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放課後、君とだけ秘密の話をする  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第37話 名前を出したあとの教室

 水崎澪の名前を教室で出した翌日、何かが劇的に変わることはなかった。


 誰かが朝から泣いているわけでもない。

 クラス全員が重たい顔で登校してくるわけでもない。

 担任が神妙な顔で「昨日の件だが」と話し始めるわけでもない。


 教室は、普通だった。


 普通に騒がしくて、普通に眠そうで、普通に小テストの範囲を聞き間違えた誰かが慌てていて、普通に花音が「それ昨日も言ってたじゃん」と笑っている。


 でも、完全に同じではなかった。


 ほんの少しだけ、何かが薄く開いていた。


「おはよう」


 席に着くと、前の席の美晴が振り返った。


「おはよう」


「昨日、眠れた?」


「少し」


「また少し」


「美晴は?」


「少し」


「また同じ」


「同じにしないで」


 そのやりとりも、もう何度目かわからない。


 けれど今日は、美晴の声に少しだけ柔らかさがあった。昨日、水崎澪の名前を教室で出したあと、美晴は怒らなかった。花音も流さなかった。栞も止めなかった。三浦さんは「覚えてる」と言った。


 それだけのことなのに、何かが少しだけ動いた気がした。


「昨日のこと」


 美晴が小さく言う。


「うん」


「三浦さん、今日、普通に来るかな」


「来るでしょ」


「そうだけど」


 美晴は教室の入り口の方を見る。


「なんか、私たちが変なもの渡しちゃった気がして」


「名前?」


「うん」


 その言い方が、妙にしっくりきた。


 僕たちは昨日、三浦さんに何かを渡したのだと思う。

 それはただの質問ではなく、水崎澪という名前だった。

 忘れていたかもしれないもの。

 忘れたことにしていたかもしれないもの。

 できれば触らずにいたかったかもしれないもの。


 それを突然、手渡してしまった。


「でも、三浦さんは受け取った」


 僕が言うと、美晴は少しだけ驚いた顔をした。


「湊、言い方が栞っぽくなってきた」


「それ、褒めてる?」


「半分」


「このクラスの半分文化、何なの」


 美晴は少し笑った。


 ちょうどそのとき、三浦さんが教室に入ってきた。


 いつも通りの顔に見えた。

 友達に「おはよう」と言って、鞄を席に置いて、髪を耳にかける。

 でも一瞬だけ、こちらを見た。


 目が合う。


 僕が軽く会釈すると、三浦さんは少しだけ戸惑ったあと、小さく頷いた。


 それだけだった。


 でも、それだけで十分だった。


 昨日の話は、なかったことにはなっていない。


 朝のホームルームが終わり、一時間目が始まっても、僕は少し落ち着かなかった。


 ノートは開いている。ペンも持っている。先生の話も聞こえている。

 でも、頭の端では昨日の記録ノートの一文がずっと残っていた。


 ――教室で初めて水崎澪の名前を出した。空気は止まった。でも、誰も笑わなかった。


 誰も笑わなかった。


 そのことが、僕には少しだけ救いだった。


 水崎澪の話は、笑いに変えられなかった。

 少なくとも昨日は。


 昼休みになると、花音が僕の席へやってきた。


「記録係さん」


「呼び方」


「いや、広報係さん?」


「どっちでもいいけど」


「じゃあ、重い広報係さん」


「悪化してる」


 花音は笑ったあと、少しだけ声を落とした。


「昨日のこと、三浦さんに謝った方がいいかな」


「何を?」


「急に巻き込んだこと」


「花音が聞いたわけじゃないでしょ」


「でも、その場にいたし」


「それ言い出したら、僕が聞いた」


「そうだけど」


 花音は少しだけ唇を尖らせた。


「湊って最近、自分で背負いすぎじゃない?」


「花音に言われるとは」


「私も棚上げで言ってる」


「自覚あるんだ」


「あります」


 花音は椅子の背に軽く手をかけた。


「でもさ、昨日の三浦さんの顔、ちょっと忘れられない」


「うん」


「覚えてるって言ったとき、少し楽そうでもあった」


 僕は花音を見る。


「楽そう?」


「うん。嫌そうでもあったけど、やっと言えたみたいな」


 その見方は、花音らしかった。


 彼女は空気を見る。

 誰が困っているかではなく、場がどう傾いているかを見る。

 その力は、去年は澪の言葉を流す方へ働いたのかもしれない。

 でも今は、その力で別のものを拾おうとしている。


「じゃあ、謝るより」


 僕は言った。


「聞けたら聞く、くらいでいいんじゃないかな」


「何を?」


「昨日のあと、大丈夫だったか」


「それ、自然に聞ける?」


「花音なら聞けるでしょ」


「私を便利に使おうとしてる?」


「得意分野かなって」


 花音は少しだけ笑った。


「まあ、そういうのは得意かも」


 でも、そのあとで真面目な顔になる。


「ただ、今までの得意と同じやり方だとだめなんだよね」


「同じやり方?」


「軽くして終わらせるやつ」


「うん」


「難しいね」


「難しい」


 僕たちは同時に頷いた。


 花音が誰かに呼ばれて席へ戻ると、今度は栞が来た。


 手には昨日の記録ノートがある。


「読んだ?」


「勝手に?」


「机の上に開いてあった」


「それは僕が悪いかも」


 栞はノートを閉じて、机に置いた。


「昨日の一文、いいと思う」


「どれ?」


「誰も笑わなかった、ってところ」


「ああ」


「あれは、ちゃんと残した方がいい」


 栞は短く言った。


「去年と違うところだから」


 その言葉に、胸が少しだけ詰まる。


 去年と違うところ。


 僕たちは、去年と同じ教室にいる。

 同じ文化祭準備をしている。

 似たような係をやっている。

 写真を撮っている。

 記録を残している。


 でも、昨日は笑わなかった。


 それは、確かに違った。


「栞」


「何?」


「水崎澪の名前、これからも教室で出していいと思う?」


 栞は少し考えた。


「出し方によると思う」


「出し方」


「うん。名前を出すこと自体が正しいわけじゃない。相手を試すためとか、罪悪感を確認するためだけに出すなら、たぶん違う」


「じゃあ、昨日は?」


「昨日は、必要だったと思う」


「なんで?」


「三浦さんが覚えていたから」


 栞は言った。


「名前を出したことで、誰かの記憶が少し戻った。なら、意味はあったと思う」


 相変わらず、彼女の言葉は短いのに深いところへ来る。


「じゃあ、次は?」


「次は、ちゃんと聞く準備があるとき」


「誰に?」


「覚えている人に」


 それだけ言って、栞は自分の席へ戻った。


 ちゃんと聞く準備。


 僕はその言葉をノートの端に書いた。


 ――名前を出すこと自体が正しいわけではない。聞く準備があるときに出す。


 放課後、文化祭準備が始まった。


 今日の教室は忙しかった。企画名がようやく一つに絞られ、装飾係は色の方向性を決め、広報係は告知用の紹介文を書き始めた。


 僕は写真を撮り、ノートに書く。


 花音は企画名が決まった瞬間、両手を上げて喜んだ。


「採用! 私の第三案が採用!」


「第一案と第二案は?」


「時代が早すぎた」


「ただ長すぎただけでしょ」


「美晴、そういう現実的なこと言わない」


「現実だから」


 花音が大げさに肩を落とす。

 美晴が呆れる。

 周りが笑う。


 僕はその様子を撮った。


 笑いを撮った。


 でも今度は、笑えない誰かがいないかも見る。


 教室の端に、三浦さんがいた。

 彼女は装飾用の紙を切りながら、こちらをちらっと見ている。


 僕は近づいた。


「三浦さん」


「うん?」


「昨日のこと、急に聞いてごめん」


 三浦さんは手を止めた。


 少しだけ困った顔をして、それから首を振る。


「いいよ。びっくりしたけど」


「うん」


「でも、聞かれてよかった気もする」


 花音が言っていたことと同じだった。


 やっぱり、少し楽になったのかもしれない。


「水崎さんのこと、他に覚えてる?」


 僕は慎重に聞いた。


 三浦さんはすぐには答えなかった。


 はさみを机に置いて、少し考える。


「すごく覚えてるわけじゃないよ」


「うん」


「でも、文化祭のあとから、名前を出しにくくなったのは覚えてる」


「名前を?」


「うん。誰かが“水崎さんってどうしたんだっけ”みたいに言ったことがあって」


 胸が少し冷える。


「そのとき?」


「誰かが、体調悪いんじゃないって言って。それで終わった」


「終わった?」


「うん。終わった。みんな、それ以上聞かなかった」


 それは、いかにもありそうだった。


 水崎澪が来なくなる。

 誰かが少しだけ気にする。

 体調じゃないかと言われる。

 家庭の事情かもしれないと言われる。

 そして、それ以上聞かない。


 それは優しさにも見える。

 踏み込まない配慮にも見える。

 でも同時に、なかったことへ進む最初の段差でもある。


「三浦さんは、聞きたかった?」


 僕が聞くと、彼女は苦笑した。


「今なら聞きたかったって言えるけど、そのときは別に」


「別に?」


「うん。だって、そんなに仲良かったわけじゃないし。聞いたら変かなって思ったし」


 普通の答えだった。


 だから痛かった。


「私、たぶん安心したんだと思う」


 三浦さんが言う。


「体調悪いだけなら、自分は関係ないって思えるから」


 その言葉は、まっすぐだった。


 僕は何も言えなかった。


 三浦さんは少しだけ慌てたように笑う。


「あ、ごめん。重いね」


「いや」


「こういうの、言っていいのかわかんないけど」


「言ってくれてありがとう」


 僕はノートを開いた。


「書いてもいい?」


 三浦さんは少し迷って、頷いた。


「名前は出さないで」


「わかった」


 僕は書く。


 ――ある生徒が言った。水崎さんが来なくなったとき、「体調が悪いだけなら自分は関係ないと思えて安心した」と。名前は出さない。これはたぶん、クラスの中にあった普通の感覚。


 書いている途中で、手が少し止まった。


 普通の感覚。


 僕もそうだったのかもしれない。

 水崎澪が来なくなったとき、体調が悪いだけなら、自分は関係ないと思ったのかもしれない。


 いや、そもそも考えもしなかったのかもしれない。


 どちらにしても、三浦さんだけの話ではない。


「ありがとう」


 僕が言うと、三浦さんは小さく頷いた。


「私も、ちょっと思い出してみる」


「無理はしないで」


「うん。でも、なかったことにするのも、なんか嫌になってきた」


 その一言で、胸が少しだけ熱くなった。


 水崎澪の名前は、少しずつ教室の中で息をし始めている。


 まだ小さい。

 誰も大声では話さない。

 みんなが覚悟を決めたわけでもない。


 でも、昨日よりは確かに増えている。


 覚えている人が一人、また一人と。


 花音が遠くからこちらを見ていた。


 僕が戻ると、彼女は小声で聞いた。


「大丈夫だった?」


「うん」


「何か聞けた?」


「少し」


「そっか」


 それ以上は聞かなかった。


 代わりに、花音は企画名の紙を指さした。


「これも撮っといて。採用された瞬間の証拠」


「もう撮った」


「さすが重い広報係」


「その呼び方定着させないで」


「じゃあ、残す広報係」


「それはちょっとまし」


 美晴が横から言う。


「ましなの?」


「重いよりは」


「どっちもどっちじゃない?」


 花音が笑い、美晴が呆れる。


 僕も少しだけ笑った。


 その笑いは、誰かを置き去りにしていないだろうか。


 まだ、毎回そう考えてしまう。


 でも考えること自体を、もうやめたくはなかった。


 放課後の終わり、僕は記録ノートを閉じる前に、今日の最後の一文を書いた。


 ――名前を出したあと、教室は少しだけ変わった。大きくは変わらない。でも、覚えていると言う人が増えた。水崎澪の名前は、まだ小さいけれど、教室の中で息をしている。


 書き終えてから、少しだけ迷った。


 この文章は、使いやすい記録ではない。


 文化祭の広報としては重すぎる。

 担任に見せるものでもないかもしれない。

 クラス全員に見せたら、困る人もいるだろう。


 でも、残す。


 使いにくいから残さないのではなく、使いにくくても残す。


 それが、今年の僕が選ぶ記録だった。

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