第21話 記録は、笑わない
翌日の放課後、教室の後ろの棚は、昨日より少しだけ乱れていた。
文化祭の準備が本格的に始まったせいだろう。棚の下段には、去年以前の資料が詰められた段ボールがいくつか引っ張り出されていて、その上に古いプリントの束や、色あせたファイルが無造作に積まれている。誰かが途中まで探して、そのまま面倒になって放置したような状態だった。
放課後の教室は、まだ明るかった。
黒板には昨日の企画案が残っている。模擬店、展示、体験型、写真スポット、恋愛相談室。花音が冗談で出した案まで律儀に残っていて、そこだけ誰かが小さくハートを描き足していた。たぶん男子の誰かだろう。花音が見つけたら、きっと笑って話題にする。
僕はその黒板を見てから、棚の方へ視線を戻した。
記録を見る。
たったそれだけのことに、どうしてこんなに体が重くなるのか、自分でもよくわからない。
けれど、もうわかっていることもあった。
怖いのは、そこに水崎澪の名前があることじゃない。
怖いのは、そこに名前があったとき、自分が何も思い出せなかったらどうしようということだ。
名前がある。
存在していた証拠がある。
でも、自分の中には何も戻らない。
もしそうだったら、僕は本当に彼女を「いなかったこと」にしていた側なのではないか。
そう思うと、指先が少しだけ冷えた。
「湊」
前の方から美晴の声がする。
振り向くと、彼女は鞄を肩にかけたまま、僕の方を見ていた。
「今日、見るんでしょ」
質問ではなかった。
確認でもない。
美晴はもう、僕が何をしようとしているのかをわかっている顔をしていた。
「うん」
僕が答えると、彼女は少しだけ迷うように視線を棚へ向ける。
「一人で見るの?」
「そのつもりだったけど」
「……そっか」
そこで会話が終わりそうになる。
けれど美晴は、帰らなかった。
教室の入り口へ向かいかけた足を止めて、少しだけこちらへ戻ってくる。いつものように怒るでもなく、世話を焼くでもなく、ただ自分でもどうしたらいいかわからない顔で立っていた。
「私もいていい?」
その声は、小さかった。
「いいけど」
「邪魔なら言って」
「邪魔じゃない」
そう答えると、美晴は少しだけほっとしたような顔をした。
最近、彼女はこういう顔をするようになった。
前はもっと単純だった気がする。僕がだらしなければ怒って、提出物を忘れそうなら注意して、ふざければ睨んで、それでも結局は面倒を見てくれる。そういうわかりやすい幼馴染だった。
今は違う。
僕がどこかへ行ってしまわないかを、確かめるような目をする。
それが少しだけ申し訳なくて、でも同時に少しだけありがたかった。
「何探すの?」
美晴が聞く。
「去年の文化祭のしおりとか、文集とか」
「……名前?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「自分でも、何を見れば納得できるのかわかってない」
そう言うと、美晴は何も返さなかった。
ただ、僕より先に棚の前へ膝をつく。
「じゃあ、探そ」
その背中を見て、僕は少しだけ息を吐いた。
逃げられなくなった、と思った。
でもそれは、悪い意味だけではなかった。
美晴と二人で、棚の下段の段ボールを開ける。
中には古いプリントの束がぎっしり詰まっていた。文化祭実行委員会の配布資料、クラス企画の申請書、去年のタイムテーブル、校内マップ、アンケートのコピー。日付の入った紙が、無造作に、けれど確かに一年分の時間を閉じ込めている。
紙は笑わない。
誰かみたいに話題を逸らしたり、空気を読んで黙ったりしない。
そこに書かれたものは、たぶんそのままだ。
だから怖い。
「これ、去年のやつかな」
美晴が薄い冊子を取り出した。
表紙には、去年の文化祭のタイトルと日付が印刷されている。少し角が折れていて、表面には細かな擦れがある。たった一年しか経っていないのに、もう古いものみたいに見えた。
僕はそれを受け取る。
手の中の紙が、思ったより軽かった。
軽いのに、めくるのに少し時間がかかった。
最初のページには校長の挨拶。次に実行委員長の挨拶。校内マップ。タイムテーブル。クラス企画一覧。
僕は自分たちのクラスの欄を探した。
指が、紙の上を滑る。
二年A組。
二年B組。
二年C組。
去年の自分たちのクラス名を見つけた瞬間、息が止まりかけた。
企画名は、思っていたより普通だった。
展示と体験を組み合わせたような、少し地味だけれど手間のかかりそうな企画。花音が言っていた「展示寄りの企画だった気がする」という担任の曖昧な説明は、間違ってはいなかった。
担当者名の欄がある。
僕はそこを見た。
数人の名前が並んでいる。
見覚えのある名前。クラスメイトの名前。今も教室にいる誰かの名前。
そこに――
水崎澪の名前はなかった。
「……ない?」
美晴が横から小さく言った。
「ない、ね」
自分の声が、思ったより平坦だった。
なかった。
そこに名前はなかった。
でも、それで安心できるわけではなかった。むしろ、別の種類の気持ち悪さが胸の中に広がる。もし彼女が去年の文化祭に関わっていたなら、なぜここに名前がないのか。そもそも、僕たちの記憶が勝手に文化祭へ結びつけているだけなのか。
それとも、記録に名前が残らない場所で関わっていたのか。
美晴は冊子を覗き込みながら、眉を寄せていた。
「でも、私……」
そこで言葉を止める。
「何?」
「わかんない」
美晴は少し苛立ったように、自分の額に指を当てた。
「なんか、これ見たことある。去年、これ作るとき、誰かがすごく頑張ってた気がする」
「誰か?」
「うん」
「それが水崎澪?」
「……わからない」
彼女は悔しそうだった。
その表情は、少しだけ僕の胸を刺した。
美晴も同じなのだ。
名前を知らないわけじゃない。何かの気配だけはある。けれど、そこにちゃんと手が届かない。誰かがいた感じは残っているのに、顔や声や具体的な場面にはならない。
まるで教室全体で、同じ場所だけを少しずつぼかしているみたいだった。
「他の資料、見よう」
僕が言うと、美晴は黙って頷いた。
段ボールの中をさらに探す。
企画申請書。準備日程。役割分担表。買い出しリスト。装飾案のラフ。どれも文化祭の雑多な記録だった。こういう紙の束を見ると、行事というものがいかに細かい作業の積み重ねでできているかがわかる。華やかな一日の裏側には、面倒な調整と地味な分担が山ほどある。
役割分担表を見つけた。
僕は無意識にそこを開く。
名前の一覧がある。
装飾班。受付班。買い出し班。記録係。宣伝係。
目が、名前の列を追う。
知っている名前がいくつもある。
花音。
美晴。
僕。
栞。
そして。
そこに、細い文字で書かれていた。
水崎 澪。
世界が、音を失ったように感じた。
実際には、教室の中にはまだ音があった。前の方では誰かが文化祭の話をしているし、廊下からは部活へ向かう足音が聞こえる。窓の外ではグラウンドの声もしている。
でも、その瞬間だけ、僕の耳には何も入らなかった。
名前がある。
紙の上に、はっきりと。
水崎澪。
僕はその文字を見つめた。
見慣れたような、初めて見るような、不思議な感覚だった。ノートに自分で書いた名前とは違う。誰かが実際に書いた字だ。少し丸みがあり、けれど丁寧な筆跡。印刷ではなく、手書き。だから余計に、人の存在があった。
彼女はいた。
このクラスに。
この文化祭に。
この紙を書いた誰かの手元に。
「……あった」
美晴の声が震えていた。
僕は頷くこともできなかった。
役割分担表の中で、澪の名前は「記録係」の欄にあった。
記録係。
写真を撮ったり、当日の様子をまとめたり、展示用の紹介文を作ったりする係だったのかもしれない。
僕はそこを見た瞬間、なぜか指先が冷たくなった。
今年、花音に「広報やろうよ」と言われたことを思い出す。
美晴に「最近、よく見てるし」と言われたことを思い出す。
僕が希望表に広報係と書いたことを思い出す。
記録する側。
見て、残す側。
そこに、澪の名前があった。
でも僕の記憶には、彼女がいない。
「湊」
美晴が僕の名前を呼んだ。
返事をしようとしたが、喉がうまく動かなかった。
水崎澪の名前の少し下に、もう一つ見覚えのある名前があった。
水野 湊。
同じ「記録係」の欄に。
僕は、その文字をしばらく理解できなかった。
いや、理解はしている。自分の名前だ。去年、僕もその係にいたのだろう。文化祭の記録係。写真を撮る側。紹介文を書く側。澪と同じ欄に、並んで書かれている。
でも、そんな記憶はない。
まったく、ない。
去年の文化祭で自分が何をしていたかくらい、覚えていてもよさそうなものなのに。文化祭の係なら、それなりに作業もあったはずなのに。まして同じ係にいた人の名前を、完全に思い出せないなんて。
「……嘘」
美晴が小さく言った。
僕は彼女を見る。
美晴の顔は、さっきまでと違っていた。驚いている。けれど、ただ知らないものを見た驚きではない。何かが自分の中で崩れかけているような顔。
「美晴?」
「湊、記録係だったの?」
「……たぶん」
「覚えてないの?」
その問いは、責めているわけではなかった。
でも、刺さった。
「覚えてない」
正直に答えるしかなかった。
「本当に?」
「本当に」
美晴は紙へ視線を落とす。
僕も同じように見る。
水崎澪。
水野湊。
同じ欄に並んだ二つの名前。
それなのに、僕の中には何もない。
ないことが、こんなにも罪になるのかと初めて思った。
「……なんで」
美晴が呟く。
それは僕に聞いているのか、自分に聞いているのか、わからない。
僕も同じことを思っていた。
なんで。
なんで覚えていない。
なんで思い出せない。
なんで同じ係だった人の名前を、昨日まで知らない顔でいられた。
そのとき、教室の前方から花音の笑い声が聞こえた。
明るい声だった。
いつもの花音の、いつもの笑い声。
それが今は、ひどく遠く聞こえた。
「何してるの?」
背後から静かな声がした。
振り返ると、栞が立っていた。
彼女は僕たちの手元の紙を見て、すぐに表情を変えた。大きくではない。でも、目の奥が少しだけ沈む。
「見つけたんだ」
それは、驚きではなかった。
知っていた人の声だった。
「栞」
僕は紙を持ったまま言う。
「僕、同じ係だった」
「うん」
「知ってたの?」
栞は答えなかった。
その沈黙で、答えはほとんどわかった。
「なんで言わなかったの」
声が思ったより強く出た。
栞は少しだけ目を伏せる。
「言ったら、湊くんは確認しなかったかもしれないから」
「どういう意味」
「私の言葉じゃなくて、自分で見た方がいいと思った」
その答えは、正しいようで、ひどく冷たくも聞こえた。
でも、たぶん本当にそうなのだ。
誰かに「あなたは同じ係だった」と言われるのと、自分の目で紙の上に並んだ名前を見るのでは、重さが違う。逃げ道が違う。
僕は今、自分の名前を見てしまった。
もう、知らなかったふりはできない。
「思い出せる?」
栞が聞く。
その問いに、僕は紙を見つめたまま答えた。
「……わからない」
何かが、ほんの少しだけ動いている気はする。
文化祭の準備。
写真を撮るスマホ。
教室の端。
誰かの細い声。
笑い声。
チョークの粉。
夕方の窓際。
でも、それらはまだ映像にならない。
ただ、断片の断片みたいなものが、胸の奥で引っかかり始めている。
美晴が、そっと紙から手を離した。
「湊」
「うん」
「今日は、帰ろう」
その声は、今までになく優しかった。
逃げようとしているわけではない。たぶん、美晴はこれ以上ここで見続けたら僕が壊れそうだと思ったのだろう。
実際、僕もそう思った。
紙の上の名前は動かない。
水崎澪。
水野湊。
記録は笑わない。
ごまかさない。
流さない。
ただ、そこに残っている。
僕は役割分担表を、ゆっくりと元のファイルに戻した。
指先がまだ冷たい。
教室は相変わらず明るかった。
花音は前の方で笑っていて、誰かが黒板に書かれた案にまた冗談を書き足している。文化祭は進んでいく。希望表は集まり、係は決まり、今年の準備は何事もなかったように始まっている。
その明るさのすぐ後ろで、去年の紙だけが、静かに名前を残していた。
僕はその日、初めてはっきりと思った。
水崎澪は、ただクラスにいた誰かではない。
僕のすぐ近くにいた人だ。
そして僕は、その人を忘れている。




