第8話 教室で笑う声、廊下で止まる会話
雨が降るかどうか微妙な空の日は、学校全体の色が少しだけ鈍い。
朝、家を出たときから空は薄い灰色で、風もあまりなかった。晴れているわけじゃないのに暗すぎるほどでもなくて、なんとなく判断に困る天気。こういう日は、窓際の席から見える景色まで曖昧になる。遠くの建物の輪郭も、グラウンドの白線も、全部が少しずつ薄く見える。
そのせいか、二時間目の数学はいつも以上に眠かった。
僕はノートの端に適当な数字を書きながら、先生の板書を追っているふりをしていた。窓の外は相変わらずはっきりしない空で、風がないぶん、木の枝もほとんど動いていない。時間だけが、静かに停滞しているみたいだった。
「水野」
不意に名前を呼ばれて、心臓が少し跳ねる。
「はい」
「ここ、次どうなる」
先生がチョークの先で黒板を指す。僕は数秒考えたふりをしてから、かなり自信のない答えを言った。教室のあちこちから、期待していたほどでもない笑いが洩れる。
「惜しいな。途中まではいい」
先生がそう言って話を戻したので、僕は小さく息を吐いた。
前の席の美晴が、ほんの少しだけ肩を震わせている。笑っているのか、呆れているのか、その両方かもしれない。
こういう、何でもない授業中のやりとりが、最近は妙にありがたく感じることがある。答えられなくて少し笑われるとか、先生に軽くいじられるとか、そういうどうでもいい日常の方が、変に引っかかるものよりずっと扱いやすいからだ。
昼休みになっても、空はまだはっきりしなかった。
教室ではいつも通り弁当を開く音がして、花音が誰かの購買のパンを勝手に評価していて、美晴は前の席で「それ絶対甘いだけでしょ」と冷静なことを言っていた。僕は窓際の席でレモンティーを飲みながら、そのやりとりをなんとなく眺める。
花音は今日も明るい。教室の真ん中に立っているわけでもないのに、声が届く範囲だけ少し温度が高い。
「湊、今日やたら静かじゃない?」
ふいに、その本人がこちらへ顔を向けた。
「いつもこんなもんだよ」
「いや、今日は本読んでないし、ぼーっとしてる率が高い」
「細かいな」
「見てるからね」
またその言葉だ、と思う。
花音は何気なく言っているだけなんだろうけど、「見てる」と言われるたびに少しだけ落ち着かない。最近、自分が他人からどう見えているかを、前より頻繁に意識させられている気がする。
「空のせいじゃない?」
僕が窓の外を顎で示すと、花音もそちらを見た。
「うわ、たしかに。今日の天気、中途半端でやだね」
「雨降るなら降ってほしい」
「わかる。決断してほしいよね」
決断してほしい。
その言い方が少し面白くて、僕は笑った。
花音もつられて笑う。前の席の美晴はちらっとこっちを見たあと、また友達との会話に戻っていった。栞は一番後ろで本を閉じ、ゆっくりと鞄の中へしまっている。
全部、普通だ。
教室の中はちゃんと普通の昼休みをしている。
午後の授業を終えて、放課後になる。
結局、雨は降らなかった。空は最後まで「降るかもしれない」顔のまま終わって、校舎の外の空気までどこか湿っぽい。部活へ向かう生徒たちの声も、今日は少しだけ鈍く響いている気がした。
僕はいつものように鞄をまとめ、席を立った。
今日は図書室に寄るつもりはなかった。本もまだ途中だし、感想を言うほど進んでもいない。まっすぐ帰ってもよかったけれど、教室の空気を少しだけ抜きたくて、飲み物でも買おうかと思った。
廊下へ出る。
夕方の校舎は、教室の中より少しだけ現実的だ。誰がどの部活へ行くかとか、どの階段が混んでいるかとか、そういう生活の動線ばかりがはっきりしている。雑談の余熱はあるのに、居場所はもうそれぞれの方向へほどけ始めている。
自販機へ向かう途中、二階の渡り廊下のあたりで、女子の声が聞こえた。
たぶん隣のクラスか、その隣くらいの声だと思う。知っているような知らないような、同じ学年の女子たちの声。別に盗み聞きするつもりはなかった。ただ廊下は静かで、しかもそのとき近くに人が少なかったから、会話の断片だけが妙にはっきり耳に入ってきた。
「え、でもあれ結局どうなったの」
一人がそう言った。
声の調子は、深刻というより、確かめるみたいな響きだった。
それに対して、もう一人が少し低い声で返す。
「今それ言わなくてよくない?」
足が、ほんの少しだけ止まった。
わざとじゃない。耳が先に立ち止まって、体がそれに遅れた感じだった。
会話の相手たちは、僕の存在にまだ気づいていないらしい。
「いや、でもさ」
最初の声が続ける。
「だって最近また――」
そこで、廊下の角を曲がった僕と向こうの視線がたぶんかち合った。
声が、止まる。
止まった、という表現が正しいと思う。自然に話題が切れたんじゃない。刃物で糸を切るみたいに、会話の途中がそこで寸断された。
「あ」
誰かが小さく言った。
「……おつかれ」
今度は別の、やけに普通を装った声。
「おつかれさま」
僕も反射で返す。通り過ぎる。相手の顔は、ちゃんと見なかった。見たら覚えてしまう気がしたし、覚えるほどのことじゃない気もしたからだ。
数歩進んだところで、背中の方からまた会話が始まる気配があった。でも声はさっきよりずっと小さく、何を言っているのかは聞き取れなかった。
ただ、確かに「止まった」。
それだけが、妙にくっきり残る。
自販機の前まで来て、僕は炭酸のボタンを押した。缶が落ちる音が空っぽみたいに響く。取り出し口から缶を取ると、表面がひどく冷たかった。
大したことじゃない。
廊下で誰かが話していて、僕が近づいたから止まった。それだけだ。学校ではよくある。噂話かもしれないし、本人に聞かれたくない誰かの話だったのかもしれない。別に、珍しいことじゃない。
なのに、そこで自分が「止めた側」だったことが少しだけ気になった。
最近、そういう瞬間が前より多い気がする。
誰かが言い淀む。誰かが話題を変える。誰かが少しだけ視線を逸らす。その全部が僕の気のせいだと言ってしまえば、きっとそれで済む。実際、今まではそうしてきた。
でも、気のせいにするには、回数が少しずつ重なり始めている。
「湊くん」
後ろから声がした。
振り返ると、栞が数メートル先の廊下に立っていた。図書室帰りなのか、手には貸出カードの束みたいなものを持っている。
「何してるの?」
「飲み物買ってただけ」
「そう」
彼女はそれだけ言って歩いてくる。僕の横まで来ると、さっき僕が立ち止まっていた辺りを一度だけ見るような素振りをした。
「何かあった?」
「いや」
僕は少しだけ迷ってから答えた。
「女子が話してて、僕が通ったら止まっただけ」
「ふーん」
「その反応なに」
「別に」
「最近みんな、別にって言い方が雑だよね」
そう言うと、栞は少しだけ口元をゆるめた。
「湊くんも、人に聞かれて困る話は止めるでしょ」
「それはそうだけど」
「じゃあ普通じゃない?」
「まあ」
たしかに普通だ。理屈としては。
でも普通だと言われてしまうと、それ以上気にしている自分の方が過敏みたいで、少しだけ居心地が悪い。
僕は缶のプルタブを開ける。小さな音がして、炭酸の気配が立ち上る。
「……最近さ」
気づけば、そんなことを言っていた。
「なんか、変なとこで空気が止まることない?」
栞は少しだけ目を細めた。
「どこで?」
「教室とか、廊下とか。ほんの一瞬だけ」
「あるかもね」
あまりにもあっさり言われて、今度は僕の方が戸惑う。
「え、あるんだ」
「学校ってそういう場所だし」
「どういう意味」
「みんな同じ空間にいるのに、知ってることが少しずつ違う場所」
栞の言葉は、相変わらずそのままでは掴みにくい。
でも、掴みにくいくせに耳には残る。
「知ってることが違うって」
「同じクラスでも、仲いい子同士しか知らない話ってあるでしょ」
「まあ」
「逆に、みんな知ってるのに話題にしないこともある」
その一文だけ、少しだけ重かった。
僕は何も返さなかった。返せなかった、かもしれない。
みんな知ってるのに話題にしないこと。
それが何を指しているのか、栞が具体的に何かを知っているのか、それともただ一般論として言っているだけなのか、わからない。わからないけれど、その言葉は確かにさっきの廊下の会話と繋がる感じがした。
あるいは、最近ずっと自分の周りに漂っている、小さな言い淀みたちとも。
「ねえ」
僕は缶を持ったまま、少しだけ声を落とした。
「雪平さん、何か知ってる?」
聞いてから、かなり直球だったなと思う。
でも栞は表情をあまり変えなかった。
「何を?」
「いや……わかんないけど」
「それだと答えようがないよ」
「そうだけど」
彼女は少しだけ考えるように沈黙して、それから静かに言った。
「知らない方がいいこともあるよ」
その返答は、前にも聞いた気がする言い方だった。
秘密。知ること。責任。知らないふり。知ってるのに話さないこと。
全部が少しずつ同じ方向を向いている気がするのに、まだ一つにもまとまらない。
僕はそれを追いかけるべきなのか、気のせいだと切り捨てるべきなのか、自分でもまだ決めきれなかった。
「湊?」
今度は別の声が前方から飛んできた。
見ると、美晴が廊下の向こうに立っていた。手にはファイルを持っていて、たぶん職員室に何か出しに行く途中なんだろう。彼女は僕と栞を見て、それから僕の手の缶へ視線を落とし、またこちらを見る。
「何してるの」
「飲み物買ってただけ」
さっきと同じ答えを返すと、美晴は微妙な顔をした。
「それ、さっきも誰かに言ってなかった?」
「今言っただけだけど」
「そうだっけ」
彼女はそこで少しだけ首を傾げてから、栞に小さく会釈した。
「雪平さん、図書室帰り?」
「うん」
「そっか」
その会話自体は何でもない。何でもないのに、三人の間に流れる空気だけが少しずつ違っている気がする。
美晴は前よりも言葉を選んでいて、栞はいつも通り静かで、僕だけがそのあいだで何となく立ち位置を測っている。たぶん誰も悪くない。悪くないから余計に、どう扱えばいいのかわからない。
「職員室?」
僕が聞くと、美晴は頷いた。
「プリント提出」
「真面目だ」
「誰かさんと違って」
「出た」
花音がいたらここで絶対に茶化していたな、と思う。
でも彼女はいない。いないだけで、空気の転がり方は少し変わる。
「じゃ、私行くから」
美晴はそう言って、一度だけ僕を見た。
「湊、先帰るなら連絡して」
「連絡?」
「……別に深い意味ないけど」
その言い方に、少しだけ昨日の続きが混ざっていた。
習慣みたいなもの。いつも通りが少し崩れていることへの違和感。たぶん美晴はまだ、その違和感の正体を自分でもうまく掴めていない。
「わかった」
僕が答えると、彼女はそれ以上何も言わずに歩き出した。
美晴の背中が角を曲がって見えなくなるまでのあいだ、僕と栞は特に言葉を交わさなかった。
やがて栞が小さく言う。
「幼馴染って、大変そう」
「急に他人事みたいに」
「他人事だから」
「まあ、それはそうだけど」
僕は缶の炭酸を一口飲んだ。冷たさが喉を通る。
「でも最近、ちょっと変なんだよね」
「篠宮さんが?」
「僕たちの距離が、かな」
言いながら、自分でも妙な表現だと思う。
距離が変だなんて、普段ならそんなふうに考えない。幼馴染なんて近かったり遠かったりするものだし、それをいちいち言葉にしたところで何かが解決するわけでもない。
けれど今は、その曖昧さそのものが少し気になった。
「変わるでしょ」
栞は淡々と言う。
「席も変わったし、話す相手も増えたし」
「それだけかな」
「それ以外の理由がほしいの?」
そう聞かれて、僕は黙る。
理由がほしいのかどうかも、自分ではよくわからなかった。ただ、最近いろんなことが少しずつ「それだけではない」ように感じる瞬間が増えている。そして、その感覚に名前をつけるのがまだ怖い。
もし名前をつけてしまったら、知らなかった頃には戻れない気がするからだ。
栞が言っていた通りに。
「……帰る」
僕はそう言って缶を軽く持ち上げた。
「うん」
「また明日」
「また」
廊下を歩き出す。
教室の前を通ると、中ではまだ何人かが残って笑っていた。花音の声も混ざっている。相変わらず明るくて、軽くて、何も変わっていないように見える。
なのに廊下では、会話が止まる。
教室で笑う声と、廊下で途切れる声。
どちらも同じ学校の、同じ放課後の音なのに、その差が今日は妙にはっきりして聞こえた。
僕は立ち止まらない。
立ち止まっても、まだ何も見えない気がしたからだ。
けれど、見えないままでいるには、少しずつ音が集まり始めている気もしていた。




