第32話 選ばなかった写真
使いにくいかも。
その六文字は、思っていたよりずっと軽い字で書かれていた。
たぶん、去年の僕は深く考えていなかったのだと思う。
文化祭の記録に使う写真を選ぶ。見栄えのいいもの、わかりやすいもの、楽しそうなもの、あとで担任に提出しても困らないもの。そういう基準で見れば、準備途中の失敗写真や、誰かが疲れた顔をしている写真は、たしかに使いにくい。
間違ってはいない。
でも、その「間違ってはいない」が、今はひどく冷たかった。
空き教室の机の上に、去年の候補リストが広げられている。
澪の丁寧な字。
僕の雑な字。
その横に、赤ペンで丸や斜線が引かれている。
誰がつけたものなのかは、すぐにはわからなかった。僕かもしれない。澪かもしれない。担任かもしれない。あるいは記録係の別の誰かかもしれない。
でも、少なくともそこには選ばれた写真と、選ばれなかった写真があった。
「……続き、見る?」
美晴が聞いた。
声は慎重だった。
僕の顔色を見て、止めるべきか進むべきか迷っている。
最近の美晴は、そういう顔をすることが増えた。
「見る」
僕は答えた。
「今日は見たい」
「無理してない?」
「してる」
美晴が少しだけ眉を寄せる。
僕は続けた。
「でも、今は無理しないと、また見ない気がする」
美晴は何か言いかけて、やめた。
「わかった」
それだけ言って、彼女は隣に座ったままでいてくれた。
花音は少し離れた机に手をついて、候補リストを見ている。
栞は入口に近い席で、黙ってページの端を押さえていた。
誰も僕を急かさなかった。
僕は次のページをめくる。
写真番号の横に、澪の字で短いメモがある。
飾りを作り直しているところ。失敗した理由もあとで書ける。
その隣に、僕の字。
暗い。
次。
受付の練習中。うまく説明できなくて笑っているけど、準備している感じが出ている。
僕の字。
使うならトリミング。
次。
全員ではないけど、裏方も写っている。
僕の字。
地味。
地味。
その二文字を見た瞬間、息が詰まった。
自分の字だった。
間違いなく、僕の字。
去年の僕は、その写真を見て「地味」と書いた。
裏方が写っている写真に。
誰かが準備している写真に。
澪が「残したい」と思ったであろう写真に。
「湊……」
花音が小さく名前を呼んだ。
僕は返事をしなかった。
できなかった。
ページをさらにめくる。
澪の字がある。
完成前の教室。まだ散らかっているけど、準備の途中として残したい。
僕の字。
完成後だけでいいかも。
その瞬間、頭の奥に何かが戻った。
映像ではなかった。
でも、声があった。
――完成後だけでよくない?
誰かの声。
それが僕の声だったのか、誰か別の声だったのか、まだわからない。
でも、そのあとに澪の声が続く。
――でも、途中がないと、誰が何をしたかわからなくなるよ。
静かな声だった。
責めるでもなく、怒るでもなく。
ただ、そう思うから言っている声。
その声を、僕は聞いたことがある。
「思い出した?」
栞が静かに聞いた。
「少し」
「何を?」
「完成後だけでいいって、誰かが言った」
僕は言う。
「それに、澪が……途中がないと、誰が何をしたかわからなくなるって」
美晴が息を呑んだ。
「それ、写真の話?」
「うん。たぶん」
花音が苦しそうに笑う。
「水崎さんらしいね」
「うん」
僕は候補リストに視線を落としたまま頷いた。
「らしい、って今なら思う」
でも当時の僕は、どう思ったのだろう。
面倒だと思ったのか。
正しいけど使いにくいと思ったのか。
今は時間がないから、完成後だけでいいと思ったのか。
たぶん、その全部だ。
そしてそれは、あまりにも普通だった。
「この丸」
美晴が候補リストを指差した。
「最終的に選ばれた写真ってことかな」
「たぶん」
栞が答える。
「丸がついてる写真番号、別の提出リストにもあった」
「提出リスト?」
僕が顔を上げると、栞はファイルの後ろから別の紙を取り出した。
「これ。去年の文化祭記録、最終提出分」
机の上に置かれた紙を見る。
そこには、写真番号が十個ほど並んでいた。
完成後の教室。
集合写真。
受付で笑っている生徒。
黒板前の企画紹介。
花音がピースしている写真。
美晴が装飾を持っている写真。
僕の撮った、明るく見える写真たち。
澪が残したがっていた準備途中の写真は、ほとんど入っていなかった。
僕はそのリストを見つめた。
ちゃんと、選ばれている。
誰かが選んだ。
自然に消えたのではない。
残す写真と、残さない写真を、選んだのだ。
「誰が選んだんだろう」
美晴が呟く。
それは、僕も考えていた。
担任かもしれない。
記録係全体かもしれない。
文化祭委員かもしれない。
でも、リストの端に書かれた字を見た瞬間、そんな逃げ道は少し狭くなった。
僕の字で、こう書かれていた。
提出用はこれで。
ただそれだけ。
でも十分だった。
僕が選んだのだ。
少なくとも、最終的に提出する形にまとめたのは僕だった。
「……僕だ」
声が出た。
美晴がこちらを見る。
「湊が?」
「この字、僕の字」
僕はその文字を指差した。
「提出用はこれで、って」
花音が何か言おうとして、口を閉じた。
栞は、静かに目を伏せた。
誰も否定しなかった。
それが何より答えだった。
僕は写真を撮っていた。
澪の言葉を聞いていた。
澪のメモを読んでいた。
そのうえで、使いやすい写真を選んだ。
完成した教室。
笑っているクラスメイト。
明るい文化祭。
その裏側にあった、失敗や疲れや、誰かがちゃんと残したいと言ったものを、提出用から外した。
それは悪意ではなかった。
たぶん、悪意ではない。
だから余計に苦しい。
「湊」
美晴がゆっくり言った。
「これ、湊だけが決めたわけじゃないと思う」
「でも、僕がまとめた」
「それは……そうかもしれないけど」
「澪のメモ、読んだはずだ」
声が震えた。
「読んで、それでも外した」
花音が小さく言う。
「私も、その提出写真見たと思う」
「花音が?」
「たぶん。企画係だったから。見栄えいいじゃんって、言った気がする」
彼女は自分の言葉に少し傷ついたような顔をした。
「覚えてないけど、言いそう。すごく」
美晴も小さく頷いた。
「私も、完成後の方がいいって言ったかもしれない。散らかってるの見せるの嫌だし」
栞が続ける。
「私は、何も言わなかったと思う」
それぞれの声が、少しずつ重なる。
湊だけではない。
花音だけではない。
美晴だけでも、栞だけでもない。
でも、それは救いにならなかった。
誰か一人が悪い話ではない。
だから、誰も完全には逃げられない。
僕は候補リストを見続けた。
澪の字が、何度も出てくる。
これは入れたい。
準備した人が写っている。
失敗したけど、やり直したことがわかる。
笑っていない写真も、あっていいと思う。
そのたびに、僕の字が短く返している。
暗い。
地味。
使いにくい。
完成後だけでいいかも。
僕の字は、いつも短かった。
説明しない。
考えすぎない。
ただ、処理する。
それが去年の僕だった。
「僕、澪と会話してる」
不意に、そう思った。
紙の上で。
澪が何かを残そうとして、僕がそれを削っている。
顔を合わせて言い合ったかどうかは、まだはっきりしない。
でも、紙の上では確かに会話している。
そしてその会話の中で、僕は彼女の言葉を選ばなかった。
「……ひどいな」
僕は呟いた。
美晴がすぐに言う。
「湊、今、自分を全部悪くするのは違う」
「でも、ひどい」
「違わないけど、全部じゃない」
「どっち」
「どっちも」
美晴は少しだけ泣きそうな顔をしていた。
「私たちも、同じ教室にいた。花音も、栞も、私も。湊だけが悪いってことにしたら、それこそまた簡単になる」
その言葉は、厳しかった。
でも、必要だった。
僕だけが悪いと思えば、少し楽になるのかもしれない。
自分を責めれば、話が単純になる。
澪を傷つけたのは僕です、と言えれば、他の複雑なものを見なくて済む。
でもたぶん、これはそういう話ではない。
「美晴の言う通り」
花音が言った。
「湊だけにしたら、私が楽になる。だから、それは嫌」
栞も静かに頷く。
「私も」
空き教室の中で、僕たちはしばらく黙った。
誰も泣かなかった。
誰も大声を出さなかった。
ただ、それぞれが自分の場所で、去年の自分を見ていた。
やがて僕は、候補リストをもう一度見た。
「これ、今年はやめたい」
「何を?」
花音が聞く。
「使いやすい写真だけ選ぶの」
自分でも少し驚くほど、はっきり言えた。
「今年は、途中も撮る。失敗も撮る。誰かが困ってるなら、困ってるところも……いや、勝手に晒すって意味じゃなくて」
「わかるよ」
美晴が言った。
「ちゃんと残すってことでしょ」
「うん」
栞が言う。
「でも、残すには許可もいる」
「うん。そこもちゃんとする」
「それならいいと思う」
花音が少しだけ笑った。
「今年の広報、重いね」
その言葉に、胸が跳ねた。
記録係、重すぎ。
去年の笑い声が、まだ頭の奥に残っている。
でも花音は、すぐに首を振った。
「ごめん。今のは笑うやつじゃない」
「うん」
「でも、ちょっと重いくらいでいいのかも」
花音はそう言った。
その声には、逃げる感じがなかった。
美晴が候補リストをそっと閉じる。
「今日は、ここまでにしよう」
「うん」
僕も頷いた。
まだ全部ではない。
澪がこのあとどうなったのかも、なぜ来なくなったのかも、決定的なところはわかっていない。
でも今日は、ひとつわかった。
澪は、なかったことにされるのを怖がっていた。
僕は、その澪が残したがったものを、使いにくいとして選ばなかった。
それは、忘れたくなるには十分なことだったのかもしれない。
空き教室を出る前、僕はスマホを取り出した。
「何撮るの?」
美晴が聞く。
「これ」
僕は机の上に置かれた候補リストと、閉じられたファイルを撮った。
何の変哲もない写真だった。
人の顔もない。
笑顔もない。
文化祭らしい華やかさもない。
ただ、そこに紙がある。
選んだ記録と、選ばなかった記録。
シャッター音が鳴る。
花音が小さく言った。
「それ、使える写真?」
僕は画面を見て、答えた。
「使いにくいと思う」
花音が少しだけ笑った。
「じゃあ、残しとこう」
美晴も頷く。
「うん。残しとこう」
栞は何も言わなかった。
でも、ほんの少しだけ目元を緩めた。
写真には、沈黙は写らない。
でも、何を写そうとしたかは、たぶん少しだけ残る。
今年の僕は、去年の僕が選ばなかったものから目を逸らさないでいたい。
そう思った。




