第6話 美晴の嫉妬は、恋なのかただの習慣なのか
席替えのあと、教室の景色はたしかに変わったのに、人の距離感はそう簡単には変わらない。
――と、最初のうちは思っていた。
実際、最初の二日くらいはそんな感じだった。前の方へ移動した美晴は相変わらず小テストのことを気にしていたし、斜め後ろの花音は相変わらず誰かを捕まえては話を広げていた。栞は一番後ろの席が思った以上に似合っていて、放課後になるとその席で文庫本を閉じる姿が、前からそうだったみたいに教室へ馴染んでいた。
僕も僕で、新しい窓際の席にすぐ慣れた。
朝の光の入り方。昼休みに窓から見える校庭。授業中、視線を少しずらせば遠くの空が見えること。そういう小さなことの積み重ねで、席は「ただの席」から「自分の席」へ変わっていく。
変わったのは景色だけだ。
そう思っていたのに、実際は少し違った。
人は座る場所が変わると、話しかけるタイミングも変わる。
前の席にいた頃は、美晴は振り向けばすぐそこにいた。プリントの渡し忘れとか、先生の連絡とか、そういう些細なことでいくらでも言葉が飛んできたし、僕も気軽に返していた。けれど今は、彼女は前から三番目。こちらが何かを言うには少し遠く、向こうが振り返るにも少し面倒な距離だ。
その「少し」が、思ったより効く。
もちろん話さなくなるわけじゃない。朝や昼休み、移動教室のタイミングで普通に会話はする。でも、今まで無意識に繋がっていた細い糸みたいなものが、席替えを境に少しだけ張り替えられた感じがあった。
その代わりに、というわけでもないのだろうけれど、栞と話す機会は少し増えた。
一番後ろと窓際後ろ寄り。授業終わりや放課後に目が合うことが増えたし、図書室へ行けば前より自然に言葉を交わせる。何か特別なことをしているわけじゃない。ただ距離が近くなったぶん、会話の生まれる回数が増えただけだ。
たったそれだけのことのはずだった。
その日の放課後も、始まりはそんなに特別じゃなかった。
六時間目のチャイムが鳴って、担任の終礼が終わって、教室が少しずつほどけていく。鞄を持つ音、椅子を引く音、どこかで誰かが笑う声。部活のあるやつは急いで立ち、帰るやつはまだ席でスマホを見ている。夕方の教室特有の、気の抜けた明るさ。
僕は机の中のノートをまとめて、英語のプリントをクリアファイルに挟んだ。窓際の席に座っていると、放課後の光が少し長く残る。机の上に斜めの影ができて、それがだんだん伸びていくのを見ていると、帰るタイミングを少しだけ失うことがある。
「湊くん」
後ろから声がした。
振り返ると、栞が自分の席で本を鞄に入れながらこちらを見ていた。
「なに」
「この前言ってたおすすめ、持ってきた」
「え、ほんとに?」
「一応」
彼女は鞄の中から文庫本を一冊取り出した。カバーはついていなくて、表紙は淡い青。派手ではないけれど、静かな綺麗さがある本だった。
「最後まで読めそうなやつ」
「信用のなさが一周して親切に感じるな」
「短編集だから」
「そこまで対策されてるの」
「湊くん、長いと途中で雰囲気に飽きそうだから」
「言い返せないのが悔しい」
僕が立ち上がって本を受け取ると、紙の端が少しひんやりしていた。まだ誰の手の熱にもなっていない感じがする。
「ありがとう」
「読めなかったら無理に最後までいかなくていいよ」
「貸してくれた人の言葉としてどうなんだろう」
「無理して読まれるのも嫌だから」
「雪平さん、そういうとこ正直だよね」
「よく言われる」
そう言って栞は少しだけ笑った。
教室のざわめきはまだ残っているのに、その周辺だけ少し音が遠い気がする。別に二人きりじゃない。前の方では美晴がまだ帰る支度をしているし、花音も誰かと話している。なのに、こうして机越しに本を受け取るやりとりだけが、小さく切り取られたみたいに静かに見えた。
「湊、それ何?」
声がして顔を上げる。
前方の席から振り返った美晴が、こっちを見ていた。
声色はいつも通りだ。たぶん。少なくとも、表面上は。
「雪平さんに本借りた」
「へえ」
たった二文字の相槌だった。
でも、その「へえ」は少しだけ薄かった。興味がないふりをしているような、逆に興味があるのを隠しているような、中途半端な返事。
花音がそこへすかさず割って入ってくる。
「なになに、図書室ルートの秘密イベント?」
「言い方」
僕が呆れると、花音は楽しそうに近づいてきた。
「だってそう見えるじゃん。放課後の教室で本の貸し借りって、急に青春文学っぽいし」
「橘さん、たまに言い回しが変」
「褒めてるんだけどなあ」
花音は本の表紙を覗き込み、「うわ、静かそう」と言った。たしかに静かそうではある。
一方で、美晴は前の席からこちらを見たまま、ファイルを閉じる手が少しだけ止まっていた。
それに気づいたのは、本当にたまたまだった。
「美晴も読む?」
なんとなく、場を均すつもりで聞く。
すると彼女は一瞬だけ目を瞬かせてから、少しだけ早口で言った。
「別に。私はいい」
「いや、嫌ならいいけど」
「嫌っていうか、最近そういうの多いなと思っただけ」
「そういうの?」
「図書室」
それだけ言って、美晴は立ち上がる。椅子の音が少し大きかった。
花音が、わかりやすく面白がる顔をした。
「え、なにそれ。篠宮さん、それ嫉妬?」
「違うから」
即答だった。
でも、その否定は前より少しだけ強かった。強い否定って、ときどき肯定よりわかりやすい。
「違うし。そもそも嫉妬する意味がないでしょ」
「意味がないと嫉妬しないわけじゃないじゃん」
「橘、ほんとそういうの好きだよね」
美晴は眉を寄せる。
「好きとかじゃなくて、今のはどう見てもそうだったし」
「違うって言ってるでしょ」
「じゃあ何?」
「……別に、最近湊が放課後すぐ図書室行くから、珍しいなって思っただけ」
「それは嫉妬では?」
「違う」
美晴はきっぱり言い切ったあと、少しだけ言葉に詰まった。
「なんていうか……習慣みたいなものだし」
「習慣?」
今度は僕が聞き返す番だった。
美晴は視線を少し逸らす。
「だって今まで、湊ってだいたい私と一緒に帰るか、少なくとも帰る前に一回は話してたじゃん」
そう言われてみれば、たしかにそうだった。
待ち合わせをしていたわけじゃない。毎日約束していたわけでもない。でも、幼馴染というのは変なもので、帰るタイミングがなんとなく重なることが多い。昇降口で会うとか、廊下で一緒になるとか、その程度の偶然の積み重ねで、いつのまにか「だいたいそうなる」関係になっている。
それが最近、少し崩れていた。
僕が席替え後に窓際へ移って、栞と話すようになって、図書室へ寄る回数が増えた。だから、美晴にとっては「いつも通り」が少し減ったのだ。
「なるほど」
花音がやけに納得した顔で頷く。
「恋っていうより縄張り意識かも」
「橘」
「ごめんごめん。でもそれはそれでだいぶ面白い」
「面白くない」
美晴が睨む。
花音は笑いを堪えきれていない。たぶん彼女にとっては、こういう微妙な距離感の揺れが一番楽しいのだろう。もちろん悪意はない。悪意はないけれど、当事者からすると少しだけ困る。
僕は手の中の本を見下ろした。
たしかに、ここで僕が何か言えばもっと面倒になる気もする。茶化して流すのが正解なのか、真面目に受け取るのが正解なのか。考えるまでもなく、僕が選ぶのはたいてい前者だった。
「じゃあ今度から、一回保護者に報告してから図書室行くよ」
そう言って笑うと、美晴は即座に顔をしかめた。
「だから保護者じゃないって」
「そこはいつも通りなんだ」
花音がまた笑う。僕もつられて笑う。
これで空気は軽くなる――はずだった。
でも、美晴は少しだけ納得していない顔のままだった。
怒っているわけじゃない。泣きそうでもない。ただ、何かを言いそびれた人の顔をしている。その表情は、からかわれて赤くなるときの彼女とも少し違っていた。
栞はそのやりとりを静かに見ていたが、僕と目が合うと小さく言った。
「貸すのやめようか?」
「え?」
「なんか原因みたいだし」
「いや、そんな大げさな話じゃないよ」
僕が慌てて言うと、美晴もすぐに首を振った。
「違うから。雪平さんが悪いとかじゃ全然ないし」
その言い方は本気だった。
だから余計に厄介なんだと思う。誰かが明確に悪いわけじゃない。栞が本を貸したのも、僕が受け取ったのも、ただそれだけの話だ。そこに怒る理由なんてないし、美晴だってそれはわかっている。
わかっているのに、少しだけ気持ちが追いついていない。
たぶんそういうことだった。
「篠宮さんってさ」
花音が、少しだけ声の調子を落として言う。
「湊のこと、ほんとによく見てるよね」
からかう響きはある。けれどさっきまでより少しだけ柔らかい。
美晴はそれにすぐ返さなかった。
数秒置いてから、肩をすくめるみたいにして言う。
「……幼馴染だから、変化がわかるだけ」
「変化って何」
僕が聞くと、美晴は一瞬だけこっちを見た。
「最近、たまに変」
「またそれ?」
「うん」
「どのへんが」
「ぼーっとしてる回数増えたし、考えごとしてるときの顔がわかりやすいし、なんか変なところで引っかかってる感じがする」
それは、この前も言われたことだった。
最近たまに変な顔をする。ぼーっとしている。何かに引っかかっているように見える。
自分ではそんなつもりはなくても、長く一緒にいた相手にはわかるのかもしれない。
「気のせいじゃない?」
僕が言うと、美晴は少しだけ強い目をした。
「そうやって、すぐ気のせいにするところ」
その一言に、僕は何も返せなかった。
花音も珍しく、すぐには口を挟まない。教室のざわめきはまだ周囲にあるのに、僕たちのまわりだけ一瞬静かになった気がした。
そうやって、すぐ気のせいにするところ。
それは栞にも似たようなことを言われた。変だと思っても、自分で先に「気のせい」で終わらせる。見ているようで見ない方を選ぶ。放っておくのが上手い。
僕の性格を表す言葉が、最近、いろんな角度から集まってくる。
「……別に、責めたいわけじゃないから」
美晴が少しだけ声を落として言った。
「ただ、なんか最近前と違う気がするだけ」
「前って?」
「知らない。前は前」
答えになっていないのに、その曖昧さが妙に美晴らしかった。
きっと彼女自身も、何に引っかかっているのかをうまく説明できないんだろう。ただ、いつもの流れから少しだけ外れていることに気づいていて、それが落ち着かない。幼馴染の習慣がずれたのか、もっと別の何かがあるのか、自分でもわかっていない。
「まあでも」
花音がぱっと明るい声に戻る。
「嫉妬でも習慣でも、そういうの青春っぽくていいじゃん」
「橘はすぐそれでまとめる」
「だって実際そうじゃない?」
「私はよくない」
「湊は?」
急に振られて、僕は少し考える。
「……何が?」
「鈍い」
花音が即答し、美晴が額に手を当て、栞が小さく目を伏せて笑った。
その反応が揃いすぎていて、さすがに少しだけ居心地が悪い。
「いや、今のは質問が広すぎるでしょ」
「湊って、ほんとにそこだけ器用に鈍いよね」
花音は楽しそうだ。
「便利な才能だと思う」
「褒められてない」
「でも実際、こういうの自分で深読みしない人の方が平和に生きられるじゃん」
「それはちょっとわかる」
と言ったのは栞だった。
僕たち三人がそちらを見ると、彼女は少しだけ言葉を探すように視線を落とす。
「考えすぎると、余計なものまで見えるから」
その言い方は静かだったけれど、なぜか妙に印象に残った。
余計なものまで見える。
それはたぶん、彼女自身の話でもあるんだろう。
僕は一瞬だけ何か返そうとして、やめた。うまい言葉が見つからなかったし、たぶん今ここでその意味を掘り下げる空気でもない。
「はいはい、じゃあ今日はこのへんで解散ね」
花音が手を叩く。
「これ以上やると篠宮さんが本気で怒るから」
「まだ怒ってないし」
「まだ、って言った」
「言ってない」
いつもの応酬に戻る。
そのまま教室の空気も少しずつ元通りに流れ始めた。誰かが部活へ行くと言って立ち上がり、誰かが掃除当番の話をし始め、窓の外ではグラウンドからホイッスルの音がした。
たった数分の会話だったのに、少しだけ長く感じた。
僕は手の中の本を鞄に入れる。
「じゃあ、ありがと。読んだら返す」
「無理しなくていいけど」
栞が言う。
「最後まで読む努力はしてみる」
「努力っていう言い方」
「信用ないからね」
僕が笑うと、栞も小さく笑った。
前の方では、美晴がまだ何か言いたげにしていたけれど、結局それ以上は何も言わなかった。ただ、僕が鞄を肩にかけたとき、一度だけこっちを見てから目を逸らす。
その視線は怒っているというより、たぶん迷っていた。
帰り道にまた一緒になるかと思ったけれど、その日はタイミングが少しずれた。僕が靴を履き替えているあいだに、美晴は先に出たらしい。校門の外にはもう姿がなかった。
「置いてかれたね」
花音が横で言う。
「別に待ち合わせしてるわけじゃないし」
「そういう返しするから余計だよ」
「何が」
「何でも」
彼女は意味ありげに笑って、自分の部活の方へ行ってしまった。
残された僕は、一人で校門を出る。
春の夕方の風はまだ少し冷たい。鞄の中には借りたばかりの本が入っていて、その重さはほんのわずかなはずなのに、なぜか少しだけ存在感があった。
たぶん、大したことじゃない。
幼馴染が少し拗ねた。放課後に本を借りた。それだけだ。
でも、些細なことって、たいていそうやって「それだけ」で済まされる。恋なのか、ただの習慣なのか、そんなものはわざわざはっきりさせなくても、日常の中では困らない。
困らないから、みんな曖昧なままでいる。
僕も、その方が楽だと思っていた。
誰かの気持ちに名前をつけるより、適当に笑って流す方が、ずっと。




