第22話 同じ係だった人
同じ係だった。
その事実は、思っていた以上に重かった。
水崎澪という名前を知ったとき、僕はまだどこかで彼女を「クラスのどこかにいた誰か」として見ていた。写真の端に写っていた、思い出せない女子。みんなが話題にしない誰か。教室の記憶から少しずつ薄くなっていったらしい存在。
でも、昨日見つけた役割分担表は、その距離を許してくれなかった。
水崎澪。
水野湊。
同じ記録係。
同じ欄に並んだ二つの名前。
ただクラスにいただけではない。遠くにいた誰かでもない。少なくとも去年の文化祭の準備期間、僕は彼女と同じ係だった。写真を撮るなり、紹介文を書くなり、何かしら同じ作業をしていたはずだった。
それなのに、何も思い出せない。
顔も、声も、会話も。
水崎澪という名前だけが、紙の上からこちらを見ている。
翌朝、僕はいつもより早く学校に着いた。
早く行こうと思ったわけではない。家にいても落ち着かなかっただけだ。朝食を食べても味がしなかったし、制服に着替えている途中で何度も手が止まった。スマホを見れば、去年の文化祭の写真が残っていないか確認したくなる。でも確認するのが怖くて、画面を伏せたまま鞄へ突っ込んだ。
何もしないでいることに耐えられず、結局いつもより十五分ほど早く家を出た。
教室には、まだ数人しかいなかった。
窓から差し込む朝の光は、放課後のそれとは違う。まだ一日が始まる前の、薄くて冷たい光。机の影も、黒板の色も、どこか眠そうに見える。昨日あれだけ騒がしかった文化祭の話も、朝の教室ではまだ眠っているみたいだった。
僕は窓際の自分の席に鞄を置き、椅子に座る。
机の上には何もない。
それなのに、昨日の紙がそこに重なって見える気がした。
水崎澪。
水野湊。
記録係。
僕は鞄からスマホを取り出した。
画面をつける。ロックを解除する。写真アプリを開こうとして、指が止まる。
もし、そこに残っていたら。
去年の文化祭の写真。記録係として撮った何か。水崎澪が写っている写真。あるいは、彼女が撮った写真。
そこに何かが残っていたら、僕はもう本当に逃げられない。
でも、残っていなかったら。
それもまた怖かった。
自分の記憶だけでなく、手元の記録からも消えているのだとしたら。
「早いね」
声がして顔を上げると、栞が教室の入り口に立っていた。
彼女もいつもより少し早い。片手に文庫本を持ち、もう片方の手で鞄の紐を握っている。朝の光の中で見る栞は、図書室で見るときより少しだけ輪郭が薄い。
「そっちこそ」
「図書委員の当番」
「朝もあるんだ」
「たまに」
短いやりとり。
栞は自分の席へ行く前に、僕の机の上のスマホを見た。
「写真?」
その一言だけで、僕が何をしようとしていたのかを見抜かれた気がした。
「……たぶん」
「まだ見てない?」
「うん」
正直に答える。
「見るのが怖い?」
「怖い」
今度はすぐに言えた。
栞は何も笑わなかった。驚きもしなかった。ただ少しだけ頷く。
「昨日、見つけたから」
「うん」
「同じ係だった」
「うん」
「なのに覚えてない」
自分で言った言葉なのに、胸の奥にそのまま沈んでいく。
栞は机の横に立ったまま、少しだけ視線を落とした。
「覚えてないって、強いよね」
「何が」
「思い出せない、じゃなくて、覚えてないって言うとき」
その違いを、僕はすぐには理解できなかった。
「違うの?」
「思い出せない、はどこかにある気がする言い方。覚えてない、は最初からなかったみたいに聞こえる」
言われて、少しだけ息が詰まる。
たしかにそうだ。
僕は今、何度も「覚えてない」と言っている。けれど本当に最初からなかったわけではない。紙の上には、僕の名前があった。つまり、僕はそこにいた。水崎澪と同じ係にいた。それでも何も出てこない。
だからこそ、覚えてないと言うしかなかった。
「じゃあ、なんて言えばいいの」
少しだけ投げやりな声になった。
栞は答えを急がなかった。
「まだ言葉にしなくていいんじゃない」
「でも、何か言葉にしないと、何も掴めない」
「言葉にした途端、違う形で固まることもあるよ」
栞の言うことは、いつも少しだけ難しい。
でも今は、その難しさが逃げ道にもなっている気がした。
チャイム前の教室に、少しずつ人が増え始めた。
花音が入ってくる。いつもの明るい声で誰かに挨拶して、昨日の文化祭案の続きを話し始める。美晴も少し遅れて教室に入り、僕を見つけるとまっすぐこちらへ来た。
「湊、早い」
「たまたま」
「たまたまって顔じゃない」
最近、美晴の最初の一言はだいたい僕の顔に関することになっている。
彼女は僕の机の横に立ち、栞がいることに気づいて一度だけ視線を向けた。それから、昨日のことを思い出したように少しだけ表情を固くする。
「昨日の資料」
美晴が小さく言った。
「やっぱり、今日も見る?」
教室がまだ本格的に騒がしくなる前の時間だったから、その声は思ったよりはっきり聞こえた。
僕は一瞬迷って、頷く。
「見る」
「一緒に?」
その問いは、すごく短かった。
でもたぶん、美晴の中ではいろんな意味が入っていた。昨日みたいに一人で抱え込まないでほしいということ。自分も見届けたいということ。もしかしたら、同じものを見れば、自分の中の曖昧なものにも形がつくかもしれないということ。
「うん」
僕は言った。
「一緒に見てほしい」
美晴は少しだけ目を見開き、それから小さく頷いた。
「わかった」
栞はそのやりとりを聞いていたけれど、何も言わなかった。ただ自分の席へ向かいかけて、途中で一度だけ振り返る。
「私は、必要ならいる」
それだけ言って、一番後ろへ歩いていった。
その言い方が、栞らしいと思った。
近づきすぎない。けれど離れきらない。手を伸ばせば届くくらいの場所にいる。
朝のホームルームが始まり、授業が進み、昼休みになった。
僕はずっと落ち着かなかった。
授業の板書はノートに写した。でも、内容はほとんど入っていない。先生に当てられなかったのが救いだった。もし当てられていたら、たぶんとんでもなく的外れな答えをして、また花音に「顔死んでる」と笑われていたと思う。
昼休み、美晴は僕の席まで来て、黙って小さな紙パックのミルクティーを置いた。
「何」
「糖分」
「急に?」
「朝から顔がずっと低血糖っぽい」
「それは顔に出るものなの?」
「出る」
断言された。
僕は少しだけ笑って、ミルクティーを受け取る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
それだけ言って、美晴は前の席へ戻った。
その背中を見ながら、胸の奥が少しだけ痛くなる。
美晴は、優しい。
いや、そういう一言でまとめるのはたぶん乱暴だ。彼女は怒るし、面倒くさがるし、意地を張るし、たまに距離感が近すぎる。でも、こういうときに何も聞かずにミルクティーを置いていくことができる。
僕は去年、澪に対して何かを置いていったことがあっただろうか。
それとも、何も置かずに通り過ぎたのだろうか。
その問いが浮かんで、ミルクティーの甘さが少しだけ喉に引っかかった。
放課後。
終礼が終わると、教室はいつものように文化祭の話でざわつき始めた。係ごとの打ち合わせがあるらしく、黒板の前に何人かが集まっている。花音は企画係の輪の中心にいて、楽しそうに何かを説明していた。
「湊、今日広報も少し打ち合わせするかも」
花音がこちらへ声を飛ばす。
「後で行く」
「了解。逃げないでね」
「逃げない」
「最近の湊の“逃げない”は意味深だねえ」
花音は笑った。
でもその目は、一瞬だけ笑っていなかった気がした。
たぶん、彼女も昨日の資料のことを知っているわけではない。少なくとも、僕と美晴が何を見つけたかは知らないはずだ。それでも、僕の変化から何かを察している。空気を読む人間は、言葉にされていないものまで拾う。
僕は花音の輪から少し離れ、美晴と一緒に教室の後ろの棚へ向かった。
昨日開けた段ボールは、そのまま少しだけ横へずらされていた。中のファイルも昨日とほとんど同じ位置にある。僕は膝をついて、昨日の役割分担表が入っていたファイルを取り出した。
美晴が隣にしゃがむ。
「もう一回見る?」
「うん」
手が少し震えた。
ページを開く。
そこには昨日と同じ名前があった。
水崎澪。
水野湊。
記録係。
何度見ても変わらない。紙は、こちらの気持ちに合わせて文字を薄くしてはくれない。
「ほんとにあるね」
美晴が小さく言った。
「うん」
「昨日、夢だったらよかったのにって思った」
「僕も」
言ってから、自分で少し驚く。
美晴と同じことを思っていた。
昨日の夜、布団に入ってから、何度もそう考えた。見間違いだったらよかった。あの紙が夢だったらよかった。同じ係だったなんて、何かの誤記ならよかった。
でも朝になっても、文字は消えていなかった。
「記録係って、何してたんだろう」
美晴が言う。
「写真とか、紹介文とか、たぶん」
「湊、写真撮ってた記憶ない?」
「ない」
「本当に?」
「本当に」
即答したあとで、胸が痛んだ。
それはもう何度も答えた言葉だった。でも、答えるたびに自分が少しずつ削れていく感じがする。
美晴はファイルの後ろの方をめくった。
「他にも記録係の資料あるかも」
彼女がそう言った瞬間、背後から声がした。
「何見てるの?」
花音だった。
僕と美晴は同時に振り返る。
花音は黒板前の輪から抜けてきたらしく、片手にプリントを持っていた。いつものように軽い笑顔を浮かべている。けれど、棚の前にしゃがむ僕たちと、開かれたファイルを見て、その笑顔が一瞬だけ薄くなった。
「去年の資料?」
花音が聞く。
「うん」
美晴が答えた。
「今年の参考にしようと思って」
嘘ではない。
でも全部でもない。
花音は「ふうん」と言って、少しだけ身を屈めた。
そして、役割分担表を見た。
その瞬間を、僕は見逃さなかった。
花音の視線が、名前の欄で止まった。
水崎澪。
水野湊。
そこを見た。
そして、花音は笑った。
「懐かし」
その声は、あまりにも自然だった。
自然すぎて、逆に怖かった。
「懐かしいって」
美晴が聞き返す。
「覚えてるの?」
花音は一瞬だけ美晴を見た。
それから、少しだけ肩をすくめる。
「記録係あったねって話。去年、なんか写真撮ったりしてたじゃん」
「誰が?」
今度は僕が聞いた。
自分の声が思ったより低かった。
花音は僕を見る。
その目の奥に、ほんの少しだけ困った色があった。
「湊も、撮ってたんじゃない?」
「覚えてない」
「そっか」
「花音は、覚えてるの?」
彼女の名前を呼び捨てにしたのは、いつからだっただろう。
たぶん自然にそうなっていた。花音もそれを気にしなかった。
「……少しだけ」
花音は言った。
「ほんとに少しだけ」
「水崎澪のことも?」
美晴が息を呑む気配がした。
水崎澪。
その名前を、教室の中で、花音の前ではっきり口にした。
周りの音が、一瞬だけ遠くなる。
花音の笑顔が、今度こそ完全に止まった。
でも彼女はすぐには話題を流さなかった。
それが逆に、彼女がどれだけ本気でその名前を受け止めたかを示しているように思えた。
「……湊」
花音は小さく言った。
「それ、誰から聞いたの」
「栞」
「そっか」
ただそれだけ。
責めるわけでも、驚くわけでもない。
ただ、納得したような声。
「覚えてるんだね」
僕が言うと、花音は役割分担表から目を逸らした。
「覚えてるって言えるほどじゃないよ」
「でも、知らないわけじゃない」
「うん」
彼女は認めた。
それは、思ったより大きなことだった。
花音が水崎澪を知らないふりをしなかった。
それだけで、教室の空気が少しだけ変わった気がした。
「でも」
花音は続ける。
「今ここで話すことじゃない」
「また流すの?」
自分でもきつい言い方だと思った。
花音の顔が少しだけ揺れた。
美晴が「湊」と小さく僕を止めようとする。でも言ってしまった言葉は戻らない。
花音はしばらく黙っていた。
それから、いつもの軽さを少しだけ残した声で言った。
「流してるよ」
あまりにも素直な答えだった。
「今、流してる」
僕は何も言えなくなる。
花音は続けた。
「だってここで話したら、みんな止まるじゃん」
その言葉に、背筋が冷える。
みんな止まる。
たぶんそれは、彼女にとって一番避けたいことなのだ。教室の空気が止まること。笑いが止まること。誰かが気まずくなること。今の文化祭準備が、去年の名前で止まってしまうこと。
花音はそれが怖い。
怖いから、流す。
悪意ではない。
でも確かに、流している。
「じゃあ、いつなら話せるの」
美晴が聞いた。
花音は少しだけ驚いたように彼女を見る。
美晴の声は震えていなかった。怒っているわけでもない。ただ、ちゃんと聞こうとしている声だった。
「今じゃないなら、いつ?」
美晴はもう一度言う。
花音は答えられなかった。
その沈黙の中で、黒板前の誰かが花音を呼んだ。
「橘ー、企画係戻ってー」
いつもの教室の声。
花音は一度だけ目を伏せ、それから僕たちに小さく言った。
「後で」
「本当に?」
僕が聞くと、花音は少しだけ笑った。
その笑顔は、いつものように場を明るくするためのものではなかった。
「逃げないよ」
そう言って、彼女は黒板前へ戻っていった。
僕と美晴は、棚の前に座ったまま、しばらく動けなかった。
役割分担表の紙だけが、膝の上で静かに開かれている。
そこには変わらず、二つの名前が並んでいた。
水崎澪。
水野湊。
そして今、花音もまた、その名前を知っていたことがわかった。
教室はまだ笑っている。
でも、笑いの下にあるものが少しずつ浮かび上がってきている。
僕はもう一度、自分の名前を見た。
同じ係だった人。
同じ欄に並んでいた人。
覚えていない人。
その事実だけで、胸の奥にある罪悪感は、前より少しだけ具体的な形を持ち始めていた。




