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放課後、君とだけ秘密の話をする  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第19話 湊の中に、罪悪感だけが先に生まれる

 何かをしてしまった記憶があるわけじゃない。


 誰かを傷つけた覚えがあるわけでもない。


 水崎澪という名前を聞いてから、僕の中に浮かんでいるのは、あくまで曖昧な違和感だった。写真に写っていた顔。教室で止まった空気。去年の文化祭の話題になると、みんなの記憶の輪郭がぼやけること。担任が「今いるクラスを大事にしろ」と、正しい言葉で何も答えなかったこと。


 証拠と呼べるものは、何一つない。


 なのに、罪悪感だけが先に生まれていた。


 それが一番、気持ち悪かった。


 朝、教室に入ると、いつもの声が聞こえた。


「おはよ、湊。今日、顔死んでる」


 花音だった。


 彼女は教室の中央で友達と話しながら、こちらにだけ一瞬視線を寄越した。挨拶の軽さはいつも通りで、言葉だけ聞けばただのからかいだ。けれど最近の僕には、その「顔死んでる」すら、何かを見透かされているように聞こえる。


「朝からひどいな」


「事実だから仕方ない」


「せめてもう少し柔らかくして」


「じゃあ、顔に元気がない」


「だいぶマシ」


「でも意味は同じ」


 花音は笑う。


 周りの女子たちも少し笑う。


 普通の朝の、普通のやりとりだった。


 けれど、僕はその笑いの中に入るのが少し遅れた。半拍。いや、もっと短いかもしれない。でも自分ではわかる。笑うべき場所で、ちゃんと笑えない。返すべき軽口が、一瞬だけ出遅れる。


 それだけで、教室という場所から少しずつズレていく感じがする。


 席に着くと、前の方から美晴が振り返った。


「おはよう」


「おはよう」


 それだけの挨拶なのに、彼女は僕の顔を見て、すぐに眉を寄せた。


「昨日、ちゃんと寝た?」


「寝たよ」


「嘘っぽい」


「そんなに?」


「うん」


 短く言って、美晴は少しだけ声を落とした。


「先生に聞いたこと、まだ気にしてる?」


 その問いに、僕はすぐには答えられなかった。


 気にしている。


 もちろん気にしている。


 けれど、気にしているのは先生の言葉そのものだけじゃない。むしろ、その先にある「何か」を気にしている。水崎澪のこと。去年の文化祭のこと。クラス全体で名前を出さないまま来てしまったらしいこと。そして、その中に自分もいたかもしれないこと。


「……たぶん」


 そう答えると、美晴はそれ以上何も聞かなかった。


 ただ、小さく頷いて前を向く。


 その横顔を見ながら、僕はまた思う。


 美晴はどこまで知っているんだろう。


 いや、そもそも“知っている”という言葉が正しいのかどうかもわからない。栞のように断片を持っているのか。花音のように空気を見ていたのか。それとも僕と同じように、今になって何かを感じ始めているのか。


 わからない。


 わからないのに、美晴の何気ない表情まで、何かを隠しているように見えてしまう。


 それは、たぶんよくないことだ。


 人を疑い始めると、日常のすべてが証拠みたいに見える。昨日まで普通だったものが、今日から急に不自然に見える。笑い方。黙るタイミング。視線を逸らす速さ。何でもない言葉の選び方。


 そうやって勝手に意味を足しているのは、僕の方なのかもしれない。


 一時間目の授業中、先生の声を聞きながら、僕はノートの端に小さく文字を書いていた。


 水崎澪。


 その名前を書いた瞬間、指先が少しだけ冷えた。


 紙の上に乗ると、名前は思ったより普通だった。特別な記号でも、呪文でもない。ただの女子生徒の名前。クラス名簿に載っていてもおかしくない。プリントの上にあっても違和感がない。下駄箱やロッカーに貼られていても、きっと自然な名前。


 だからこそ、怖い。


 そんな普通の名前が、どうして教室の中でこんなに出しにくいものになっているのか。


 僕はその横に、何となくもう一つ言葉を書いた。


 罪悪感。


 書いてから、すぐに消したくなった。


 でも消さなかった。


 まだ何も思い出していない。

 まだ何もわかっていない。

 なのに、僕の中にはもうそれがある。


 僕は本当に、何もしていないのだろうか。


 昼休み、教室は相変わらず明るかった。


 購買で新しいパンが出たとか、文化祭の企画候補がどうだとか、次の小テストが面倒だとか。話題はいくらでもある。学校生活というものは、何か一つ重いものを抱えたくらいでは止まってくれない。むしろ、どうでもいい話題の方がずっと強い。どれだけ内側がざらついていても、誰かが「今日の購買、列やばかった」と言えば、教室はちゃんとその話へ流れていく。


 僕もその中にいた。


 花音にパンの味見をさせられ、美晴に「また変なもの食べてる」と呆れられ、栞が一番後ろでそれを見て少しだけ笑う。表面だけ見れば、普通の青春の一場面だったと思う。


 でも、その普通さが少しだけ苦しかった。


「湊、これ一口いる?」


 花音がパンを差し出してくる。


「何味?」


「わかんない」


「買った本人がわかんないの?」


「名前が長すぎて忘れた」


「危険すぎる」


「大丈夫、たぶん甘い」


「たぶんで人に渡すな」


 そう言いながらも、僕は小さく一口もらった。


 甘かった。予想よりかなり甘い。反射的に微妙な顔をすると、花音が笑う。


「出た、湊の“評価に困る顔”」


「これは困るでしょ」


「美晴も食べる?」


「いらない」


「即答」


「湊の顔で察した」


 美晴がそう言って、少しだけ笑う。


 僕も笑った。


 笑ったはずなのに、そのすぐあとで胸の奥が冷える。


 この教室は、笑うのがうますぎる。


 誰かの言葉を拾って、少し面白くして、空気をつなげて、気まずくなる前に次の話題へ進む。それはたぶん、いいことだ。僕だってそのおかげで何度も助かってきた。波風が立たない。誰かが強く責められることもない。場が明るいまま続く。


 でも、その明るさで何かを覆ってきたのだとしたら。


 僕は今まで、何を一緒に笑ってきたのだろう。


 その疑問が浮かんだ瞬間、さっきまで甘かったパンの味が急にわからなくなった。


「湊?」


 花音がこちらを見る。


「やっぱり顔死んでる」


「甘すぎただけ」


「ほんとに?」


 笑っているのに、目だけが少しだけこちらを見ている。


 花音は、たぶん気づいている。


 何に、とまでは言えない。けれど、僕がまた別の場所へ意識を飛ばしていることは、確実に見ている。


「ほんと」


 僕はそう答える。


 花音は数秒だけ黙って、それからいつもの調子で肩をすくめた。


「じゃあ、次から湊にはしょっぱいもの担当ね」


 会話が流れる。


 助かったと思った。


 同時に、また流されたと思った。


 その二つが同時にあることが、今の僕には苦しい。


 放課後、教室の後ろの棚を見に行こうと思っていた。


 去年の文化祭のしおりか、クラス文集か、何かしら紙に残っているもの。栞が言っていた「記録」の方へ、少しでも近づこうと思っていた。けれど終礼が終わると、文化祭委員が黒板前に集まり始め、棚の前には数人が立って、段ボールや過去資料を動かしていた。


 今行けば、普通に混ざれる。資料を探すふりをして、去年のものを見ればいい。


 そう思った。


 でも体が動かなかった。


 もしそこに水崎澪の名前があったら、どうするんだろう。

 もしなかったら、どうするんだろう。

 どちらにしても、僕の中の罪悪感はたぶん消えない。


 証拠があれば苦しくなる。

 証拠がなくても苦しくなる。


 それなら、自分は何を確かめたいんだろう。


 窓際の席で鞄を持ったまま、僕は教室の後ろの棚を見ていた。


「行かないの?」


 声がして振り返ると、栞が立っていた。


 彼女の視線は、僕ではなく棚の方へ向いている。


「……行こうとは思ってる」


「思ってるだけ?」


「うん」


 正直に答えると、栞は少しだけ頷いた。


「怖い?」


「たぶん」


「何が?」


 少しだけ考える。


 何が怖いのか。


 水崎澪の名前が記録に残っていることか。

 自分がそれを見て何も思い出せないことか。

 それとも、何かを思い出してしまうことか。


「……自分が何を忘れてるのか知るのが怖い」


 口にした瞬間、それが一番近い気がした。


 栞は何も言わなかった。


 ただ、僕の隣に立ったまま、同じように教室の後ろを見ていた。


 棚の前では、文化祭委員が「これ去年の?」「たぶん一昨年じゃない?」と話している。誰かが笑う。段ボールが動く。プリントの束がめくられる。その何でもない音の中に、僕は自分の心臓の音を少しだけ感じていた。


「罪悪感って」


 栞がぽつりと言った。


「記憶より先に来ることあるよね」


 僕は驚いて彼女を見る。


「なんで」


「湊くん、そういう顔してるから」


「みんな顔で判断しすぎじゃない?」


「でも当たってるでしょ」


 否定できなかった。


 栞は淡々と続ける。


「何をしたか覚えてなくても、何かを避けていた感覚だけ残ることがある」


「それって、罪なのかな」


「わからない」


 彼女はすぐに答えた。


「でも、罪じゃないって言い切るには、ちゃんと見ないといけないんだと思う」


 ちゃんと見る。


 それは、この物語が始まってから何度も突きつけられてきた言葉の裏側だった。


 見ない方を選ぶ。

 気のせいにする。

 知らないままでいる。

 話題を流す。


 その逆側に、ちゃんと見る、がある。


 たぶん僕は、それが苦手だった。


 美晴の不安も、花音の流し方も、栞の断片も、担任の正しい沈黙も、全部見ているようで、本当はまだ端だけ触っている。水崎澪のこともそうだ。名前を知った。席のことを考えた。記録を探そうとした。でもまだ、ちゃんと見てはいない。


「……栞は」


 名前を呼びかけてから、少しだけ迷う。


「ちゃんと見てたの?」


 栞は答えなかった。


 長い沈黙だった。


 そしてその沈黙だけで、僕は聞いてはいけないことを聞いたのだとわかった。


「ごめん」


「いいよ」


 彼女は静かに言う。


「私も、ちゃんと見てたわけじゃないから」


 その声には、感情が少なかった。


 少ないからこそ、重かった。


「残ってるだけ」


「断片?」


「うん」


 栞はそう言って、棚の方を見たまま続ける。


「断片って便利だよ。全部じゃないから、まだ自分を許せる」


 その言葉は、今まで聞いた中で一番痛かった。


 栞もまた、自分を許すために「全部じゃない」と言い続けているのかもしれない。全部知っているわけじゃない。断片だけ。そう言いながら、自分の中に残っているものを何とか持っている。


 僕はまだ、その断片すらない。


 名前だけ。写真だけ。空気だけ。

 それでも罪悪感だけはある。


 そのことが、ひどく不公平に思えた。


 誰に対して不公平なのかは、わからない。


「湊」


 前の方から美晴の声がした。


 見ると、彼女が教室の出口近くで立ち止まっていた。こちらと栞を見ている。以前なら、その視線には少しだけ嫉妬の色があったかもしれない。けれど今は、それよりも心配の方が強かった。


「帰る?」


 彼女が聞く。


 僕は棚の方を見て、それから美晴を見る。


 今日は、行けなかった。


 記録を探すこともできなかった。

 ただ罪悪感だけを増やして、また教室に立ち尽くしている。


「……帰る」


 そう答えると、美晴は一度だけ頷いた。


 栞も何も言わなかった。


 僕は鞄を持って、教室の出口へ向かう。


 棚の前では、まだ文化祭委員が資料を整理していた。紙の束がめくられる音がする。その中のどこかに、水崎澪の名前があるのかもしれない。あるいはないのかもしれない。


 どちらにしても、今日は見なかった。


 見なかったことが、今日の僕の選択だった。


 昇降口へ向かう廊下で、美晴は何も聞かなかった。


 並んで歩く沈黙が、少しだけありがたかった。美晴は時々、僕が話さないことに苛立つ。でも今日は、たぶん何かを察して黙ってくれている。その優しさが、少しだけ痛い。


 外へ出ると、夕方の空は妙に澄んでいた。


 何も悪いことが起きていないみたいな色だった。


 学校では今日も普通に授業があって、昼休みに笑って、文化祭の話をして、放課後になった。誰も倒れていない。誰も泣いていない。誰も水崎澪の名前を出していない。


 それなのに、僕の中には罪悪感だけがある。


 証拠も記憶もないまま、先に罪悪感だけが育っている。


 たぶんそれは、どこかで僕自身が知っているからだ。


 まだ思い出せていないだけで。


 自分が、ずっと見ない方を選んできたことを。

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