第35話 謝れない相手
次の日、教室はいつも通りだった。
それが、何よりもこたえた。
誰かが朝から小テストの範囲を間違えて騒いでいる。窓際では男子がスマホを囲んで昨日の試合の話をしている。黒板には文化祭の係別予定が雑に残っていて、花音が書いたらしい企画名の横には、誰かが小さく落書きした星が増えていた。
普通だった。
昨日、視聴覚準備室で見た写真も。
水崎澪が「もういいです」と言って教室を出ていったことも。
そのあと、僕が追いかけずに写真を撮り続けたことも。
この教室には、何の傷も残していないように見えた。
でも、それは違う。
傷がないのではなく、見ないようにされていただけだ。
たぶん、ずっと。
「おはよう」
美晴が前の席から振り返った。
「おはよう」
返事をすると、美晴は僕の顔を見て、何か言いかけて、やめた。
それだけで、昨日の続きだとわかった。
いつもなら、「顔ひどい」とか「寝てないでしょ」とか、何か言っていただろう。でも今日は言わなかった。言わないことを選んだのだと思う。
それは優しさだった。
けれど、優しさにもいろんな種類がある。
前の僕なら、言われないことで楽になっていたかもしれない。
今の僕は、言われなかったことまで少し気になってしまう。
「……寝た?」
結局、美晴はそう聞いた。
「少し」
「少しなんだ」
「美晴は?」
「少し」
「同じだ」
「同じにしないで」
「理不尽」
そう言うと、美晴はほんの少しだけ笑った。
その笑いに、救われたような気がした。
昨日のあとでも、僕たちはまだこういう会話ができる。くだらないやりとりを、完全には失っていない。
でも同時に、そのことが少し怖くもあった。
僕たちは、こうしてまた普通に戻れてしまう。
水崎澪が教室を出ていったあとも、きっとそうだったのだろう。
少し沈黙して、誰かが冗談を言って、また作業が始まって、写真を撮って、文化祭の準備は進んだ。
普通に戻れることは、いつも正しいわけではない。
花音は、いつもより少し遅れて教室に来た。
扉を開けて入ってきた瞬間、何人かが「おはよ」と声をかける。花音はいつものように片手を上げて返した。
「おはよー。今日、朝から暑くない?」
「そう?」
「私だけ?」
「橘が走ってきたからじゃない?」
「ばれた」
軽い笑いが起きる。
花音も笑った。
でも、その笑いは短かった。
彼女は僕の方を見て、一度だけ目を合わせた。何かを言うでもなく、近づいてくるでもなく、ただ一瞬だけ。
昨日の帰り道、花音は「私、笑った」と言った。
その言葉は、まだ僕の中に残っている。
僕は追いかけなかった。
花音は笑った。
美晴は聞いていたのに何もしなかった。
栞はあとで知っても聞かなかった。
それぞれの罪は違う。
だから、誰か一人を責めれば終わる話ではない。
そのことが、一番重い。
朝のホームルームで、担任はいつも通りだった。
出席を取り、文化祭の連絡をし、プリントを配る。昨日、視聴覚準備室で写真を見せた人と同じ人には見えなかった。けれど、連絡の最後に少しだけ間を置いた。
「文化祭準備、写真や記録を残す係は、撮る相手にひと声かけるように。嫌がる写真は撮らない。だが、完成したものだけじゃなく、過程も残しておけ」
教室の空気が、ほんの少しだけ止まった。
その言葉が、ただの一般的な注意ではないことを、僕たち四人だけは知っている。
いや、担任も知っている。
だから五人分だけ、教室の時間が違っていた。
「過程も記録だ」
担任は黒板に向き直る前に、そう付け加えた。
それ以上は何も言わなかった。
花音が、机の下で手を握っているのが見えた。
美晴は前を向いたまま、少しだけ背筋を伸ばしていた。
栞はノートに何かを書きつけていた。
僕は、机の上に置いたスマホを見た。
写真を撮ることが、前より少し怖くなっている。
でも、撮らないことはもっと怖い。
放課後、広報係の作業が始まった。
僕はスマホを持って教室の中を歩いた。
「写真撮っていい?」
段ボールを運んでいた男子に聞く。
「え、今? 汗やばいんだけど」
「嫌なら撮らない」
「いや、いいけど。変な顔だったら消して」
「わかった」
撮る。
今度は、ちゃんと聞いてから撮った。
机に広げられた材料。
失敗して剥がれたテープ。
紙を切りすぎて苦笑いしている装飾係。
黒板の前で企画名を直している花音。
色の組み合わせに悩んでいる美晴。
ファイルの中身を確認している栞。
どれも、完成形ではない。
けれど、確かに今日の教室だった。
花音が僕の横に来て、小声で言った。
「ちゃんと聞いてるね」
「うん」
「えらい」
「子ども扱い?」
「いや、本当に」
花音は少しだけ真面目な顔で言った。
「私、たぶん去年、そういうのも適当にしてた。撮るなら撮ればいいじゃんって。撮られる側がどう思うか、あんまり考えてなかった」
「僕もだよ」
「知ってる」
「そこは否定して」
「できない」
花音は笑わなかった。
代わりに、教室の中を見回した。
「昨日さ」
「うん」
「帰ってから、ずっと思ってた。謝りたいって」
その言葉に、僕はスマホを下ろした。
「澪に?」
「うん」
花音は黒板の方を見たまま頷いた。
「でも、謝れないじゃん。今どこにいるかも知らないし、そもそも謝っていいのかもわからない。謝ったら、こっちが楽になりたいだけみたいで」
それは、僕も考えていたことだった。
水崎澪に謝りたい。
でもその謝罪は、誰のためのものなのか。
自分が楽になるために、彼女をもう一度引っ張り出すだけではないのか。
「謝れない相手に、どうすればいいんだろうね」
花音が言う。
答えはなかった。
僕はスマホを握ったまま、少し考える。
「覚えておくしかないのかも」
「覚えておく?」
「うん。なかったことにしないで」
花音は黙った。
そして、小さく頷いた。
「栞が言いそう」
「確かに」
「でも、湊が言った」
「僕が言った」
花音はそこでやっと少し笑った。
「変わったね」
「いい方に?」
「そこはまだわかんない」
「正直だな」
「でも、前よりはちゃんと止まるようになった」
止まる。
その言葉は、今の僕には褒め言葉に聞こえた。
以前の僕は、流れる側だった。
何かが起きても、空気に合わせて、次へ行く。
今は、止まる。
止まってしまう。
それがいいことなのかは、まだわからない。
でも少なくとも、去年のあの日に止まれなかった僕にとっては、必要な変化なのだと思う。
美晴が少し離れたところから呼んだ。
「湊、こっち撮るなら今」
「何?」
「失敗作」
行ってみると、装飾係の机の上に、切り損ねた星形の紙がいくつも並んでいた。形が歪んでいて、星というより潰れたヒトデみたいになっている。
「これは……」
僕が言葉に詰まると、美晴が少しだけ胸を張った。
「失敗したところも残すんでしょ」
「美晴が言うんだ」
「悪い?」
「いや」
僕はスマホを向けた。
「撮っていい?」
「いいよ。私の手元だけね。顔はなし」
「了解」
撮る。
歪んだ星と、美晴の指先。
その横に置かれた、作り直したきれいな星。
失敗と、やり直し。
写真を確認した美晴は、少しだけ息を吐いた。
「こういうの、去年なら嫌だったと思う」
「撮られるのが?」
「うん。うまくいってないところ見せたくないし、残したくないし」
「今は?」
「今も少し嫌」
美晴は正直に言った。
「でも、残っててもいいかもって思う。失敗したのは事実だし、作り直したのも事実だから」
その言葉は、澪が言っていたことに近かった。
失敗したところも含めて残した方が、本当の記録になると思う。
美晴も、そこへ少しだけ近づいている。
僕は画面を見ながら言った。
「今年の写真、澪が見たらどう思うかな」
美晴はすぐには答えなかった。
「……わからない」
「うん」
「でも、少なくとも去年よりは、怒られないようにしたい」
「怒られたいの?」
「違う。でも、怒られるならちゃんと怒られたい」
その言い方が美晴らしくて、少しだけ笑ってしまった。
「何笑ってるの」
「いや、美晴っぽいなって」
「褒めてる?」
「半分」
「また半分」
美晴は少しだけ不満そうにして、それでも笑った。
その笑顔も撮りたいと思ったけれど、今はやめた。
撮らない選択も、必要なのだと思った。
放課後の作業が終わったあと、僕たちは空き教室には行かなかった。
代わりに、教室の後ろの棚の前に四人で集まった。
もう隠れるように話さなくてもいいことと、まだ教室では話せないことの間に、少しだけ新しい距離ができていた。完全に開けた場所ではない。でも、完全に閉じた場所でもない。
栞が言った。
「水崎さんの今のこと、調べる?」
その一言で、三人とも黙った。
いつかは出る話だと思っていた。
謝れない相手。
どこにいるかわからない相手。
今も同じ町にいるのか、別の学校にいるのか、誰も知らない相手。
「調べるって」
美晴が慎重に聞く。
「先生に聞くとか?」
「個人情報だから、たぶん教えてくれない」
栞は静かに言う。
「でも、聞くことはできる」
花音が腕を組んだ。
「聞いたとして、どうするの?」
誰も答えられなかった。
会いに行くのか。
謝るのか。
当時のことを確認するのか。
それは、こちらの都合ではないのか。
「今すぐじゃなくていいと思う」
僕は言った。
「逃げ?」
花音が聞く。
その声に責める感じはなかった。ただ、確かめている。
「たぶん、半分は」
僕は正直に答えた。
「でも、まだ僕たちは自分たちのことも全部見てない。澪に会いたいとか謝りたいとか言う前に、もう少し思い出さないと、またこっちが楽になるためだけになりそうで」
美晴が小さく頷いた。
「私もそう思う」
「私も」
花音が言う。
栞も頷いた。
「じゃあ、今は記録を見るところまで」
「うん」
僕は棚の中のファイルを見た。
まだ全部見たわけではない。
選ばれなかった写真も、途中で止めた。
澪の言葉も、全部戻ったわけではない。
今すぐ謝りに行くことより、まずは僕たちがなかったことにしたものを、ちゃんと見る。
それが先だと思った。
帰り道、僕は一人だった。
美晴は委員会で残り、花音は企画係に呼び戻され、栞は図書室へ行った。
一人で歩く道は、昨日より少しだけ静かだった。
スマホの中には、今日撮った写真が増えている。
曲がった企画名。
失敗した星形。
疲れた顔の花音。
真剣な美晴。
ファイルを見る栞。
段ボールを運ぶ男子。
どれも使いにくい写真だった。
でも、残しておきたかった。
水崎澪に謝れる日は、来るのかもしれない。
来ないのかもしれない。
ただ、もしその日が来たとしても、僕たちはきっと簡単には許されない。
それでも、謝れない相手がいるということを、忘れないでいることはできる。
忘れないために、残す。
それが今の僕にできる、たぶん一番小さなことだった。




