第33話 今年の教室は、まだ終わっていない
翌日の教室は、少しだけ騒がしかった。
文化祭の準備が、本格的に動き始めたからだ。
朝のホームルームが終わると、黒板には係ごとの予定が書き込まれ、後ろの棚には段ボールがさらに増え、窓際には装飾用の色紙や模造紙が立てかけられていた。机の配置も、いつもの授業仕様から少しだけ崩れている。
教室が、行事前の顔になっていく。
去年も、きっとこうだったのだろう。
そう思うたびに、胸の奥が少しだけざらついた。
でも今日は、そのざらつきから目を逸らさなかった。
「湊、これ撮る?」
花音が黒板の前から声をかけてきた。
彼女の手には、企画名の候補が書かれた紙が数枚ある。どれも花音らしく、少し大げさで、少し軽くて、文化祭っぽい。
「まだ候補でしょ」
「候補の時点も記録でしょ?」
花音はそう言って、少しだけいたずらっぽく笑った。
昨日までなら、ただの冗談に聞こえたと思う。
でも今の僕には、それが花音なりの歩み寄りに見えた。
完成形だけじゃなく、途中も残す。
その意味を、彼女も考えている。
「撮る」
僕はスマホを取り出した。
「じゃあ、ちゃんと可愛く」
「候補用紙に可愛さいる?」
「いる。企画名にも顔があるんです」
「謎理論」
花音は紙を黒板に貼った。
僕はそれを撮る。
シャッター音が鳴る。
黒板。
企画名の候補。
花音の指先。
少し曲がって貼られた紙。
完成していないものの写真。
たぶん、去年の僕なら撮らなかった。
「見せて」
花音が覗き込む。
「うわ、曲がってる」
「曲がってるのも記録」
「言うようになったねえ」
「誰かさんたちのおかげで」
僕がそう返すと、花音は一瞬だけ言葉を止めた。
そして、少しだけ目元を緩める。
「じゃあ、曲がってるのも採用で」
「採用するかは別」
「厳しい」
いつもの軽口に近かった。
でも、以前とは違う。
花音はもう、ただ流すために笑っているわけではない。
少なくとも今は、笑いながらも止まる場所を探している。
その変化は、小さかった。
でも、小さくても確かにあった。
美晴は窓際で、装飾係の二人と話していた。
「そこ、色を増やしすぎるとごちゃごちゃすると思う」
「でも地味じゃない?」
「地味でも見やすい方がいいよ」
「篠宮さんって安定志向だよね」
「悪い?」
「悪くないけど」
そんな会話が聞こえてくる。
美晴は、いつも通りきっちりしている。
でも、少しだけ違っていた。
相手の案をすぐ切らない。
否定する前に、一度受け止める。
「それは違う」ではなく、「こう見えるかも」と言う。
たぶん、美晴も気にしているのだ。
自分が昔、「大げさじゃない?」と言ったかもしれないことを。
「そこまでしなくてもよくない?」と、誰かの真面目さを止めたかもしれないことを。
だから今、言葉を選んでいる。
僕は、その姿も撮った。
美晴がこちらに気づく。
「今撮った?」
「うん」
「変な顔してない?」
「真剣な顔」
「ならいい」
美晴はそう言ったあと、少しだけ照れたように視線を逸らした。
花音が横から言う。
「美晴、最近撮られ慣れてきてない?」
「慣れてない」
「机整えるし、顔チェックするし」
「それは最低限の危機管理」
「何の危機?」
「湊の写真フォルダに変な顔が残る危機」
「それは大問題」
花音が笑う。
美晴も、少しだけ笑った。
その二人を見ながら、僕はもう一枚撮った。
花音が笑い、美晴が呆れている写真。
たぶん、今年の文化祭準備をあとから見返したら、何でもない一枚に見えるだろう。
でも今の僕には、この一枚の中にもいくつものものがある。
花音が逃げずに笑おうとしていること。
美晴が言葉を選びながらも、少しずつ普通に戻ろうとしていること。
僕がそれを見ていること。
写真には、そこまでは写らない。
でも、撮った僕は覚えていられるかもしれない。
昼休み、栞が去年のファイルを持って僕の席に来た。
「今日、放課後少し時間ある?」
「ある」
「去年の候補写真、まだ残ってるかもしれない」
その言葉で、花音と美晴の動きも止まった。
近くにいたわけではないのに、二人とも聞いていたらしい。
「候補写真って、提出されなかったやつ?」
美晴が聞く。
「たぶん」
栞は頷く。
「番号だけじゃなくて、データ自体が残ってる可能性がある」
データ。
僕は昨日の候補リストを思い出した。
澪が残したがった写真。
僕が「暗い」「地味」「使いにくい」と書いた写真。
最終提出から外した写真。
それらが、まだ残っているかもしれない。
胸の奥が重くなる。
でも、昨日とは少し違った。
怖い。
けれど、見たい。
いや、見なければいけない。
「どこに?」
僕が聞くと、栞はファイルを開いた。
「去年の広報用データのフォルダ名が、候補リストに書いてあった。教室のパソコンか、先生の管理フォルダに残ってると思う」
「先生に言わないと無理?」
「たぶん」
担任。
その言葉で、四人の間に少しだけ重いものが落ちた。
担任は、知っている。
けれど、教師としてしか答えない。
それでも、データを見るには担任を通す必要がある。
「聞いてみる」
僕が言うと、美晴がすぐにこちらを見た。
「一人で?」
「いや」
そこはもう迷わなかった。
「一緒に来てほしい」
美晴は少しだけ驚いた顔をした。
それから、短く頷く。
「行く」
花音も言った。
「私も」
栞はファイルを閉じる。
「私も行く。資料のことなら、私が説明した方がいいかもしれない」
四人で担任のところへ行く。
少し前の僕なら、考えられなかったことだ。
気になっても一人で抱え、聞きに行くなら遠回しに聞き、答えが出なければ曖昧にしていた。
でも今は違う。
一人だと、きっとまた逃げる。
だから、一緒に行く。
それは弱さなのかもしれない。
でも、少なくとも前には進める弱さだった。
放課後。
教室ではいつものように文化祭準備が始まったけれど、僕たちは先に職員室へ向かった。
廊下を歩く四人の足音が、妙に揃わない。
花音は少し前を歩き、美晴は僕の隣にいて、栞は少し後ろ。
それぞれの距離が、そのまま今の関係みたいだった。
「なんか、先生に怒られに行くみたい」
花音が小さく言った。
「悪いことしてないでしょ」
美晴が返す。
「してないけど、気分がさ」
「わかる」
僕が言うと、花音が振り返った。
「湊がわかるって言うと、余計リアル」
「僕、前に聞きに行ったから」
「ああ……」
花音はそれ以上言わなかった。
あのとき担任は、今いるクラスを大事にしろと言った。
過去を無闇にほじくるなとも言った。
必要なら大人が処理すると。
でも、僕たちはもう知っている。
大人が処理したものの中に、残らなかったものがある。
職員室の前に着く。
僕は一度だけ深呼吸した。
美晴が隣で小さく言う。
「逃げない」
「うん」
「私も逃げない」
「うん」
花音が少しだけ笑う。
「じゃあ、私も逃げない」
栞が最後に言った。
「入ろう」
職員室に入る。
担任は机に向かっていた。
僕たち四人を見ると、少しだけ驚いた顔をした。
「どうした。集団で」
軽い声だった。
でもその目は、すぐに僕たちの空気を読んだのだと思う。
少しだけ表情が硬くなった。
「先生」
僕は言った。
「去年の文化祭の写真データを見せてください」
担任の手が止まる。
その沈黙は、前と同じだった。
けれど今度は、僕一人ではない。
美晴が隣にいる。
花音がいる。
栞がいる。
担任はゆっくり椅子にもたれた。
「何のために?」
「今年の広報の参考にするためです」
言ってから、自分でも少しだけ驚いた。
嘘ではない。
本当に、今年の広報の参考にしたい。
どんな写真を選び、どんな写真を選ばなかったのか。
その失敗を、今年繰り返さないために。
担任は僕を見る。
「去年のことは、前にも言っただろ」
「はい」
「無闇に掘り返すなと」
「覚えてます」
「なら」
「でも、今年の記録をちゃんと残したいんです」
声は震えていなかった。
「完成したところだけじゃなくて、途中も。うまくいかなかったところも。誰が何をしていたか、あとからなかったことにならないように」
担任の顔が、ほんの少しだけ変わった。
たぶん、その言葉を聞き覚えていたのだと思う。
ちゃんと残さないと、なかったことになるから。
水崎澪の言葉。
僕は続けた。
「そのために、去年、何を残して何を残さなかったのか見たいです」
職員室の周りの音が、少し遠くなる。
担任は僕を見ていた。
それから、美晴、花音、栞の顔を順に見た。
「お前らも同じか」
美晴が頷く。
「はい」
花音も頷いた。
「見たいです」
栞は短く言う。
「必要だと思います」
担任はしばらく黙っていた。
その沈黙は長かった。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「……全部は見せられない」
その言葉に、胸が沈みかける。
でも担任は続けた。
「ただ、文化祭の記録用フォルダなら残っている。個人情報に関わるものは確認してからだ。今日は無理だが、明日の放課後、俺が同席する形なら見せる」
僕は、すぐには返事ができなかった。
断られると思っていたからだ。
「いいんですか」
「よくはない」
担任は少し苦い顔をした。
「本当は、見ない方がいいものもある」
「それでも」
「わかってる」
担任は僕の言葉を遮った。
でも前のように、拒絶する声ではなかった。
「今のお前らには、もう見ない方がいいだけでは止まらないんだろう」
誰も答えなかった。
それが答えだった。
担任は机の上の書類を整えながら言った。
「ただし、勘違いするな。記録は全部じゃない。写真に写っているものだけを見て、全部わかった気になるな」
その言葉は重かった。
けれど、正しい。
「はい」
僕は答えた。
担任はもう一度、僕たち四人を見た。
「明日、放課後だ。今日は帰れ」
職員室を出たあと、廊下で誰もすぐには喋らなかった。
花音が、最初に息を吐いた。
「……通ったね」
「うん」
美晴が小さく頷く。
「明日、見るんだ」
栞は淡々と言う。
「候補写真」
候補写真。
選ばれなかった写真。
残らなかった写真。
澪が残したがったもの。
明日、それを見る。
怖い。
でも今は、それだけではなかった。
今年の教室は、まだ終わっていない。
今年の記録は、まだ選べる。
今年は、完成した笑顔だけではなく、途中も、失敗も、迷いも、ちゃんと残せるかもしれない。
もちろん、それで去年が取り戻せるわけではない。
水崎澪の時間が戻るわけでもない。
それでも。
今年、同じことを繰り返さないことだけは、まだ選べる。
僕はスマホを取り出して、廊下に立つ三人を撮った。
花音が驚き、美晴が少し眉を寄せ、栞が静かにこちらを見る。
誰も笑顔を作っていない。
でも、それでいいと思った。
シャッター音が鳴る。
花音が小さく言った。
「今の、使いにくそう」
「うん」
僕は画面を見ながら答えた。
「でも残す」
美晴が頷いた。
「残そう」
栞も、静かに言った。
「うん」
その写真には、沈黙までは写らない。
でも、僕たちが逃げずに職員室から出てきたことは、たぶん少しだけ残る。
それだけでも、今は十分だった。




