第36話 残すための質問
次の日、僕は小さなノートを一冊買ってから学校へ行った。
コンビニで売っている、何の変哲もない罫線ノートだ。表紙は紺色で、角に少しだけ銀色の線が入っている。特別なものではない。高いものでもない。文化祭の記録用にしては、むしろ地味すぎるくらいだった。
でも、その地味さがよかった。
写真だけでは残らないものがある。
沈黙。
声の調子。
誰かが少し困った顔をした理由。
失敗したあと、どう直したのか。
笑っていたけれど、本当は疲れていたこと。
そういうものは、写真には写らない。
なら、言葉で残すしかない。
そんなことを考えながら買ったノートだった。
教室に入ると、花音がすぐに気づいた。
「湊、そのノート何?」
「記録用」
「うわ、広報係が本気出してる」
「出したらだめ?」
「だめじゃないけど、湊が本気出すと空気がちょっと重くなる」
「自覚はある」
「そこ認めるんだ」
花音は笑った。
けれど、すぐにその笑いを少しだけ引っ込めた。
「でも、いいんじゃない」
「そう?」
「うん。写真だけだと、あとで都合よく見えるから」
その言葉に、僕はノートを持つ手に少し力を入れた。
花音がそれを言うようになった。
前なら、きっと「盛れてる写真だけ残せばいいじゃん」と軽く言っていただろう。悪気なく。明るく。場を楽しくするために。
でも今の花音は、笑顔の写真だけでは足りないことを知っている。
「じゃあ、最初の一言もらっていい?」
「え、何それ」
「記録用」
「いきなり?」
「いきなり」
僕がノートを開くと、花音は少しだけ身構えた。
「待って。そう言われると、急に何言えばいいかわかんない」
「いつもあんなに喋るのに」
「残ると思うと別なの」
「わかる」
「わかるんだ」
花音は少し考えてから、黒板の方を見た。
「じゃあ……今日の企画係は、企画名を決める予定。でもたぶん決まらない。理由は、私が候補を増やしすぎたから」
「正直だ」
「あとで見返したとき、ちゃんと私が悪かったってわかるように」
そう言って、花音は少しだけ笑った。
僕はノートに書いた。
――企画係。企画名を決める予定。花音いわく「候補を増やしすぎた」。本人は少し反省しているが、まだ増やす気配あり。
「ちょっと、最後の一文いらなくない?」
「必要」
「湊、記録係向いてない?」
「去年もやってたらしいから」
口にしてから、少しだけ空気が止まった。
しまった、と思った。
でも花音は逃げなかった。
「うん」
短く頷く。
「今年は、去年より向いてるかもね」
その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。
去年より。
それは褒め言葉なのかもしれない。
でも、去年の僕を思えば、ただの褒め言葉にはならない。
「そうだといい」
僕が言うと、花音は「うん」ともう一度頷いて、自分の席へ戻っていった。
美晴は、僕のノートを見るなり眉を寄せた。
「それ、全部書くの?」
「全部は無理」
「じゃあ何を書くの」
「写真に写らないこと」
「また難しいこと言う」
「美晴の失敗した星も書く」
「書かなくていい」
「残すって言ったの美晴でしょ」
「言ったけど、文字で残されると嫌」
「写真はいいのに?」
「写真も嫌だけど、文字の方が逃げ場ない」
それは、かなり本質的なことだった。
言葉は、あとから読み返せる。
しかも、写真よりも意味を持ちやすい。
だから怖い。
「じゃあ、許可取る」
僕は言った。
「昨日の星のこと、書いていい?」
美晴は少しだけ考えた。
「……いいよ」
「嫌ならやめる」
「いい。でも、ちゃんと“作り直した”まで書いて」
「わかった」
僕はノートに書く。
――装飾係。星形の飾りを何枚か切り損ねる。美晴は嫌がったが、作り直した星と一緒に記録することを了承。「失敗だけで終わらせないで」と言った。
「そんなこと言ってない」
「今、言った」
「今のをそのまま書くのずるくない?」
「記録だから」
「……本当に向いてるのかもね」
美晴は少しだけ不満そうに、でも少しだけ納得したように言った。
そのあと、目を伏せて続ける。
「去年の水崎さんも、こういうことしたかったのかな」
その声は、とても小さかった。
「たぶん」
僕は答えた。
「失敗したところも、作り直したところも、ちゃんと」
「そっか」
美晴は自分の席へ戻りかけて、途中で止まった。
「湊」
「何」
「そのノート、完成したら、見せてね」
「もちろん」
「私たちだけじゃなくて、みんなにも」
その言葉に、少し驚いた。
「いいの?」
「嫌だけど」
「嫌なんだ」
「嫌。でも、見せた方がいい気がする」
美晴はそう言って、少しだけ困ったように笑った。
「使いやすいところだけ見せたら、また同じだから」
それは、澪の言葉に近かった。
ちゃんと残さないと、なかったことになるから。
僕は頷いた。
「わかった」
昼休み、栞がノートを見に来た。
「記録ノート?」
「そんな感じ」
「いいと思う」
「栞にも何か聞いていい?」
「何を?」
「資料係として今日やること」
栞は少しだけ考えてから答えた。
「去年の資料を分類する。今年使うもの、参考にするもの、残すだけのものに分ける」
「残すだけのもの?」
「使わないけど、捨てないもの」
僕はその言葉をノートに書いた。
――資料係。去年の資料を分類。今年使うもの、参考にするもの、残すだけのもの。栞いわく「使わないけど、捨てないもの」がある。
書き終えると、栞が静かに言った。
「それ、大事かもね」
「使わないけど、捨てないもの?」
「うん」
「写真も?」
「人の記憶も」
栞はそれだけ言って、自分の席へ戻った。
相変わらず、短いのに逃げ場のない言葉だった。
放課後、文化祭準備が始まると、僕は写真を撮りながらノートも開いた。
思ったより忙しい。
写真を撮る前に許可を取り、撮ったあとにメモを書く。誰が何をしていたか、何に困っていたか、何を直したか。完成品だけを追えば簡単なのに、途中を残そうとすると、教室の中は一気に情報だらけになる。
「湊、真面目すぎ」
男子に言われた。
その言葉に、少しだけ体が固まる。
記録係、重すぎ。
去年の声が一瞬だけ重なったからだ。
でも、今年の僕は黙らなかった。
「真面目にやることにした」
「お、おう」
「嫌なら撮らないし、名前も書かない」
「いや、別に嫌じゃないけど」
男子は少し照れくさそうに頭をかいた。
「じゃあ、俺が段ボール二回落としたのは書かないで」
「一回にしておく」
「盛るな。減らせ」
「記録改ざんはだめ」
「厳しいな広報」
周りが少し笑った。
でも、嫌な笑いではなかった。
誰かを置き去りにする笑いではなく、会話の中にある笑いだった。
たぶん、全部が全部悪いわけではない。
笑うことそのものが悪いわけではない。
問題は、何を笑うか。
誰が笑えないまま残されるか。
それを、今の僕は忘れたくなかった。
作業の途中で、見慣れない女子が近づいてきた。
同じクラスの子だ。名前はたしか、三浦さん。普段はそこまで話さない。文化祭の装飾係で、美晴とよく話している。
「水野くん」
「うん?」
「そのノート、何?」
「広報の記録」
「へえ。写真だけじゃないんだ」
「うん。途中も残そうと思って」
三浦さんは少しだけノートを覗き込んだ。
「今年、なんかちゃんとしてるね」
「今年?」
僕が聞き返すと、彼女は一瞬だけ言葉に詰まった。
その反応で、胸が少し冷えた。
「去年は?」
僕が聞くと、三浦さんは困ったように笑った。
「ごめん。変な意味じゃなくて」
「うん」
「去年の記録、なんか……きれいすぎたなって思っただけ」
きれいすぎた。
その言葉が引っかかる。
「見たの?」
「見たっていうか、文化祭終わったあとにクラスの掲示に少し貼られてたじゃん。写真とか」
「覚えてる?」
「少しだけ。楽しそうな写真ばっかりだった」
彼女はそう言ってから、少し声を落とした。
「でも実際、準備中はそんなに楽しそうなことばっかじゃなかったよね」
僕は返事ができなかった。
三浦さんは続ける。
「なんか、あとから見たら、あれ? こんな明るかったっけ、って思った」
「……それ、去年も思ってた?」
「うん。たぶん」
たぶん。
みんな、たぶんなのだ。
はっきり覚えていない。
でも、違和感だけが残っている。
「水崎澪のこと、覚えてる?」
気づけば、聞いていた。
三浦さんの顔が、はっきり変わった。
空気が止まる。
近くにいた美晴がこちらを見る。
花音も黒板前から気づいたようだった。
栞は資料を持ったまま動きを止める。
三浦さんは、すぐには答えなかった。
そして、小さく言った。
「……名前、出すんだ」
その言い方は、責めているようでも、驚いているようでもあった。
「うん」
僕は答えた。
「出すことにした」
三浦さんはしばらく僕を見ていた。
やがて、少しだけ視線を落とす。
「覚えてるよ」
その言葉は、静かだった。
「でも、あんまり話したことない。たぶん」
「たぶん?」
「同じ班じゃなかったし。でも、文化祭のとき、あの子が何か言って、空気が変になったのは覚えてる」
また、その言葉だった。
空気。
みんなが見ていたもの。
澪ではなく、空気。
「何て言ってたかは?」
三浦さんは首を横に振る。
「そこまでは。でも、正しいこと言ってた気がする」
「正しいこと」
「うん。だから余計、みんな困ったんだと思う」
正しいから困る。
美晴が前に言ったことと同じだ。
三浦さんは、少しだけ苦笑した。
「あのとき私、関係ない顔してた。自分は言われてないし、面倒なことになりそうだから黙ってた」
それは、僕たちが何度も言葉にしてきた罪と似ていた。
黙っていた。
関係ない顔をしていた。
面倒なことになりそうだから。
「ごめん。急に聞いて」
僕が言うと、三浦さんは首を振った。
「いや。誰かが名前出した方がよかったのかも」
「今さらかもしれないけど」
「でも、今さらでも出さないよりはいいんじゃない」
彼女はそう言って、装飾係の方へ戻っていった。
教室の中に、少しだけざわつきが残った。
水崎澪の名前が、教室で出た。
花音がゆっくりこちらへ来る。
「湊、今の」
「うん」
「びっくりした」
「僕も」
「でも、止まらなかったね」
確かにそうだった。
空気は止まった。
でも、壊れなかった。
誰も笑って流さなかった。
誰も「今それ言う?」とは言わなかった。
三浦さんは答えた。
水崎澪を覚えている、と。
たったそれだけで、教室の中に薄く残っていたものが少しだけ形を持った気がした。
美晴が近づいてきた。
「湊」
「怒った?」
「少し」
「やっぱり」
「でも、言ってよかったと思う」
美晴はノートを見た。
「そのことも書くの?」
「書く」
「じゃあ、私のことも書いて」
「何を?」
「水崎さんの名前が出たとき、止まったけど、逃げなかったって」
花音が続ける。
「私も」
栞も静かに言った。
「私も」
僕はノートを開いた。
書く手が少し震えた。
――放課後、教室で初めて水崎澪の名前を出した。空気は止まった。でも、誰も笑わなかった。三浦さんは「覚えてる」と言った。美晴、花音、栞もその場にいた。逃げなかった。
書き終えると、花音が少しだけ目を細めた。
「その一文、なんか重いね」
「使いにくい?」
「うん。すごく」
花音は笑った。
今度の笑いは、ちゃんと僕たち全員の中に落ちた。
「でも、残そう」
美晴が言う。
「うん」
栞も頷く。
僕はノートを閉じなかった。
まだ書くことがある気がしたからだ。
今年の教室は、まだ終わっていない。
去年のことも、まだ終わっていない。
けれど今日、初めて水崎澪の名前は、教室の中で小さく息をした。
それは謝罪ではない。
償いでもない。
何かが解決したわけでもない。
ただ、名前を出した。
そして、誰かが覚えていると言った。
その小さな事実を、僕はノートに残した。
なかったことにしないために。




