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放課後、君とだけ秘密の話をする  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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20/21

第20話 それでも、笑っている教室

 翌日の教室は、昨日の僕の罪悪感なんて最初から知らない顔をしていた。


 朝はいつも通り騒がしかった。誰かが小テストの範囲を聞き間違えて慌てていて、別の誰かが「もう無理」と机に突っ伏している。花音は購買の新作パンの話をしていて、美晴は前の方の席で提出物をまとめながら「それ昨日も言ってたでしょ」と誰かに呆れていた。


 窓際の席に鞄を置くと、机の上に朝の光が落ちた。


 そこに手を置いて、僕は少しだけ息を吐く。


 何も変わっていない。


 教室は今日も教室で、クラスメイトは今日もクラスメイトで、誰も水崎澪の名前なんて出さない。昨日、僕が教室の後ろの棚へ行けなかったことも、記録を見られなかったことも、罪悪感だけを抱えて帰ったことも、この空間には何の影響も与えていない。


 その無傷さが、少しだけ怖い。


「湊」


 前の方から美晴が振り返った。


「今日、文化祭の希望表出す日だからね」


「あ、そうだっけ」


「そうだっけ、じゃない」


 彼女は呆れたように眉を寄せる。


「昨日言われたでしょ」


「聞いてたような、聞いてなかったような」


「聞いてないやつの言い方」


「耳には入ってた」


「それを聞いてないって言うの」


 いつものやりとり。


 少しだけ安心する。こういう会話は、僕たちの間にずっとあったものだ。ネクタイのこと、提出物のこと、小テストのこと、放課後のこと。美晴は昔から、僕の雑さを見つけるのがうまい。


 ただ、最近はそこにもう一つ別の視線が混ざっている。


 彼女は僕のだらしなさだけじゃなく、僕が何かを考えていることまで見てしまうようになった。見えるようになったのか、僕が隠せなくなったのかはわからない。


「……ちゃんと書きなよ」


 美晴が少しだけ声を落とす。


「文化祭のやつ」


「うん」


「去年のこと、気にするのはわかるけど」


 そこで一度、言葉を切る。


「今年のことも、ちゃんとしないと」


 その言い方は、担任の「今いるクラスを大事にしろ」と少し似ていた。


 でも、まったく同じではなかった。


 担任の言葉は蓋だった。

 美晴の言葉は、たぶん手だった。


 過去を見るなと言っているわけじゃない。ただ、今の自分が立っている場所から完全に消えないでほしい。そんなふうに聞こえた。


「わかってる」


 僕が答えると、美晴は小さく頷いて前を向いた。


 ホームルームで、担任が文化祭の係希望表を配った。


 一枚ずつ後ろへ回されるプリント。企画係、装飾係、会計係、広報係、当日運営。横には第一希望から第三希望まで書く欄がある。名前と出席番号を書く場所が上にあり、なんとなく事務的な見た目の紙だった。


 紙というものは、感情がないから少し安心する。


 けれど最近の僕には、感情がない紙の方が、人よりよほど怖いこともある。


 出席番号順に並んだ提出欄。

 名前を書く四角いスペース。

 何気ないプリントの余白。


 そこに、いるべき誰かの名前がないかどうかを探してしまう。


 今の希望表に水崎澪の名前があるはずはない。そんなことはわかっている。彼女が今このクラスにいないのなら、当然だ。けれど、名前を書く欄を見るだけで、僕は頭の中であの名前を浮かべてしまう。


 水崎澪。


 紙の上には何もない。


 でも、僕の中にはもう名前がある。


「湊、何係にするの?」


 花音が斜め後ろから身を乗り出してきた。


「まだ決めてない」


「じゃあ広報やろうよ」


「なんで」


「なんとなく。写真撮ったり、紹介文作ったり、湊でもできそう」


「“でも”って何」


「褒めてる褒めてる」


「絶対半分くらい雑だよね」


 花音は笑う。


 その笑顔は相変わらず明るい。昨日、僕に「空気悪くするのって、悪い人だけじゃないからね」と言った人と同じ顔には見えないくらい、いつも通りだった。


 でも、もう同じようには見えない。


 彼女の明るさは本物だ。たぶん、それは疑う必要がない。花音は本当にクラスを明るくできる子だし、場を救える子だし、誰かが気まずくならないように動ける子だ。


 ただ、その明るさが何を流してしまうのかを、僕はもう考えずにはいられない。


「花音は?」


「私は企画係かな。だって絶対口出したくなるし」


「自覚あるんだ」


「あるよ。黙って見てるの苦手だから」


 その言葉に、僕は一瞬だけ引っかかる。


 黙って見てるのが苦手。


 本当にそうだろうか。


 花音は空気が悪くなる前に口を出せる。でも、もっと深いところで起きていた何かに対してはどうだったんだろう。黙って見ていなかったのか。見ていながら、別の形で流してしまったのか。


 そこまで考えたところで、僕は自分の思考を止めた。


 まだ何も知らない。

 花音を責める材料なんて何もない。

 それなのに、僕はこうして人の表情の裏側ばかり探している。


 それもまた、ひどいことだと思った。


「湊?」


 花音が首を傾げる。


「また難しい顔」


「いや、係どうしようかなって」


「嘘っぽい」


「みんな僕の顔読みすぎじゃない?」


「わかりやすいんだよ、最近」


 そう言って、花音は笑いながら自分の席へ戻っていった。


 希望表を書く時間は、妙に騒がしかった。


「装飾って当日楽?」


「準備が地獄じゃない?」


「会計は絶対やだ、計算無理」


「湊、会計似合わない?」


「失礼だな」


「いや、なんか無難に処理しそう」


「それ褒めてる?」


「半分」


 また笑いが起こる。


 教室は本当に楽しそうだった。


 文化祭が近づいて、みんな少しだけ浮ついている。面倒だと言いながら、結局それなりに乗り気で、去年のことなんてもう会話の表面からは消えている。今年何をやるか、誰がどの係にするか、クラスTシャツは作るのか。話題はちゃんと前へ進んでいく。


 それは正しい。


 学校は前へ進む場所だ。行事は今年も来る。提出物は待ってくれない。授業も小テストも部活も、誰か一人の名前を思い出せないからといって止まってはくれない。


 だから、たぶんみんな自然に前を向く。


 でも、その“自然”の中で、何かが置き去りになることもある。


 希望表を前へ回すとき、僕は自分の名前の横に書いた出席番号を見た。


 水野。

 その近くにいたはずの、水崎。


 五十音順なら近い。

 席も近かったかもしれない。

 窓際の後ろ寄り。


 たったそれだけで、胸の奥がまたざらつく。


 昼休み、文化祭の話題はさらに広がった。


 花音は企画係にほぼ決定したらしく、もう勝手に案を出し始めていた。美晴は「まず決まってから考えなよ」と注意しているけれど、完全には止めていない。栞は一番後ろの席で本を開いているように見えて、時々こちらの会話に耳を向けている気配があった。


「だから、教室を半分ずつ違う雰囲気にするの」


 花音が身振りを交えて説明している。


「明るい青春エリアと、しっとり秘密エリア」


「何その雑な二分割」


「でもよくない? 映えそうじゃん」


「文化祭で秘密エリアって何するの」


「相談室とか?」


「急に重い」


「じゃあ恋愛相談」


「それは橘がやりたいだけでしょ」


「ばれた」


 みんな笑う。


 僕も笑った。


 笑ってから、胸のどこかが少しだけ沈む。


 笑い方が変わった、と思う。


 前はただ笑っていた。面白いから。空気がそうだから。笑えばその場に混ざれるから。

 今は、笑っている自分を同時に見ている。


 この笑いは何を流しているんだろう。

 この明るさは誰の不在を隠しているんだろう。

 そういう余計な問いが、笑いの横にぴたりと張りついてくる。


 だから、前と同じ顔では笑えない。


「湊、広報にしたんだっけ?」


 美晴が聞いてきた。


「一応」


「じゃあ写真撮る側?」


「たぶん」


「向いてるかもね」


「そう?」


「最近、よく見てるし」


 その言い方に、花音がすぐに乗る。


「確かに。今の湊、めっちゃ観察者っぽい」


「それいい意味?」


「半分」


「また半分」


 笑いが起きる。


 でも美晴はその笑いの中で、少しだけ僕を見ていた。


 たぶん彼女はわかっている。自分の言った「よく見てる」が、ただの文化祭広報の話ではないことを。僕が最近、教室そのものを見ていること。クラスの空気を見ていること。見ないようにしていたものを、少しずつ見ようとしていること。


 その視線が、痛くて、ありがたかった。


 放課後になっても、教室はまだ文化祭の話でざわついていた。


 黒板には企画候補がいくつも書かれている。

 模擬店。展示。体験型。相談室。謎解き。写真スポット。

 花音の冗談混じりの案まで残っていて、誰かがそれを見てまた笑っている。


 僕は窓際の席から、その黒板を見ていた。


 楽しそうな文字の並び。

 これから始まる行事の気配。

 前向きで、明るくて、どこにでもある高校生活。


 なのに、黒板の端の余白が妙に気になった。


 文字が書かれていない部分。

 チョークの粉だけが薄く残っている場所。

 誰も見ていない、何も書かれていない空白。


 そこに、名前がない。


 当たり前だ。

 水崎澪の名前なんて、今の黒板に書かれる理由はない。


 でも、今の僕にはもう、その“ない”がただの“ない”に見えない。


 誰も書かない。

 誰も言わない。

 だから存在しないように見える。


 教室は、一人分だけ記憶の形が歪んでいる。


 その言葉が、頭の中に浮かんだ。


 証拠があるわけではない。

 すべてを思い出したわけでもない。

 でも、感覚としてわかった。


 この教室は明るい。

 みんなは笑っている。

 花音は空気を回し、美晴は僕を気にし、栞は静かに見ている。担任は正しい言葉で過去を閉じる。文化祭は進む。希望表は集まる。黒板には今年の企画が並ぶ。


 それでも、その全部の中に、一人分だけ、形の合わない空白がある。


 席ではない。

 名簿ではない。

 写真でもない。

 もっと曖昧な、でも確かにそこにある歪み。


 たぶん、それが水崎澪のいた場所なのだ。


「湊くん」


 声がして振り返ると、栞が立っていた。


 いつの間に近づいてきたのか、彼女は僕の机の横で、同じように黒板を見ていた。


「何」


「思い出した?」


 その聞き方は唐突だった。


 でも、今の流れの中では自然にも思えた。


「いや」


 僕は正直に答える。


「まだ、何も」


「そう」


「でも」


 そこで言葉を切る。


 何を言えばいいのか、自分でも少し迷った。


「この教室、なんか変だってことだけは、前よりわかる」


 栞は小さく頷いた。


「そっか」


「それって、進んでるのかな」


「わからない」


 相変わらず断定しない。


 でもその方が、今はよかった。


 栞は少しだけ間を置いてから言った。


「思い出したいのと、知りたいのは、同じじゃないよ」


 その言葉が、静かに胸へ落ちた。


「どう違うの」


 僕が聞くと、栞は黒板を見たまま答える。


「知りたいなら、記録とか、誰かの話とか、外に残ってるものを追えばいい」


「うん」


「思い出したいなら、自分の中にあるものを見ないといけない」


 その言い方はやさしいのに、少し怖かった。


「どっちの方が大変?」


「たぶん、思い出す方」


「なんで」


「自分の都合で忘れたものかもしれないから」


 返事ができなかった。


 その言葉は、僕がずっと避けていた場所にまっすぐ届いた。


 自分の都合で忘れたもの。


 そんなことがあるのだろうか。

 あるのかもしれない。

 嫌なことを忘れる。面倒なことを見ない。関わると空気が悪くなるものから、少しずつ目を逸らす。そういう選択を何度も重ねた結果、人は本当に忘れた顔をできるようになるのかもしれない。


 僕は水崎澪を忘れたのだろうか。


 それとも、忘れたかったのだろうか。


「湊」


 今度は美晴の声がした。


 前の方からこちらを見ている。花音も黒板の近くで笑っていて、その明るい輪の中にいるのに、こちらの様子にも気づいているようだった。


 教室はまだ笑っている。


 それでも、僕だけはもう同じ場所には立てていない。


 いや、僕だけじゃないのかもしれない。

 美晴も、栞も、花音も、それぞれ違う形でこの教室の歪みに触れている。触れていて、それでも笑ったり、黙ったり、流したり、気にしたりしている。


 そうやって、教室は続いていく。


 僕は鞄を持った。


「帰る」


 誰にともなく言う。


 栞は小さく頷き、美晴は少しだけ安心したようにこちらへ歩いてくる。花音は黒板の前で「湊、広報逃げないでねー」と手を振った。


「逃げないよ」


 僕はそう返した。


 その返事が、文化祭の広報係に対してだけではないような気がした。


 逃げない。


 まだ、そう言い切れるほど強くはない。

 記録を見ることからも、思い出すことからも、僕はきっとまた何度も逃げようとする。気のせいにしたくなるし、大したことじゃないと言いたくなるし、笑って流せるなら流したくなる。


 でも少なくとも、もう名前は知っている。


 水崎澪。


 その名前は、もう消えない。


 昇降口へ向かう廊下で、美晴が隣に並んだ。


「今日、少しだけ顔戻った」


「そう?」


「うん。でも前とは違う」


「どっち」


「どっちも」


 美晴らしい答えだった。


 外へ出ると、夕方の空は薄い橙色だった。春の終わりに近い風が、校門の方からゆっくり流れてくる。背後の校舎からは、まだ誰かの笑い声が聞こえていた。


 それでも、笑っている教室。


 その明るさは、たぶん嘘ではない。


 でも、嘘ではないからこそ、その中に混ざった空白が怖い。


 僕は校門を出る前に、一度だけ振り返った。


 窓の向こうに、自分の教室が見える。誰かの影が動き、黒板の前でまだ文化祭の話をしているらしい。明るくて、普通で、どこにでもある高校の放課後。


 そこに、一人分だけ記憶の形が歪んでいる。


 僕はそのことを、もう気のせいとは呼べなかった。

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