第16話 水崎澪の席はどこだったのか
教室という場所は、思っている以上に体で覚えている。
どの席から先生の声が聞き取りやすいとか、どの窓際が冬に一番寒いとか、どの列だと黒板の反射が目に入るとか。そういう細かいことを、僕らはわざわざ言葉にしないまま覚えている。毎日同じ場所で同じように座って、同じように立って、同じように振り向いているうちに、体の方が先に教室の形を覚えるのだ。
だからたぶん、違和感も先に体が拾う。
その日の朝、僕はいつものように窓際の席へ鞄を置いて、椅子を引いた。机の脚が床を軽く擦る。座る。膝が机の裏に当たる感覚。右手側に窓。前には誰かの背中。横目で見れば、教室全体が一応見渡せる。
その瞬間、また思ってしまった。
この席には、誰かがいない感じが似合いすぎる。
自分でも変な感覚だと思う。
空席じゃない。今はちゃんと僕が座っている。前にもそう思った。窓際の後ろ寄り、この位置に人がいない教室の景色を、僕は何度か勝手に思い浮かべてしまう。夕方の光だけが差し込んで、机と椅子が静かに並んでいて、そこだけが妙に明るい風景。
別にそんな記憶があるわけじゃない。あるわけじゃないはずなのに、体のどこかが「その景色を知っている」みたいな顔をする。
「湊」
前から美晴の声がした。
「またぼーっとしてる」
「朝から厳しいな」
「今日は特に」
彼女は振り返って僕の顔を見て、それから少しだけ視線を窓際へ流した。
「その席、やっぱり似合うね」
「みんなそれ言うな」
「だってそう見えるし」
「ぼーっと外見てる人って意味で?」
「半分は」
「もう半分は?」
「……そこにいるのが自然って意味」
その言い方に、少しだけ引っかかった。
そこにいるのが自然。
たしかに今の僕はこの席に慣れてきている。けれど、その「自然さ」の中には、昨日まで感じていた別の違和感も含まれている気がした。
そこにいるのが自然。
では、その前にここにいた「自然」は誰のものだったんだろう。
ホームルームが始まって、授業が始まっても、その考えは頭の隅から消えなかった。
黒板に書かれる数式や年号や英文を見ながら、僕は時々視線を机の並びへ滑らせる。前列、中央列、廊下側、窓際。出席番号順の並び。席替えで変わった座席。去年の今ごろはどうだったか、なんて、本来なら考える必要もないことばかりが気になる。
水崎澪は、どこに座っていたんだろう。
その問いが、最近のどんな疑問よりも生々しく思えた。
名前だけが先に戻ってきて、顔も声も思い出せない。なら、せめて場所だけでも思い出せたら、何かが一つ繋がるんじゃないか。そういう期待が、たぶんあった。
昼休み、教室の後ろの棚から去年の文化祭しおりや文集を探そうと思っていたのに、実際には思うように動けなかった。誰かがその前で雑談していたり、掃除用具を取りに来たり、花音が突然「ねえこれ見て」と動画を見せてきたり。学校の中では、重大なことほどどうでもいいことで簡単に中断される。
でも、そのどうでもよさが少しありがたくもあった。
いざ記録に手を伸ばす直前になると、自分でも少し怖くなるからだ。
記録に残っていたらどうするんだろう。
逆に、何も残っていなかったらどうするんだろう。
どちらにしても、今より少し進んでしまう気がする。
「湊、今日ほんと上の空だね」
花音が購買のパンを片手に僕の机へ寄りかかる。
「最近ずっとそれ言われてる」
「だって事実だし」
彼女はパンの袋をくしゃっと折って、僕の視線を追うように教室の中を見回した。
「また見てる」
「何を」
「教室」
「教室はみんな見てるでしょ」
「そういう意味じゃなくて」
花音は少しだけ首を傾げる。
「湊、最近“自分の席から見える教室”じゃなくて、“教室そのもの”見てる感じする」
その言い方が妙にうまくて、僕は一瞬返せなかった。
自分の席から見える教室。
教室そのもの。
たしかにそうかもしれない。前は、自分がその中にいて、誰と話すか、どこを見るか、そのくらいの狭い範囲で教室を捉えていた。今は、もっと外側から見ている。机の並びとか、話題の流れとか、誰がどの場所にいるのかとか。
「観察日記でもつける?」
花音が軽く笑う。
「向いてなさそう」
「僕もそう思う」
そこで会話は流れた。
流れたけれど、“教室そのものを見ている”という言葉だけは残った。たぶん花音は、深い意味では言っていない。でも最近の彼女の軽口は、妙に本質の近くへ触れることがある。
午後の授業が終わって、放課後になる。
終礼のあと、みんなが少しずつ立ち上がる。椅子を引く音。机を戻す音。部活の声。帰る支度。日常の音が教室を埋めているのに、僕はしばらく席を立たなかった。
今の自分の席から、教室を眺めてみる。
前の方に美晴。斜め後ろに花音。最後列に栞。廊下側の列では男子がまだゲームの話で笑っている。教壇の横の掲示は少し剥がれかけていて、窓際のカーテンは風でわずかに揺れている。
普通だ。
普通の教室。
でもこの「普通」のどこかに、水崎澪の居場所があったはずなのだと思う。
そのとき、不意に一つの考えが浮かんだ。
出席番号順なら、だいたいの位置がわかるんじゃないか。
去年も今と同じく、ある程度は番号順で並んでいたはずだ。もちろん席替えで多少動いているだろうし、記憶は曖昧だ。でも、まったく手がかりがないよりはましだ。
水崎澪。
みずさき、みお。
頭の中で五十音順をなぞる。自分の「水野」の近く。たしかにかなり近い。姓の並びだけで言えば、今の僕の位置とそこまで離れない可能性は高い。
その瞬間、窓際の席の違和感がもう一度浮かび上がった。
もし、僕の近くにいたのだとしたら。
もし、この窓際の列に彼女の席があったのだとしたら。
その考えは、妙に自然に思えた。
自然すぎて、逆に怖い。
「……何してるの」
後ろから声がして振り返ると、栞が鞄を持ったまま立っていた。
「いや、ちょっと」
「席から教室見てた」
「そんなふうに見える?」
「うん」
彼女はあっさり言う。
「何かわかった?」
「わかったってほどじゃないけど」
僕は少し迷ってから、小さく聞いた。
「水崎澪って、どこに座ってたと思う?」
その問いは、思ったより直接的だった。
けれど栞は驚かなかった。少しだけ視線を教室の中へ巡らせ、それから僕の席の横、窓際の列へと目を止める。
「たしか……」
そこで言葉を切る。
「覚えてる?」
「ちゃんとじゃない」
その前置きのあとで、彼女は続けた。
「でも、窓際の方だった気がする」
胸の奥が、少しだけ冷えた。
やっぱり、と思ったのか。
それとも、自分の違和感が本当に違和感ではなくなってしまったことに驚いたのか。
自分でもよくわからなかった。
「後ろ?」
僕はさらに聞く。
栞は少しだけ首を傾げる。
「後ろ寄り……だったかも」
曖昧だ。曖昧なのに、その曖昧さが嫌に現実的だった。人は本当にどうでもいい細部ほど曖昧に覚えている。でも、その曖昧さの方向だけは正確だったりする。
窓際。
後ろ寄り。
今の僕の席の近く。
それだけで、体のどこかが先に納得してしまう感じがした。
「なんでそんなこと気になるの」
栞が聞く。
「……わかんない」
本当だった。
「でも、この席にいると変なんだよ」
「変?」
「なんか……」
言葉を探す。
「ここだけ、空いてる感じが残ってる」
口にした瞬間、自分で馬鹿みたいだと思った。
席は空いていない。ちゃんと僕が座っている。なのに空いてる感じがするなんて、説明としてはほとんど成立していない。
でも栞は笑わなかった。
「そう」
とだけ言う。
「笑わないんだ」
「変じゃないと思うから」
その返事に、今度は僕の方が驚いた。
「変じゃないの?」
「教室って、人のいた場所をけっこう残すよ」
栞は静かな声で言った。
「物じゃないのに、不思議だけど」
その言葉は、たぶん栞なりの本音なんだろうと思った。
図書室で本や記録に近い彼女は、たぶん空間にも少し敏感なんだ。どの棚に何があったとか、どの席に誰がよくいたとか、そういう“場所に残る人の気配”を、僕より少しだけ信じている。
そして今の僕は、その感覚にすがりたいのかもしれない。
証拠とは言えない。
記録でもない。
でも、体の違和感は嘘をつかないこともある。
「……やっぱり、ここだったのかな」
僕が窓際の机を見ながら言うと、栞はすぐには答えなかった。
たぶん彼女も断定したくないのだ。ここで「そうだよ」と言い切るには、まだ何も足りないから。
「かもしれない」
それだけだった。
「でも、場所から思い出すこともあるよ」
「何を」
「自分が何を見てなかったか」
その一言が、妙に深く刺さる。
場所から思い出す。
ただ懐かしい記憶じゃない。自分がその場所で何をして、何を見て、何を見なかったかまで含めて、場所は人の記憶を引きずり出す。
もしここが本当に水崎澪の近くだったなら。
もし僕がその近くにいて、でも何も覚えていないのだとしたら。
それは、単に忘れただけなんだろうか。
それとも、見ていなかっただけなんだろうか。
「湊」
今度は前の方から美晴の声が飛んできた。
振り向くと、教室の出口近くで立ち止まってこちらを見ている。もう帰るつもりだったのだろうけど、僕と栞が窓際で話しているのが視界に入って、そのままになっていたらしい。
「まだ帰らないの?」
「今行く」
僕が答えると、美晴は一度だけ頷いた。
でも、その視線はほんの少しだけ僕の席に落ちた。今僕が立っている窓際の机。その位置を、彼女も一瞬だけ見た気がした。
気のせいかもしれない。
でも最近は、その“気のせいかもしれない”に前ほど自信が持てない。
栞が小さく言う。
「行けば」
「うん」
僕は鞄を持ち上げる。
教室を出る前に、もう一度だけ自分の席を見る。夕方の光が机の端を白くしている。誰もいない時間の方が似合いそうな窓際。そこに今は僕の鞄があり、僕の椅子があり、僕の存在がある。
でも、どこかでまだ一人分だけ、残響みたいなものが漂っている気がした。
教室という場所は、何も言わない。
机も窓も黒板も、何も教えてはくれない。
それでも、何かだけは残している。
人が語らないぶん、場所の方が先に思い出し始めることがあるのかもしれない。




