第17話 文化祭の話ができない理由
文化祭準備というものは、本来もっと浮ついたもののはずだ。
どんな企画にするか、誰が中心になるか、クラスTシャツの色はどうするか、模擬店は通るのか、ステージ系は面倒か、映えるか、だるいか。そういう、少しだけ真面目で、でも根っこはかなり気楽な話を、みんなでわいわいするのが文化祭前の教室だと思っていた。
少なくとも去年までは、たぶんそうだったのだろう。
――たぶん、という言い方しかできないのが、もう少し気持ち悪い。
その日の六時間目は、ついに文化祭のクラス企画を本格的に決める時間に充てられた。
担任は黒板の前で腕を組みながら、「はい、じゃあ今年はそろそろ本気で案出していけ」と言い、委員の名前を軽く確認したあと、あとはほとんどクラスへ丸投げした。こういうときの教師は、驚くほど生徒たちの“勝手に盛り上がる力”を信じている。
そして実際、教室はちゃんと盛り上がった。
「模擬店は?」
「うちのクラス、去年やってなくなかった?」
「え、去年何やってたっけ」
「展示系じゃなかった?」
「いや、なんかもうちょい動きあった気がする」
その会話の最初の数秒で、僕はもう少しだけ嫌な予感がしていた。
去年何やってたっけ。
普通なら、もっとすっと出てくるはずの話だ。文化祭なんて一年の中でも大きめの行事だし、自分のクラスが何をやったかなんて、たとえ細部は忘れても大枠くらいは共有されていていい。
なのに、教室のあちこちで出てくる答えが妙にぼやけている。
「縁日っぽいやつじゃなかった?」
「それ一組じゃない?」
「あ、じゃあお化け屋敷?」
「いや、それ絶対違う」
「え、何だったっけ」
笑いながら話している。みんな本気で困っているようにも見えない。たぶん、少し前の僕ならこれを普通の“高校生あるある”として流していたと思う。去年のことなんて案外覚えていないものだ、と。
でも今は、その曖昧さが別のものに見える。
単に忘れているのではなく、何かの周りだけが不自然にぼやけているような。
「去年の記録、残ってないの?」
誰かが聞くと、委員の女子が「たぶんあるけど、探さないと」と答える。そこで花音がすぐさま手を挙げた。
「じゃあ今年は“去年を越える”ってことで、逆に去年何やったか知らない状態から始めるのも面白くない?」
「何その雑な前向きさ」
「でも橘っぽい」
「とりあえず面白ければいいって思想」
「大事でしょ、文化祭なんて」
その軽さで、会話は一度笑いへ流れる。
やっぱり花音はうまい。
うまいと思うと同時に、僕はまた前と同じことを考えてしまう。ちゃんと止まるべき話まで、こうやって軽く流されてきたんじゃないか。いや、今のは本当にただの雑談だ。花音に悪意はない。たぶんない。
でも、悪意がないことと、何もこぼれないことは、別なのかもしれない。
教室の前方では、美晴が友達と何かを話しながら、時々こちらを見ていた。僕が今どんな顔でこの会話を聞いているのか、たぶん少し気にしているんだろう。あの日、自販機の前で話してから、美晴の中ではたぶん「今の湊は何かに引っかかっている」が完全に確定している。
その正体を教えないままにしているのは、やっぱり後ろめたかった。
「湊、何か案ある?」
委員に急に話を振られて、僕は我に返る。
「え、案?」
「うん。今年の企画」
「いや……無難に展示でも」
「つまんな」
花音が即座に言う。
「湊のそういうとこ、今だけは嫌い」
「今だけ?」
「今は文化祭前だから」
笑いが起きる。僕も少しだけ笑う。
そのとき、前の方の席で男子の一人が何気なく言った。
「でも去年、中心で回してたやつ誰だっけ。ああいう仕切れるやついないとだるいよな」
その一言で、また空気が少しだけ鈍った。
今度は前よりわかりやすかった。
ほんの一瞬。ほんの数秒のことなのに、教室の中の何人かの視線が、同じようにどこにも着地しない感じになる。誰かの名前が出そうで出ない。あるいは、出してはいけない何かの縁に足がかかったみたいな。
「え、たしか……」
別の男子が言いかけて止まる。
「誰だっけ」
女子の一人が首を傾げる。
「委員長っぽい人いたよね」
「いたっけ?」
「なんか、いたような」
その「あったような」の連続が、異様に聞こえる。
去年の文化祭の中心人物。クラス企画を回していた誰か。普通なら、名前が一つも出てこない方がおかしい。なのに、今ここにいる何人かは確実に“何か”を知っている感じがするのに、それが誰も言葉にならない。
「まあでも」
花音が、やっぱりというタイミングで声を上げる。
「今年は今年でいいじゃん。去年の中心人物とか、今思い出しても仕方ないし」
その言い方はいつも通り明るい。
でも、今の僕には、その“仕方ないし”の軽さが少しだけ怖かった。
仕方ない。
思い出しても仕方ない。
話しても仕方ない。
そうやって、いろんなことが流されてきたんだろうか。
「いや、でも参考にはなるでしょ」
珍しく、美晴がそう言った。
教室の前方で、彼女は少しだけ眉を寄せている。怒っているわけではない。でも、今の流し方に対してほんの少しだけ引っかかった顔だった。
「去年の準備で何が大変だったとか、そういうの知ってた方が楽じゃない?」
「それはそうだけど」
花音が笑いながら答える。
「でも、過去振り返りすぎるとめんどくさくない? 今年やること決めた方が早いって」
理屈としては、間違っていない。
文化祭準備の時間なんて限られているし、過去の曖昧な記憶を掘り返しているよりは、今目の前の企画を決めた方が話は進む。花音の言い方は、いつもそうだ。表面上の正しさとテンポの良さがあるから、誰も正面から止めにくい。
でも今の美晴は、それで納得していない顔をしていた。
「早いけど」
彼女は言う。
「変じゃない? 去年のこと、みんな妙に覚えてなくない?」
その一言に、僕の心臓が少しだけ強く鳴った。
美晴はここまで来たのか、と思う。
僕が何も言わなくても、自分でその違和感へ触れ始めている。しかもそれを、教室の中で口にした。
花音も、一瞬だけ表情を止めた。
本当に、一瞬だけ。
でもそのあとにはもう、いつもの顔へ戻っている。
「高校生なんてそんなもんじゃない?」
笑いながら言う。
「去年のこととか普通に忘れるって。私だって体育祭の細かい順番とか覚えてないし」
「細かい順番の話じゃなくて」
美晴は続けかけて、そこで少しだけ言葉を失った。
たぶん彼女自身も、何が変なのかをまだうまく説明できないんだろう。去年の文化祭の話題になるたび、どこか一人分だけ記憶の輪郭が歪む感じ。でも、それを証明できるほど具体的な何かはまだ掴めていない。
だからこそ、ここで押し切られる。
「じゃあとりあえず、今年どうするかでよくない?」
誰かがそう言い、花音が「そうそう」と笑って頷く。別の女子が「模擬店やりたい」と手を挙げ、男子が「展示は地味」と言い出す。会話はまた前へ転がり始めた。
去年の話は、そこまでだった。
いや、“そこまでにされた”のかもしれない。
僕はその流れを、窓際の席からほとんど動けないまま見ていた。
今のは、たぶんすごく小さなことだ。文化祭準備の中で、去年の話題が数十秒だけ宙に浮いて、それから今年の話へ移った。それだけ。
でも、その数十秒の間に、確かに何かが見えた気がする。
みんなが本当に覚えていないのではない。
覚えているものの形が、そこだけうまく言葉にならないのだ。
そしてその“言葉にならなさ”を、花音みたいな子が自然に今年の話へ流してしまう。悪意なく。効率的に。教室が嫌な空気にならないように。
それはたぶん、日常を守るには正しい。
でももし、その結果として一人分の記憶が薄くなっていったのだとしたら。
「湊」
声がして顔を上げると、栞が一番後ろの席からこちらを見ていた。
六時間目はまだ終わっていない。文化祭企画のざわめきの中で、彼女だけが少し離れた温度にいる。
「何」
小さく口の形だけで返すと、栞は黒板の方ではなく、教室全体をほんの少しだけ見回してから、視線をこちらへ戻した。
何も言わない。
でも、その一瞬の目線だけで、彼女も同じものを見ていたのだとわかった。
去年の文化祭の話ができない理由。
それは、単に記憶力の問題じゃない。
そこに何か、うまく話せないものがあるからだ。
授業終わりのチャイムが鳴る。
結局その日は、今年の企画としていくつか案が出ただけで終わった。模擬店案、展示案、体験型案。どれも普通だ。どれも今のクラスに似合う。先生が「じゃあ次回までにもう少し絞っとけ」と言い残し、みんなは「はーい」と適当に返す。
放課後、教室の中はまた明るかった。
「私、絶対模擬店がいい」
「え、でも準備だるくない?」
「だるいけど文化祭っぽいし」
「展示なら楽なのに」
「湊、それ三回目」
花音が笑う。美晴も小さく笑う。周りの何人かがそれに乗る。
普通の放課後だ。
誰も泣いていない。怒ってもいない。責めてもいない。明るくて、少しだらけていて、文化祭の話で盛り上がる高校生の教室。
でも、今の僕にはもう、その明るさが少し怖い。
何も壊れていないからこそ。
何も壊れていない顔のまま、一人分の記憶だけが歪んでいるからこそ。
「湊」
前の方から美晴が呼ぶ。
「今日も遅い?」
「いや、たぶんそんなに」
「またその言い方」
彼女は呆れたように言って、それから少しだけ声を落とした。
「……さっき、変だったよね」
何のことかは、わざわざ言わなくてもわかった。
去年の文化祭の話題が宙に浮いたあの一瞬のことだ。
「うん」
僕も小さく答える。
「やっぱりそう思う?」
「思う」
美晴はそこで一度だけ唇を噛むみたいにして、それから言った。
「私、たぶん前はこういうの気づいてなかった」
「今は?」
「今は……湊が変だから、逆に見えるようになったのかも」
それは責める言い方じゃなかった。
事実の報告みたいな声だった。
僕が変だから、逆に見えるようになった。
つまり、美晴の中でももう何かが始まってしまっている。僕が見てしまったものの一部を、彼女もまた見始めている。
それが少しだけ、申し訳なかった。
「ごめん」
また気づけばそう言っていた。
美晴は小さく首を振る。
「だから、謝らなくていいって」
そう言ったあとで、彼女は教室の中を見回した。
花音が誰かと笑っている。栞は静かに荷物をまとめている。周りではまだ文化祭の話が続いている。
「でも」
美晴は小さく言う。
「なんで去年の話、あんな感じになるんだろうね」
その問いに、僕は答えられなかった。
答えられないということ自体が、もう答えの近くにいる気がした。
去年の文化祭に、水崎澪がいたのだ。
ただの背景ではなく、誰かの記憶が妙に止まるくらいには、そこにいた。
最初から透明だったわけじゃない。
途中から、透明にされていったのだ。
その認識だけが、放課後の明るい教室の中で、静かに沈んでいった。




