第7話 秘密って、誰のものだろう
その本は、思ったより読みやすかった。
栞に「最後まで読めそうなやつ」と言われて渡されたときは、半分くらい冗談だと思っていたけれど、実際にページを開いてみると、たしかに僕でもするすると入っていける種類の文章だった。短編集だから区切りがいい、というのもある。けれどそれ以上に、話の始まり方がどれも静かだった。強く引っ張られる感じじゃないのに、気づくと少し先まで読んでいる。そういう本だった。
僕はだいたい、自分から本を選ぶときに雰囲気で手を伸ばす。
表紙の色とか、タイトルの響きとか、そういう入口のやわらかさで選ぶことが多い。けれど栞が選んだ本は、入口だけじゃなく中身までちゃんと僕向きだったらしい。それが少しだけ悔しくて、少しだけおかしかった。
翌日の昼休み、僕はその本を机の中に入れたまま、窓際の席でページを開いていた。
教室はいつもの昼休みだ。机を寄せて弁当を食べるグループ、購買から帰ってきたやつらの戦利品報告、誰かがスマホで見せている動画に集まる笑い声。騒がしすぎるわけじゃないけれど、静かとはほど遠い。そんな中で本を読むのは少しだけ場違いな気もしたけれど、窓際の席というのは案外一人になりやすい場所でもある。
「珍しい」
前から声が飛んできた。
顔を上げると、美晴が半分だけ振り返ってこちらを見ていた。
「昼に本読んでる」
「たまには」
「雪平さんの?」
「うん」
そう答えると、美晴は一瞬だけ「ふーん」と言って、また前を向いた。
それだけだった。
それだけなのに、昨日の続きみたいな妙な間がそこに残る。怒っているわけじゃない。あからさまに不機嫌でもない。ただ、話を終わらせるタイミングが少しだけ早い。幼馴染の勘というのがあるなら、そういう細かい速度の違いもたぶんその範囲に入るんだろう。
でも、わざわざこちらから掘り返すほどのことでもない。
僕はそう判断して、本へ視線を戻した。
それがいつものやり方だった。少しだけ引っかかることがあっても、今ここで触らなくていいなら触らない。話題にしないままでも日常が続くなら、その方がきっといい。少なくとも、面倒は少ない。
「湊、本当に最近図書室の人みたいになってるじゃん」
今度は斜め後ろから花音が身を乗り出してきた。
「人みたいって何」
「放課後じゃなく昼にも読むとか、本格派だなーって」
「本格派の基準が雑」
「でもその席で読んでると、ちょっと絵になるよ」
「急に褒めてきた」
「絵になるけど、たぶん内容はあんまり頭に入ってないでしょ」
「なんでわかるの」
「今、三回くらい同じ行読んでた顔してた」
「顔でわかるもの?」
「わかる人にはわかる」
花音は満足そうに頷いてから、自分のグループへ戻っていった。
たぶん本当に、彼女は人のことをよく見ているんだろう。僕がどういうときに集中していない顔をするかなんて、普通そこまで気づかない。気づいたとしてもわざわざ言わない。花音はその「気づいたことを軽く口に出す」加減がうまい。
そして、残念ながら図星だった。
僕はたしかに、同じ行をさっきからきれいに読み直していた。文字は追っているのに、意味が頭に入ってこない。理由は明白で、さっきから別のことを少しだけ考えているからだ。
美晴の「ふーん」の速さとか、昨日の「変」と言われたこととか、栞の本が思ったより自分に合っていたこととか、そういう細かいことが、今日に限って妙に心の表面に浮いてくる。
昼休みのざわめきの中で考えるには、どれも少しだけ輪郭が曖昧だった。
結局、僕は本を閉じた。
放課後になったら、返しがてら栞に感想を少し言おうかと思う。まだ読み切ってはいないけれど、少なくとも「思ったより読めてる」は伝えてもいい。そう思ったのは、本のことが半分、話題の口実が半分だったのかもしれない。
六時間目までの授業を終えて、教室がまた放課後の顔に戻っていく。
椅子を引く音、鞄のファスナーを閉める音、今日も部活だるいという声。いつもと同じ。夕方の光も、窓の外の空も、たぶん昨日とそんなに変わらない。
それなのに最近、放課後の始まりに少しだけ緊張することがある。
何か起きるわけじゃない。ただ、自分がどの流れに乗るかをその場で決める感じが、前より少しだけ意識に上るようになった。美晴と帰るのか、花音に捕まるのか、図書室へ行くのか、そのまま一人で帰るのか。前はそんなこと考えもしなかったのに。
僕は鞄から借りた本を取り出し、教室を出た。
廊下に出ると、教室の中のざわめきが一枚向こう側へ下がる。窓から入る風は少しだけ冷たくて、昼より夕方の方がまだ春の頼りなさを感じる。どこかの階段の方で駆けていく足音が響いた。
図書室の扉を開ける。
紙の匂い。机に落ちる斜めの光。ページをめくる小さな音。昨日も思ったけれど、図書室は教室と違って沈黙が最初から許されている。そのことに、最近少し助けられている気がした。
カウンターの向こうに、栞がいる。
今日は眼鏡をかけていた。黒縁の細いフレームがあるだけで、顔の印象が少しだけ変わる。教室で見るより、図書室で見る方が似合っているように思えるのは、たぶん気のせいじゃない。
「読めてる?」
僕が近づくと、栞は本より先にそのことを聞いた。
「失礼だな」
「で、どう?」
「思ったより読めてる」
「思ったより、って自分で言うんだ」
「自分でも意外だったから」
僕が文庫本を差し出すと、栞は「まだ返さなくていいのに」と言った。
「感想だけ言いに来た」
「律儀」
「ちゃんと選んでくれたっぽいし」
すると栞は、ほんの少しだけ目を細めた。
「じゃあ、成功だった」
「そういう言い方するんだ」
「実験みたい?」
「少し」
「否定はしない」
その返しが栞らしくて、僕は少し笑った。
図書室の奥では、三年生らしい男子が参考書を開いている。窓際の席には誰もいない。放課後の図書室は、来る人は来るけれど、来ない人は徹底して来ない場所だ。その偏りが、なんとなく好きだった。
僕はカウンターの端に肘をつく。
「短いのがよかったのかも」
「何が?」
「読むの。長いと、途中で間が空いたときに戻れなくなるから」
「なるほど」
栞は返却カードの束を整えながら頷いた。
「じゃあ湊くんは、話も人も、途中で間が空くと戻れなくなるタイプかも」
「急に人間関係に広げないでほしい」
「広げたわけじゃなくて、似てるなと思っただけ」
その「似てるな」が、妙に引っかかった。
でも嫌じゃない。むしろ、自分のことをそんなふうに見てくる人がいるのが少しだけ新鮮だった。美晴は昔から知っているぶん、「変化」で僕を見る。花音は今の振る舞いを「観察」して言葉にする。栞はたぶん、その両方と少し違う。今目の前にあるものから、もう一歩奥を見ようとしている感じがある。
「ねえ」
僕はふと思い出したことを口にした。
「この前言ってたよね。秘密って、打ち明ける側だけのものじゃないって」
栞の手が、一瞬だけ止まった。
「うん」
「あれ、どういう意味?」
聞いた瞬間、ちょっと重かったかなと思った。図書室は静かだけれど、静かだからこそ重い話がそのままの重さで落ちることがある。
でも栞は困った顔はしなかった。
少しだけ視線を下ろし、それから言う。
「そのままの意味」
「いや、説明としてはすごく不親切なんだけど」
「そう?」
「うん」
栞は少しだけ考えてから、カウンターの上に置いてあった栞紐つきの本を閉じた。
「たとえば、誰かが秘密を話すとするでしょ」
「うん」
「それって、話した時点でその秘密はその人だけのものじゃなくなる」
「まあ、そりゃそうか」
「知った方は、知らなかった頃には戻れないから」
静かな声だった。
でも、その言葉は妙にはっきりしていた。
知らなかった頃には戻れない。
それはたぶん、当たり前のことだ。人の秘密を知るってそういうことだし、だからみんなむやみに打ち明けないし、むやみに聞かない。わかっているはずなのに、改めて言葉にされると少しだけ背筋が伸びる。
「でもさ」
僕はレモンティーの空いたペットボトルみたいな軽さで返そうとして、少し失敗する。
「知らされた側からすると、勝手じゃない? こっちは聞くつもりなかったのに、急に責任だけ増えるの」
「そうだよ」
栞はあっさり言った。
「だから秘密は嫌い」
「嫌いなんだ」
「うん。重いから」
そう言って、彼女は窓の方を見た。
放課後の光が、図書室の机の縁を白くしている。静かな場所で誰かが「嫌い」と言うとき、その言葉は教室より少しだけ本音に近く見える。
「でも」
栞が続ける。
「本当に嫌なら、人は最初から聞かないようにすると思う」
「聞かないように?」
「うん。近づかないとか、気づかないふりをするとか」
その言い方に、僕は少しだけ胸の奥を突かれた気がした。
気づかないふり。
最近、そういう言葉ばかりが自分の周りに集まってくる。
見てるようで見ない方を選ぶ。気のせいで済ませる。気づかないふりをする。
どれも同じことを別の角度から言っているように思えて、落ち着かない。
「雪平さん、僕に何か言いたいの?」
半分冗談みたいに聞くと、栞は僕の方を見た。
目が合う。眼鏡の奥の視線は静かで、でも逃げていない。
「湊くんって、気づいても見ないことにするの上手そうだから」
「またそれ?」
「またそれ」
少しだけ笑いながら言われると、反発する気も薄れる。
僕はカウンターに置かれた貸出カードの束へ視線を落とした。前にも見た気がするその厚み。その中に、誰の名前がどんな順で並んでいるのか、僕は知らない。知ろうとすればたぶん知れる。でも、わざわざ知る理由もない。
知らなくていいことは、知らないままでいい。
本当は、僕は昔からそう思ってきたんだろう。
「秘密ってさ」
僕は少しだけ視線を上げた。
「知った方がいい秘密もあるのかな」
自分で言ってから、変な質問だと思った。
けれど栞はすぐには笑わなかった。少しだけ考えて、それから答える。
「たぶんある」
「たぶんなんだ」
「あるって言い切ると、知った後に何もできなかったとき苦しいから」
その返事は、妙に真っすぐだった。
何もできなかったとき苦しい。
僕はそこで、ふと何かを思い出しかけた。
でも思い出したわけじゃない。ただ、言葉の輪郭だけが先に引っかかった感じだ。何か具体的な出来事じゃなく、もっと曖昧な感覚。教室の中で少しだけ空気が止まる瞬間とか、誰かが話題を変える速さとか、名前をつける前に飲み込まれていく違和感とか。
「湊くん」
栞が僕を呼ぶ。
「何でもかんでも知ればいいってわけじゃないよ」
「うん」
「でも、知ってるのに知らないふりするのも、けっこう重い」
その言葉に、僕は返事をしなかった。
できなかった、が正しいかもしれない。
図書室の時計が、かすかに音を立てて針を進める。遠くで椅子が引かれる音がした。誰かが本を閉じる。外では風が少し強くなったのか、窓ガラスが小さく鳴った。
静かな場所ほど、言葉がそのまま残る。
だからたぶん、今の会話もこのまま何かの形で残るんだろうと思った。すぐ忘れるような軽口じゃない。かといって今すぐ意味を持つわけでもない。ただ、心のどこかの棚に一冊差し込まれるみたいに残っていく。
「……秘密って、誰のものなんだろうね」
気づけば、そんなことを口にしていた。
栞は少しだけ驚いたように瞬きをして、それから小さく言った。
「最初は一人のもの」
「うん」
「でも、話したら二人のものになる」
「じゃあ、勝手に重くなるんだ」
「そう」
「やだな」
「うん。やだよ」
僕らは少しだけ笑った。
笑ったけれど、軽くはならない種類の話だった。
そのとき、図書室の扉が開いて、別の生徒が入ってきた。空気が少しだけ動く。僕はようやくカウンターから手を離した。
「じゃあ、今日は帰る」
「うん」
「本はもう少し借りとく」
「急がなくていいよ」
栞はそう言って、またカードの整理へ戻る。
僕は図書室を出た。
廊下はもう少しだけ静かだった。さっきまでの会話が頭の中に残っていて、足音だけが妙に現実的に聞こえる。
秘密は、話したら二人のものになる。
知ってるのに知らないふりするのも重い。
その言葉を、僕は自分のこととして受け取ったのか、ただの会話として持ち帰ったのか、自分でもまだよくわからなかった。
でも少なくとも、完全に無関係な話として流すことはできなかった。
階段を下りながら、ふとスマホを取り出す。
メッセージは来ていない。美晴からも、花音からも、誰からも。画面を見て、すぐにしまう。別に何を期待したわけでもないのに、その「何もない」が少しだけ静かすぎる気がした。
教室の前を通りかかる。
扉は半分開いていて、中では数人がまだ残っていた。花音の声がする。誰かの笑い声も重なる。明るい、普通の放課後だ。僕はそのまま通り過ぎかけて、少しだけ足を緩めた。
明るい教室。
普通の放課後。
そこにあるはずのものがちゃんと揃っているのに、ときどきほんの少しだけ、何かが薄い気がする。
何が、と問われると答えられない。人数なのか、空気なのか、話題なのか。たぶんそのどれでもなく、その全部に少しずつ関係があるような、そういう曖昧な違和感。
でも僕は立ち止まらない。
立ち止まって考えるほどの根拠は、まだないからだ。
まだ、ない。
そう思いながら校舎を出た。
春の夕方の風は、少しだけ冷たいままだった。




