第18話 担任は知っている、でも教師としてしか答えない
大人に聞けば、少しは輪郭がはっきりするんじゃないか。
そんなふうに思ったのは、たぶんかなり安直だった。
でも、教室の中で何かが不自然に曖昧なまま流されていくのなら、せめて教師だけは別なんじゃないかという期待は、どこかにあったのだと思う。生徒同士が気まずさや空気に引っ張られるのはわかる。話さない方が楽なこともある。けれど担任なら、少なくとも「何があったか」を整理して知っているはずだし、教師として必要な説明くらいは覚えているはずだ。
それは、今まで学校という場所に対して何となく持っていた信頼でもあった。
だからその日の放課後、職員室へ向かう廊下を歩きながら、僕は少しだけ緊張していた。
真正面から聞くつもりはない。
まだそこまでの勇気はないし、聞き方としても変だと思う。いきなり「水崎澪って誰ですか」と聞いてしまえば、相手も構えるだろうし、僕自身もたぶんその場で引き返したくなる。
だから、遠回しに聞くつもりだった。
去年の文化祭の記録とか、クラス人数のこととか、写真のフォルダの件とか。そういうところから入れば、少なくとも会話としては自然に始められるはずだ。
……自然に始められるはずだ、なんて思っている時点で、かなり無理があるのかもしれない。
職員室の前まで来ると、ガラス越しに先生たちの動きが見えた。プリントを揃えている人、電話に出ている人、パソコン画面を睨んでいる人。どこの学校の職員室もたぶん似たようなものだ。夕方の職員室は、忙しいというより、細かい仕事がずっと終わらないまま続いている場所に見える。
その中に担任を見つける。
自分の机で何かの書類を見ていた。ネクタイを少し緩めていて、眼鏡を外しかけたままペンを走らせている。教室にいるときより少しだけ人間っぽい顔だ、とどうでもいいことを思った。
職員室に入る。
失礼します、と声を出す。
何人かの先生が反射でこちらを見て、また自分の仕事へ戻る。
「水野? どうした」
担任が顔を上げる。
ここで変に言いよどむと、それだけで不自然だ。僕はできるだけ普通の顔をして近づいた。
「ちょっと聞きたいことがあって」
「進路相談にしちゃ早いな」
「そういう重いやつじゃないです」
「じゃあ軽いやつか」
担任は軽口のつもりで笑って、椅子にもたれた。
その緩さに少し助けられる。少なくとも最初の入りは自然だ。
「この前、教室のパソコンで去年の行事写真開いてたじゃないですか」
「ああ、文化祭のときの」
「その、去年のクラス企画って結局何やってたんでしたっけ」
自分でも少し遠回しすぎると思った。でも今はこれくらいでいい。
担任は少しだけ目を細めて、机の上の書類をどけた。
「去年? えーと……」
そこで一拍、間が空く。
その間は、教室で誰かが言いよどむときのものと似ていた。ほんの少しだけ。でも確かに、何かを探しているというより、言い方を選ぶ間。
「展示寄りの企画だったな」
やがて担任はそう言った。
「文化祭ってより、参加型の教室イベントみたいなやつ。結構手間かかった記憶はある」
「誰が中心だったんですか」
続けて聞くと、担任はまた少しだけ表情を止めた。
「なんでそんなこと聞くんだ?」
「今日、クラスで去年の話になって」
ここは嘘じゃない。
「みんな妙に覚えてなくて。誰が仕切ってたとかも曖昧だったんで、先生なら覚えてるかなって」
担任はしばらくこちらを見ていた。
その視線に、探る感じはなかった。でも、ただの雑談として受け流すには少し真っすぐすぎる視線だった。
「去年のことを今さら掘り返しても、あんまり意味ないぞ」
その返しは、穏やかだけれど少しだけ硬かった。
僕は心の中で小さく息を止める。
意味ない。掘り返す。
その言葉の選び方が、最初から少しだけ防御的だった。
「いや、別に深い意味はなくて」
「水野」
担任が僕の言葉を軽く遮る。
「学校ってのは、毎年いろいろあるんだよ」
その言い方は、教師っぽかった。
抽象的で、間違っていなくて、でも中身がない。もしくは中身をあえて消している言い方。
「行事の成功失敗もあるし、人間関係もあるし、途中で状況が変わることもある。全部いちいち振り返ってたら前に進まない」
「……でも」
僕はそこで少しだけ声を落とした。
「クラスの人数って、途中で変わったりしました?」
担任の手が、今度こそはっきり止まった。
ペン先が書類の上で止まる。
目線が一瞬だけ書類へ落ちる。
そのあと、また僕の方を見る。
「どういう意味だ?」
「いや」
喉が少し乾く。
「写真見てて、なんか……よくわからなくなって」
「何が」
「その、去年のクラスって、今と同じ人数だったのかなって」
かなり苦しい聞き方だと思った。自分でもそう思う。けれど、今の僕にできるのはそのくらいだった。水崎澪の名前を出す一歩手前まで近づいて、でもまだ最後は言えない。
担任はしばらく答えなかった。
職員室の奥では電話の音が鳴っている。誰かが「はい、二年B組担任です」と出る声が聞こえる。コピー機の駆動音もした。周りは普通に夕方の仕事を続けているのに、僕と担任のあいだだけ、少しだけ別の時間になっている気がした。
「水野」
担任はようやく言う。
「今いるクラスを大事にしろ」
それは答えじゃなかった。
でも、答えではないからこそ、妙に重かった。
「……それ、どういう」
「過去のことを無闇にほじくるなってことだ」
今度は少しだけはっきりしていた。
教師らしい口調ではある。乱暴ではないけれど、これ以上は踏み込ませない線を引く声。
「いろいろ事情があることもある。全部が全部、お前らに説明されると思うな」
胸の奥が少しだけ冷える。
事情。
全部説明されるわけじゃない。
無闇にほじくるな。
つまり、何かはあるのだ。
たとえそれが何なのかを今ここで言わなくても、「何もない」のならこんな言い方にはならない。
「でも先生」
自分でも驚くほど、声が素直に出た。
「何も知らないままなの、変じゃないですか」
担任は少しだけ目を細めた。
「何も知らないままでいいこともある」
「知らない方がいいってことですか」
「そうだ」
即答だった。
その速さに、逆に少しだけ苛立ちが湧く。
「なんで」
「水野」
担任は今度こそ、教師の声で僕の名前を呼んだ。
「お前は真面目だから、余計なことまで抱えるタイプだ」
その言い方は、少しだけ意外だった。
真面目。
僕は自分をそう思ったことがあまりない。むしろ適当に流して、波風立てないでやってきた方だ。けれど担任の目には、今の僕がそう見えているのだろうか。
「抱えなくていいことまで抱えるな」
担任は続ける。
「今のクラスで、お前がやるべきことは今のことだ」
それは、教師としては正しいのかもしれない。
目の前の学校生活。今いるクラス。これからの文化祭。受験や進路。そういう「今」に集中しろというのは、たしかに教育的には妥当だ。
でも、その正しさの中に何かが丸ごと埋められているように思えて、僕は黙れなかった。
「じゃあ、去年のことは」
「必要なら大人が処理する」
また、正しい言葉だった。
大人が処理する。
事情がある。
過去は掘り返すな。
今を大事にしろ。
どれも間違っていない。だから反論しづらい。
でも、どれ一つとして僕の質問には答えていない。
たぶん、これが教師としてしか答えないということなんだろう。
個人として何かを知っていても、言うべきことと言えないことを、教師の枠で選び取っている。正しい言葉だけで、核心を覆っている。
「……わかりました」
結局、僕はそう言うしかなかった。
担任もそれ以上は続けなかった。ただ、小さく頷いて「もう帰れ」とだけ言った。追い払うというより、これ以上ここにいても何も出さないという合図みたいだった。
職員室を出る。
扉が閉まる。
廊下の空気が少しだけ冷たく感じる。
足を止めずに階段の方へ向かう。でも頭の中では、さっきの言葉が何度も反芻されていた。
無闇にほじくるな。
事情がある。
何も知らないままでいいこともある。
必要なら大人が処理する。
つまり、大人もまた話さない側なのだ。
生徒たちだけが曖昧にしているんじゃない。教師も、説明しないという形で共同体に参加している。もしかしたら、それが一番きれいなやり方なのかもしれない。正しい言葉で蓋をする。誰も露骨には傷つけず、でも何も渡さない。
それはたぶん、教室の中で話題が流されるより、もっと整った残酷さだった。
「湊?」
階段の踊り場で声がした。
顔を上げると、美晴が立っていた。手にはファイルを持っていて、たぶん委員会か何かの帰りなんだろう。僕の顔を見るなり、少しだけ眉を寄せた。
「職員室?」
「うん」
「何しに?」
短い質問。けれど逃げ道が少ない。
「ちょっと、先生に聞きたいことあって」
そう答えると、美晴は数秒黙った。
「……去年のこと?」
その勘の良さに、少しだけ驚く。
「なんでそう思うの」
「最近の湊、それしかなさそうだから」
彼女はあっさり言う。
責める調子ではない。ただ、観察の結果として言っているだけだ。今の僕はそれくらいわかりやすいのかもしれない。
「先生、何か言ってた?」
その問いに、僕は少しだけ迷ってから答えた。
「言ってたけど、答えてはくれなかった」
「そうなんだ」
「うん」
「……やっぱり」
美晴が小さく呟く。
「何がやっぱり?」
「わかんない」
彼女は首を振った。
「でも、大人ってそういうとき、ちゃんと教えてくれないよね」
その言い方には、少しだけ諦めが混ざっていた。
諦め。あるいは経験。
それが何を意味しているのか、今の僕にはまだ読めない。
「帰る?」
美晴が聞く。
「うん」
「じゃあ一緒に帰ろ」
その一言が、思ったよりありがたかった。
僕は頷いて、彼女と並んで階段を下りた。
言葉はそれほど続かなかった。けれど沈黙が苦しくないのは、美晴がそこにいるからだ。幼馴染というのは、こういうとき便利だと思う。何も話さなくても、何も聞かなくても、一緒に歩いているだけで少しだけ現実へ戻れる。
でもその一方で、僕は知っていた。
今の僕が抱えているものを、美晴にはまだ全部言っていない。
そして、たぶん今日の職員室で、教師にすら答えはもらえなかった。
つまり、ここから先は僕自身が、聞かないままでいるか、もう少し進むかを決めなければいけない。
校門を出るころには、空はかなり夕方の色になっていた。
春の終わりに近い匂いがする風が吹く。通学路には帰宅する生徒たちの声が散っていて、遠くでは自転車のブレーキ音がした。
「先生に聞いてもダメだったなら」
歩きながら、美晴がぽつりと言う。
「余計、変だね」
「うん」
「……やめる?」
その問いには、確認の響きがあった。
やめるなら、それでもいい。たぶんそう言いたいのだと思う。
でも同時に、僕がどう答えるかをちゃんと見ている気配もあった。
僕は少しだけ考えてから、正直に言う。
「わかんない」
美晴はそれ以上聞かなかった。
ただ、小さく頷いて、それから前を向く。
僕も前を向く。
やめるかどうかも、まだわからない。
でも少なくとも一つだけは、はっきりした。
大人もまた、話さないのだ。
しかも、いちばん正しい顔をしたままで。




