第5話 席替えと、空いた感じのする窓際
席替えという行事には、たぶんそれ自体以上の意味がある。
ただ机の位置が変わるだけだ。授業を受ける場所が少しずれて、見える景色が変わって、近くで喋る相手が変わる。それだけのことなのに、高校生は妙にそのイベントを特別扱いする。誰の隣になるか、窓際か廊下側か、一番後ろか前か。そんなことで一喜一憂して、くじを引く前から「終わった」「神引きしたい」と騒いでいる。
今まさに、教室はその騒ぎの真っ最中だった。
「うわ、やばい、席替えとか久しぶりに緊張する」
「なんで? 別に誰の隣でも同じじゃない?」
「それ言えるの、強者だけだから」
「いやほんとに同じだって」
「湊、そういうとこだよ」
花音に即座に切り返されて、僕は机に頬杖をついた。
六時間目の終わり、担任が「来週から窓開けることも増えるし、気分も変えたいから席替えするか」と軽い調子で言い出したのが発端だった。深い意味のない一言に、教室の空気が一気にざわつく。こういうときのクラスはわかりやすい。さっきまで授業終わりのだるさを引きずっていた連中まで、急に目の色が変わる。
「篠宮さんは?」
花音が前の席から身を乗り出して美晴を見る。
「席替え、気にするタイプ?」
「別に」
「はい嘘」
「嘘じゃないし」
「じゃあ湊の近くじゃなくても平気?」
「……話が違うでしょ」
その一拍で十分だった。
花音がにやりと笑う。周りの何人かもすでに面白がっている。
「出た出た」
「違うから」
「何が?」
「だから、そういう意味じゃなくて」
「そういう意味ってどの意味?」
「橘、わざとやってるでしょ」
「もちろん」
花音は悪びれもせずに笑った。こういうとき、本当に楽しそうだ。人を困らせるのが好きというより、空気が少し動く瞬間が好きなんだと思う。誰かの表情が変わる、その一歩手前を見つけるのがうまい。
「湊はどこがいいの?」
今度は矛先がこっちへ来る。
「どこでも」
「一番つまんない答え」
「本当にどこでもいいし」
「窓際とか後ろとかあるじゃん」
「じゃあ窓際」
「雑」
「橘さんが聞くから」
「でもわかるかも。湊って窓際似合うよね」
花音がそう言うと、なぜか美晴まで小さく頷いた。
「……それはちょっとわかる」
「え、そっちも乗るんだ」
「いや、なんか。ぼーっと外見てそう」
「褒められてる?」
「半分くらい」
最近みんな半分しか褒めてくれないな、と思う。
もっとも、美晴が言う「ぼーっと外見てそう」は、かなり的確だった。授業中、集中が切れると窓の外を見る癖があるのは自覚している。春なら桜、夏なら雲、冬なら乾いたグラウンド。教室の中より、外の変化の方が見やすいときがあるのだ。
「雪平さんはどこがいい?」
花音が窓際の列へ声をかける。
栞は読みかけの文庫本から顔を上げて、少しだけ考えた。
「後ろの方」
「理由は?」
「前だと先生と目が合うから」
その答えが妙に現実的で、教室に笑いが起こる。
「わかる」
「それはわかる」
「雪平さん、親近感わいた」
花音が満足そうに頷く。こういう瞬間が、この子の強みなんだろうと思う。誰かのちょっとした一言を、その人の輪郭が少しだけ見える場面に変えてしまう。
担任が教壇を叩いて、くじ引きの準備を始めた。
「はいはい、盛り上がってるとこ悪いけど、さっさとやるぞ。男子、女子で順番に引いて、番号の席に移動。文句なしな」
「先生、それ絶対文句出ますよ」
「聞こえない」
「ひどい」
案の定、教室はまたざわつく。
くじ引きなんて運だけだ。けれど運だけだからこそ、みんな本気になる。仲のいいやつの近くがいいとか、前は嫌だとか、窓際がいいとか、理由はそれぞれ違っても、「どうせなら少しでもいい場所へ」という気持ちはたぶん共通している。
僕は列の後ろの方に並びながら、その騒がしさをぼんやり眺めていた。
こういうイベントの空気って嫌いじゃない。何かが大きく変わるわけでもないのに、その場にいる全員が同じ話題で少しだけ浮ついている感じ。誰かが当たりを引いて騒いで、誰かが前の席で絶望して、また誰かが「先生の目の前終わった」と笑う。学校生活の中でしか成立しない、妙に限定的な祭りみたいなものだ。
僕の番が来て、一枚くじを引く。
数字を見る。七番。
席順表はまだ教壇の横に貼られたばかりで、みんながそこへ群がるように確認しに行っていた。僕もなんとなく近づいて、自分の番号を探す。
「七番……あ、窓際じゃん」
花音が隣から覗き込んでくる。
「ほんとだ」
見ると、七番は窓際から二列目ではなく、本当に一番外側の窓際列だった。しかも後ろから二番目。前すぎず後ろすぎず、視界も抜ける。たしかに悪くない席だ。
「ほら、引いたじゃん」
「さっき適当に言っただけなのに」
「こういうの引き寄せるタイプなんじゃない?」
「そんな便利な能力あるならテストで使いたい」
「夢がないなあ」
花音は笑いながら自分の番号を探している。
少し離れたところで、美晴が席順表を見上げたまま眉を寄せていた。表情だけで、たぶんあまり嬉しくない番号を引いたんだろうとわかる。
「どうだった?」
僕が聞くと、美晴はこっちを見て、一度だけ口を尖らせる。
「前から三番目」
「お、ちゃんと授業受けられる席」
「今、馬鹿にした?」
「してないしてない」
「してる顔だった」
していない、とは言い切れなかった。
美晴は僕の反応に小さく溜息をついたあと、ようやく僕の番号を確認したらしい。
「……湊、窓際なんだ」
「うん」
「似合うって言ったじゃん」
花音が横から口を挟む。
「言った」
美晴は少しだけ不本意そうにしながらも、否定はしなかった。
「雪平さんは?」
花音がまた声を飛ばす。
栞は静かに席順表を見ていたが、僕たちの方を向いて言った。
「一番後ろ」
「うわ、希望通りじゃん」
「ほんとだ」
「強いなあ」
教室のあちこちで似たような声が上がる。喜ぶやつ、文句を言うやつ、友達同士で位置関係を確認して騒ぐやつ。担任は「うるさい、早く移動」と言っているけれど、たぶんこうなるのもわかっていたはずだ。
机を動かす音が教室中に広がる。
引きずる音、椅子の脚が床を擦る音、誰かが「ちょっと待って」と笑いながら道を開ける声。いつもの教室が、いったん全部ばらばらになって、また別の形に組み直されていく。そういう途中の風景は少しだけ面白い。
僕も自分の机を押して、窓際へ向かった。
教室の後ろ寄り、外の景色がよく見える位置。窓の向こうにはグラウンドと、その向こうの低い住宅街の屋根。今日は春らしく風が強くて、校庭の端の木が揺れているのが見えた。
悪くない。
というか、かなりいい席だと思う。
「やっぱ似合う」
背後から花音の声がする。
「まだ言うの?」
「言う。湊、そこ座ってると“授業中たまに世界のこと考えてそうな人”に見える」
「考えてないよ」
「考えてないんだ」
「だいたい次の休み何するかとか」
「急にスケール小さくなった」
花音は僕の斜め後ろあたりの席らしかった。完全に近いわけじゃないけれど、会話はしやすい距離だ。一方、美晴はかなり前の方。振り返れば見えるけれど、今までみたいに気軽に小声で何か言える位置ではない。
美晴自身もそれを少し気にしているのか、前の方の席に荷物を置いてから一度こちらを見た。目が合う。ほんの一瞬、何か言いたそうな顔をして、でも結局何も言わずに前を向いた。
席替えなんてそんなものだ。少し距離が変わる。話しやすさが変わる。視界に入る回数が変わる。ただそれだけのこと。
でも学校の毎日って、案外そういう「ただそれだけ」でできている。
僕は新しい席に座って、机の中に教科書を入れ直した。窓際は思ったより陽が差す。夕方の光が机の端を明るく照らしていて、その明るさがなんとなく落ち着いた。
そのとき、ふと教室全体を見回す。
机の並びは当然変わっている。見慣れたはずの教室なのに、視点が少しずれるだけで風景が別物みたいに見える。さっきまで自分がいた位置がもう「前の席」になっていて、今いる窓際が急に基準になる。人の感覚ってずいぶんいい加減だ。
いい加減だからこそ、たまに変な違和感も生まれるのかもしれない。
僕は席順表と、目の前の机の列を見比べた。
一列、二列、三列。前から後ろまで数える。なんとなく、数字の並びに一瞬だけ引っかかるものがあった。何がおかしいのかはよくわからない。ただ、頭の中の教室のイメージと、今目の前にある机の配置が、どこかで綺麗に重なっていない感じがする。
「……あれ?」
小さく呟いたのはたぶん無意識だった。
「どうしたの?」
後ろから花音が聞いてくる。
「いや、なんか」
僕は言いかけて、視線を机の列に滑らせた。
別におかしくない。
机はちゃんと並んでいるし、席順表とも合っている。誰かの机がないわけでも、多いわけでもない。たぶんさっき移動でごちゃついていた名残で、感覚がずれているだけだ。
「何?」
「……いや、なんでもない」
「気になるんだけど」
「気のせいかも」
「湊ってたまにそういう言い方するよね」
花音は机に頬杖をつきながら、興味ありげにこっちを見る。
「何か変だなって思ってるのに、自分で先に“気のせい”って言って終わらせるやつ」
「そう?」
「そう」
まただ。
誰にでもやさしい顔をする。見てるようで見ない方を選ぶ。変だと思っても気のせいで済ませる。
最近、自分の輪郭を他人の言葉でなぞられている感じがする。
「でも本当に、何かあったわけじゃないし」
「まあ、湊がそう言うならそうなんだろうけど」
花音はそれ以上は追及しなかった。
その「追及しなさ」が、僕には少しありがたい。彼女は場を動かすのがうまいけれど、相手が本気で困るところまでは踏み込まない。だからこそ、みんな彼女の軽さを受け入れやすいんだろうと思う。
教壇の前では担任がまだ何か言っていた。「これでしばらく固定だからな」「勝手に戻るなよ」みたいな、どうでもよさそうでどうでもよくない注意。みんな半分しか聞いていない。席替え直後のクラスは、どこか落ち着かない。新しい景色にそれぞれが少しずつ馴染もうとしている。
僕は窓の外を見た。
グラウンドでは運動部が準備をしていて、白線の上をジャージ姿の生徒が走っている。風がまた木を揺らし、窓ガラスに細かい音が触れた。
この席、やっぱり悪くない。
そう思ったとき、不意に教室の前方から「え、ちょっと待って」と誰かの声がした。
見ると、男子の一人が教室の中央で立ち止まり、机の並びを見回している。
「ん?」
「どうした?」
「いや、なんか……机、一個多くない?」
一瞬だけ、空気が止まった。
本当に、一瞬だけ。
でもその場にいた何人かの視線が、反射みたいに教室の机へ向いたのがわかった。僕も同じように見回す。前から後ろへ、列を追う。
多くはない。
少なくとも、見た感じは普通だ。
「あー、予備じゃね?」
すぐに別の男子が言った。
「掃除のとき用とか、たまにあるじゃん」
「え、そうだっけ」
「知らんけど、まあいいだろ」
誰かが笑って、それで空気が戻る。
机を多いと言った本人も「まあそうか」と納得したような、していないような顔で座り直した。大した話じゃない。実際、教室にはたまに予備の机や椅子が置かれていることもある。掃除当番の都合とか、壊れたときの交換用とか、理由はいくらでもつけられる。
僕もそこで考えるのをやめた。
気にするほどのことじゃない。たぶん。
でも、さっき自分が感じた小さな違和感と、その「一個多くない?」が重なったことで、胸の奥に薄い棘みたいなものが残ったのもたしかだった。
放課後になって、何人かがさっそく新しい席の感想を言い合っていた。
「最悪、黒板近すぎ」
「俺、逆に一番後ろで神なんだけど」
「篠宮さん、前すぎて先生に当てられそう」
「それは別に困らないし」
「優等生発言だ」
花音がまた盛り上げ役になっていて、教室の空気はすっかり元通りの明るさを取り戻していた。
美晴は前の席から振り返って、「湊、ちゃんと黒板見える?」と聞いてきた。保護者か、と思ったけれど、口にするとまた睨まれるのでやめておく。
「見えるよ」
「ならいいけど」
「美晴は近すぎて逆に疲れそう」
「それはちょっとある」
そう言って彼女は少しだけ笑った。
栞は一番後ろの窓際寄りで、静かに鞄を整えていた。花音に「希望通りじゃん」とまた声をかけられて、「後ろは落ち着くから」と短く返している。そのやりとりを眺めながら、僕は新しい席の机に肘をついた。
窓際の後ろ寄り。
たしかに、ここは落ち着く。
前の方のざわめきが少し遠くて、教室全体が視界に入る。誰がどこで話しているか、誰が立っているか、なんとなく全部見える。なのに、見ていること自体はあまり意識されない位置だ。
そういう席が自分に合っているのは、たぶん偶然じゃない。
僕は教室の端にいるのが好きなんだろう。
真ん中じゃなくていい。全部の輪の中にいなくていい。でも、外に完全には出たくない。そんな半端な性格に、窓際の後ろ寄りはたしかによく似合う。
だからこそなのか、ふと、妙なことを思った。
この席には、誰も座っていない時間が似合いそうだ。
なぜそんなことを思ったのかは、自分でもわからない。ただ、夕方の光が斜めに差し込むこの場所を見ていると、人がいない教室の景色まで先に思い浮かんでしまう。机と椅子だけが静かに並んでいて、窓だけが明るい風景。
そのイメージは、少しだけ綺麗で、少しだけ空っぽだった。
「湊」
前から美晴がまた呼ぶ。
「なにぼーっとしてるの」
「してないよ」
「してる。新しい席気に入った?」
「うん、わりと」
「だと思った」
美晴はそう言って、小さく肩をすくめた。
そのやりとりだけで、さっきの変な感覚は少し薄まる。教室のざわめき、花音の笑い声、栞の静かな返事。全部が揃っていると、ここはちゃんといつもの学校だと思える。
だからたぶん、大丈夫なんだろう。
机が一個多い気がしたことも、番号の並びに引っかかったことも、窓際に誰もいない景色を一瞬想像したことも、全部ただの気のせいだ。
そうやって片づけてしまえば、この放課後は普通に終わる。
席替えをして、少し景色が変わって、友達とその話をして、また来週から授業が始まる。それだけだ。
教室という場所は、いつだってそうやって続いていくものだと思っていた。
誰かが前の方で笑い、誰かが後ろで本を読み、誰かが窓の外を見てぼんやりする。そんなふうに、何人分もの「いつもの」が重なって、ただの一つの教室になっているのだと。
だから、そこにうまく名前のつかない空白が混ざっているなんて、このときの僕はまだ、ちゃんと考えようとしていなかった。




