第34話 選ばれなかった写真を見る日
その日の放課後が来るのを、僕は朝からずっと待っていた。
待っていた、という言い方は少し違うかもしれない。
来てほしくないのに、来ないままでも困る。
早く終わってほしいのに、始まるのが怖い。
そういう時間だった。
授業中、先生の声はいつもより遠かった。黒板に書かれた文字をノートへ写す手だけが勝手に動いて、頭の中では昨日の担任の言葉が何度も繰り返されていた。
――明日の放課後、俺が同席する形なら見せる。
去年の文化祭の記録用フォルダ。
選ばれた写真。
選ばれなかった写真。
水崎澪が残したがったかもしれない写真。
それを見る。
ただそれだけなのに、教室の空気まで少し違って感じた。
「湊」
昼休み、美晴が僕の机まで来た。
手には購買の小さなパンが二つある。
「食べる?」
「急に?」
「朝から顔が重い」
「顔が重いって何」
「見たまま」
「ひどいな」
「食べないなら私が食べる」
「食べる」
僕がひとつ受け取ると、美晴は少しだけ満足そうに自分のパンの袋を開けた。
こういうところは、前とあまり変わらない。
彼女は心配だと言わずに、食べ物を渡してくる。
そして、それを優しさとして扱われるのを少し嫌がる。
「ありがとう」
僕が言うと、美晴は目を逸らした。
「別に。二個入りだっただけ」
「購買で二個入り選んだのは美晴でしょ」
「細かい」
「言い訳が雑だから」
「湊にだけは言われたくない」
少しだけ笑えた。
その笑いを見て、美晴も少しだけ肩の力を抜いたようだった。
「今日、見るんだよね」
「うん」
「大丈夫?」
「大丈夫ではない」
「即答」
「最近、そこは正直にした方がいい気がして」
「うん。その方がいい」
美晴は小さく頷いた。
「私も、大丈夫ではない」
「そっか」
「でも、行く」
「うん」
「湊が逃げそうなら止めるし、私が逃げそうなら止めて」
「わかった」
そう答えると、美晴は少しだけ真面目な顔のまま、パンをかじった。
「……甘い」
「何味?」
「よくわからないけど甘い」
「雑」
「でも今はこれくらいでいい」
その言い方が、少しだけ美晴らしくて、少しだけ今の僕たちらしかった。
花音はいつもより静かだった。
もちろん、完全に黙っているわけではない。企画係の話を振られれば返すし、誰かが冗談を言えば笑う。でも、いつもなら自分から拾いにいく小さな沈黙を、今日は少しだけそのままにしていた。
そのせいで、教室には何度か短い間ができた。
でも不思議なことに、そのたびに教室が壊れるわけではなかった。
誰かが別の話を始める。
誰かがプリントをめくる。
誰かがスマホを見て笑う。
花音が全部を埋めなくても、教室は教室のまま続いていく。
そのことに、たぶん花音自身も少し驚いているように見えた。
栞は昼休みに一度だけ、僕の机の横を通りかかった。
「放課後、職員室前で」
「うん」
「無理に全部見ようとしない方がいい」
「途中で止めてもいいってこと?」
「うん」
「でも、止めたらまた逃げてる気がする」
栞は僕を見た。
「逃げるのと、順番を決めるのは違うと思う」
「順番」
「今日見られるところまで見ればいい。全部一度に受け取らなくても、なかったことにはならないから」
それだけ言って、彼女は自分の席へ戻っていった。
栞はいつも、言葉を短く置いていく。
その短さに助けられるときと、逃げ場を塞がれるときがある。今日は少し、助けられた気がした。
そして、放課後が来た。
終礼が終わると、教室はいつものように文化祭準備のざわめきへ変わりかけた。黒板前に集まろうとする人たち。段ボールを引っ張り出す音。誰かの「今日どこまでやる?」という声。
その中で、僕たち四人だけが少し違う動きをした。
鞄は置いたまま。
スマホだけ持って。
職員室へ向かう。
花音が廊下へ出たところで、小さく言った。
「変な感じ。サボってるわけじゃないのに、抜け出してるみたい」
「実際、文化祭準備は抜けてるしね」
美晴が返す。
「真面目」
「事実」
「今の美晴、ちょっといつも通り」
「何それ」
「褒めてる」
「花音の褒め言葉、信用できない」
花音が少しだけ笑った。
その笑いは、軽いけれど無理ではなかった。
職員室の前に着く。
担任は、すでに扉の近くで待っていた。
「来たか」
そう言って、僕たち四人を見た。
昨日より少し疲れた顔をしているように見えた。たぶん僕たちのせいだけではない。教師には教師の忙しさがある。でも、その疲れの中に、今日これから見るものへの重さも少し混ざっている気がした。
「視聴覚準備室を使う。こっちだ」
担任は職員室には入れず、廊下の先へ歩き出した。
僕たちは黙ってついていく。
視聴覚準備室は、普段ほとんど使わない部屋だった。中には古い機材の棚や、プロジェクター、使われていないコード類、積まれた椅子がある。窓は小さく、放課後の光があまり入らない。
担任がノートパソコンを机に置き、電源を入れた。
「先に言っておく」
画面が立ち上がるまでの間、担任は僕たちへ向き直った。
「ここにあるのは、文化祭の記録用に保存されていた写真だ。全部が全部、当時の状況を説明するものじゃない」
「はい」
「写真は切り取る。写っていないものの方が多い。そこは忘れるな」
それは、前にも言われたことだった。
でも今は、その意味が少しわかる。
写真には沈黙が写らない。
笑い声も写らない。
誰が何を飲み込んだかも写らない。
「それでも、見るんだな」
担任が言う。
僕は頷いた。
「見ます」
美晴も頷く。
「見ます」
花音が少し遅れて言った。
「私も」
栞も短く。
「見ます」
担任は小さく息を吐いて、フォルダを開いた。
画面に、去年の文化祭の写真が並んだ。
日付順に整理されたファイル。
準備日。
前日。
当日。
片づけ。
その中に、「候補」という名前のフォルダがあった。
担任の指が一瞬だけ止まる。
それから、クリックした。
写真が並ぶ。
最初の数枚は、見覚えのあるものだった。
教室全体。
黒板。
プリントの束。
準備中の机。
花音が笑っている写真。
美晴が装飾を持っている写真。
その次に、昨日見た候補リストにあったらしい写真が出てきた。
飾りが失敗して、紙が床に落ちている。
誰かがガムテープを持って、困った顔をしている。
美晴が眉間に皺を寄せて、模造紙を見ている。
花音が笑いながらも、少し疲れた顔をしている。
どれも、文化祭の完成写真としては使いにくい。
でも、そこには準備している教室があった。
「これ……」
美晴が画面を見ながら言う。
「私、すごい顔してる」
「してるね」
花音が小さく言う。
「そこは否定してよ」
「ごめん。今のは無理」
美晴は少しだけ笑いかけて、でもすぐに黙った。
次の写真。
机の上に散らばった紹介文の下書き。
澪の字が端に写っている。
ちゃんと残さないと、なかったことになるから。
前にスマホで見た文字だ。
大きな画面で見ると、字の細さまではっきりわかった。
担任はその写真を見ても、何も言わなかった。
次。
水崎澪が写っていた。
写真の中央ではない。けれど、端でもない。
彼女は紙を持って、誰かに何かを説明しているようだった。口が少し開いている。表情は真剣で、でも怒ってはいない。
たぶん、これが彼女の普通の顔だったのだと思う。
僕は初めて、澪を「写真の中の誰か」ではなく、「同じ教室にいた人」として見た気がした。
「……こういう顔だったんだ」
花音が呟いた。
その声は震えていた。
美晴は画面を見つめたまま動かない。
栞は静かに目を伏せて、また画面を見た。
「覚えてる?」
担任が低く聞いた。
誰に向けたのかわからなかった。
僕は答えた。
「少しだけ」
「そうか」
担任はそれ以上言わず、次の写真へ進めた。
澪が、黒板の前に貼られた紙を見ている。
隣に僕らしき腕が写っている。顔は写っていない。
手にはスマホ。
僕が撮っている側だからだ。
次。
澪が何かを指差している。
花音が笑っている。
美晴が少し困った顔をしている。
その奥で、何人かがこちらを見ている。
次。
澪だけが笑っていない。
周りの数人は笑っている。
それは、大きな笑いではない。
少し困ったような、気まずさをごまかすような笑い。
でも、澪だけは笑っていない。
写真に写っているのは、それだけだった。
音はない。
言葉もない。
でも、見ればわかってしまう。
この場で、何かがずれている。
花音が口元を押さえた。
「私、笑ってる」
美晴が震える声で言う。
「私も、笑ってないけど……止めてない」
栞が静かに言った。
「私は、この場には写ってない」
少し間を置いてから、続ける。
「でも、写ってないから関係ないとは言えない」
担任の手が止まった。
たぶん、今の栞の言葉が刺さったのだと思う。
担任もまた、写っていない場所にいた人だったのかもしれない。
「次、見ます」
僕が言った。
声は思ったよりかすれていた。
担任が一度だけ僕を見る。
「大丈夫か」
「大丈夫ではないです」
自分で言って、少しだけ息を吐いた。
「でも、見ます」
担任は頷き、次へ進めた。
写真の中で、澪が教室の扉へ向かっていた。
昨日見た後ろ姿よりも、少し前の瞬間だった。
彼女はまだ振り返っている。
教室の中を見ている。
その表情は、怒ってはいなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、諦めたように見えた。
その顔を見た瞬間、頭の奥で何かが戻った。
声。
澪の声。
――もういいです。
短い言葉だった。
そうだ。
彼女はそう言った。
大きな声ではなかった。
怒鳴ってもいなかった。
ただ、静かに。
――もういいです。
そのあと、教室を出た。
「……言った」
僕は呟いた。
「何を?」
美晴が聞く。
「澪が」
喉が苦しい。
「もういいです、って」
花音が息を止めた。
美晴の顔が真っ白になる。
栞はゆっくり目を閉じた。
担任は、何も言わなかった。
「それ、私も聞いた」
花音が震える声で言った。
「今、思い出した。水崎さん、そう言った」
美晴が小さく首を振る。
「私も……聞いたかも」
その声は、ほとんど消えそうだった。
「そのあと、誰かが『怒った?』って言って」
花音が続ける。
「誰かが笑って……私も、たぶん笑った。違う。笑った。覚えてる」
彼女は初めて、たぶん、を言い直した。
「私は笑った」
その言葉が、部屋に落ちる。
美晴は両手を握りしめた。
「私、追いかけなかった」
僕は画面を見ていた。
澪が扉へ向かう写真。
振り返っている顔。
もういいです。
その声。
そのあとに何も言わなかった僕。
僕は、ゆっくりと思い出していた。
彼女が教室を出たあと、少しだけ沈黙があった。
誰かが「まあ、あとで戻ってくるでしょ」と言った。
それで、誰かが「先に進めよう」と言った。
僕は、スマホを手にしたまま立っていた。
追いかけることもできた。
でも、追いかけなかった。
そして、写真を撮り続けた。
澪のいない教室を。
「僕は」
声が震えた。
「そのあとも撮ってた」
画面には、次の写真が表示されている。
澪がいない教室。
黒板。
笑いかけている誰か。
整えられていく展示物。
去年の僕が撮った写真。
澪が出ていったあとも、文化祭準備は続いた。
そして僕は、それを記録した。
何事もなかったように。
「止めてください」
美晴が言った。
担任の手が止まる。
「今日は、ここまでで」
彼女の声は震えていたけれど、はっきりしていた。
担任は僕を見る。
僕は頷いた。
「ここまでで、お願いします」
画面が閉じられる。
写真が消える。
でも、見たものは消えない。
部屋の中に、長い沈黙が落ちた。
担任が、低い声で言った。
「……水崎は、このあとしばらく休んだ」
初めてだった。
担任が、はっきりと名前を出したのは。
僕たちは誰も動かなかった。
「理由は、一つじゃない。お前たちだけのせいだと言うつもりはない。家庭のこともあった。本人の体調のこともあった。学校側の対応にも、足りないところがあった」
担任の声は、教師のものだった。
でも今度は、前みたいに蓋をする声ではなかった。
「ただ」
担任はそこで言葉を切った。
「この日のことが、関係なかったとは言えない」
誰も何も言わなかった。
その言葉だけで、十分だった。
関係なかったとは言えない。
僕たちは、決定的な犯人ではないのかもしれない。
でも、無関係ではなかった。
それが一番、逃げられない。
帰り道、僕たちは四人で並ばなかった。
自然と少しずつ距離ができた。
花音は前を歩き、美晴は僕の横にいて、栞は少し後ろにいた。誰も無理に話さなかった。
校門を出るころ、美晴が小さく言った。
「もういいです、って」
「うん」
「私、あれ聞いた」
「うん」
「聞いたのに、何もしなかった」
僕は返事をしなかった。
同じだったからだ。
花音が前で立ち止まる。
振り返らないまま、言った。
「私、笑った」
その背中が震えていた。
栞が静かに答える。
「私は、あとで知ったのに、何も聞かなかった」
それぞれの罪は、少しずつ違う。
でも、全部同じ教室の中にあった。
僕は空を見た。
夕方の空は、腹が立つくらい綺麗だった。
「僕は」
声に出す。
「追いかけなかった」
誰も、慰めなかった。
それでよかった。
今日の僕たちには、慰めよりも、その事実を持って帰ることが必要だった。
選ばれなかった写真は、確かに残っていた。
そこには、笑っていない水崎澪がいて、笑っていた花音がいて、困った顔の美晴がいて、写っていない栞がいて、撮っていた僕がいた。
そして、写真の外側に、僕たちの沈黙があった。
それは写っていなかった。
でももう、なかったことにはできなかった。




