
「実際助かったでしょ、あれ」
「でしょー?」
花音は満足そうに机へ頬杖をついた。
「なんかさ、ああいうの苦手なんだよね。空気悪いまま残るの」
その言葉に、僕は少しだけ引っかかった。
「苦手?」
「うん」
「橘さんって、そういうの気にしないタイプかと思ってた」
「何そのイメージ」
「いや、もっと“まあいっか”で乗り切る感じというか」
「乗り切るよ。だから変えるの」
花音はそう言って、少しだけ肩をすくめる。
「空気悪いとめんどくさいじゃん」
めんどくさい。
その一言は、正直すぎて逆に本当なんだろうと思った。
善悪とか正しさじゃなくて、ただ空気が悪いのが嫌。嫌だから笑える方向へ持っていく。花音の才能の芯には、案外そういう実用的な感覚があるのかもしれない。
「でも、それってすごくない?」
僕は言った。
「誰でもできることじゃないし」
「まあね」
「自分で言うんだ」
「二回目」
彼女はくすくす笑う。
笑っているのに、その横顔を見ていると、少しだけ別のことを聞きたくなる。
たとえば――。
「じゃあさ」
気づけば、口が先に動いていた。
「流しちゃいけない話まで、流したことないの?」
言った瞬間、自分で少し驚いた。
かなり直接的だ。しかも、ほとんど花音を責めるみたいな聞き方になっている。
でも花音は、すぐには顔をしかめなかった。
一度だけ目を瞬かせて、それから笑いを少しだけ薄くする。
「何それ」
「いや、別に」
「別に、じゃないでしょ今のは」
正論だった。
僕は言葉を探す。でも、うまい言い換えなんて思いつかない。
「……なんか、最近そういうこと考えるから」
曖昧なままそう言うと、花音は僕を見た。
その視線は、いつもの“観察してるだけ”の軽さより少しだけ深い。
「湊ってさ」
彼女は小さく言った。
「変なこと気にしてるなら、あんまり掘らない方がいいよ」
前にも聞いた言葉だった。
でも今日は、前より少しだけ輪郭がはっきりしていた。
「なんで」
僕がすぐに聞き返すと、花音は一瞬だけ黙った。
ほんの一瞬。けれどたしかに、そこには選んでいる間があった。何を言うか、どこまで言うか、その境界を見ているみたいな間。
それから彼女は、いつもの笑顔を少しだけ戻して言った。
「ほら、湊って考えすぎると顔死ぬから」
「それ、前にも言った」
「便利な言葉だから何回でも使います」
「逃げてる?」
「うん、ちょっと」
あっさり認められてしまって、逆にそれ以上追いづらくなる。
花音は机の上に置いたペンを指で転がしながら続けた。
「別にね、湊が何考えてるか全部わかるわけじゃないよ」
「うん」
「でも、最近ちょっと変なのはわかる」
「みんな言うな、それ」
「だって変だし」
花音はさらっと言う。
「なんかさ、教室の中にいるのに、たまに違う場所見てる感じ」
その表現は、美晴の言い方と少し似ていた。
置いていかれる感じ。違う場所を見ている感じ。
つまり、僕の変化は、少なくとも二人には同じ方向で見えていることになる。
「で」
花音は少しだけ笑う。
「そういうときの湊、たぶん止まらないタイプじゃない?」
「何が」
「気になったら、ちゃんとわかるまで気にするタイプ」
「いや、むしろ逆だと思うけど」
「普段はね」
彼女は言う。
「でも今は、たぶん普段じゃない」
その一言に、反論できなかった。
普段の僕なら、こんなに教室の空気や去年の写真や記録のことを気にしない。気にしたとしても、もっと早く「気のせい」で終わらせる。なのに今は、そこから少しずつ前へ出てしまっている。
花音はそれを見ている。
全部は知らなくても、見ている。
「だから、掘らない方がいいって?」
僕が聞くと、花音は少しだけ目を細めた。
「……うん」
今度は、軽くなかった。
それだけに、かえって怖い。
「橘さんって、何か知ってるの」
できるだけ自然に聞いたつもりだったけれど、たぶん少しだけ硬かったと思う。
花音はすぐには答えない。
廊下では誰かが笑っていて、教室の中でもまだ数人が残っている。美晴は前の方で友達と話していたけれど、ふとこちらを見た気がした。栞は一番後ろで本を鞄に入れている。
その普通の放課後の真ん中で、花音だけが少し違う顔をしていた。
「知ってるっていうか」
彼女は言った。
「たぶん、みんなよりちょっと見てた、くらい」
「何を」
「教室の空気」
その答えは、花音らしすぎて逆に息が詰まる。
人の顔色じゃない。誰が悪いかでもない。教室の空気。
彼女にとって一番大事で、一番見えていたもの。
「……それってさ」
僕は言いかけて、でも最後まで続けられなかった。
教室の空気を守るために、何かを流したことがあるのか。あるいは、その空気が誰か一人を消していくのを見ていたのか。そう聞いてしまうには、今の僕にはまだ材料が足りない気がした。
花音はその言いかけを見逃さなかったと思う。
でも、彼女もそこで踏み込まなかった。
「ほら」
また、笑いへ戻る声。
「今の湊、完全に難しい顔してる。似合わないって」
「似合う似合わないの問題かな」
「大問題です」
そう言って、彼女はすっと立ち上がった。
「私、部活あるから行くね」
「うん」
「あと」
花音は少しだけ振り返る。
「空気悪くするのって、悪い人だけじゃないからね」
その一言を残して、彼女は教室を出ていった。
軽い足音。いつも通りの背中。明るい子のままの姿。
でも、最後に置いていった言葉だけがやけに重い。
空気を悪くするのって、悪い人だけじゃない。
たぶんそれは正しい。
誰かが明確にいじわるをしたからだけじゃなく、誰かが疲れていたり、誰かが言葉を選べなかったり、誰かが場を軽くしようとして失敗したり。そういう小さなことで、教室の空気なんて簡単に悪くなる。
そして逆に、その空気を守ろうとすることもまた、いつだって正しいとは限らない。
僕は窓際の席に座ったまま、しばらく動けなかった。
花音の才能は、やっぱりすごいのだと思う。誰かを助けるし、場を守るし、教室を明るくする。でもその明るさは、ときどき“止まるべき話”まで流してしまう力でもあるのかもしれない。
そう考えるのは、たぶん残酷だ。
でも、それが残酷だと感じること自体が、もうこの教室を前みたいには見られなくなっている証拠でもある。
前の方で、美晴がまたこちらを見ていた。
今度は少しだけ眉を寄せている。たぶん、花音と僕の会話の全部は聞こえていなくても、何かの温度だけは感じ取っているんだろう。
一番後ろでは、栞が静かに本をしまい終えていた。
誰も派手に何かを壊してはいない。
でも、誰かを守るのと同じくらい自然に、誰かを見えなくすることもできる。
そのことを、今日の僕は少しだけ理解してしまった気がした。




