第31話 沈黙は写真に写らない
黙っていた。
その事実は、思い出したあとも形を変えなかった。
笑ったわけではない。
茶化したわけでもない。
水崎澪を直接傷つける言葉を投げたわけでもない。
けれど、黙っていた。
彼女が「失敗したところも含めて残した方が、本当の記録になると思う」と言ったとき、僕はその声を聞いていた。
誰かが「記録係、重すぎ」と笑ったとき、その笑い声も聞いていた。
そして、何も言わなかった。
たったそれだけの記憶だった。
でも、その「たったそれだけ」が、思っていたよりもずっと重かった。
次の日の朝、僕はスマホのカメラを起動したまま教室に入った。
別に、何かを撮るつもりで構えていたわけではない。ただ、昨日の放課後からずっと、カメラというものが妙に手に近かった。ポケットに入れていても、鞄の中にしまっていても、そこにあることを意識してしまう。
写真は、写ったものを残す。
でも、沈黙は写らない。
笑い声も、空気の傾きも、誰かが助けを求める前に諦めた瞬間も、写真には残らない。
だからこそ、去年の僕は逃げられたのかもしれない。
写っていないものは、なかったことにできるから。
「湊、朝からスマホ見すぎ」
前の方から美晴が振り返った。
「没収されるよ」
「まだ授業前」
「先生に見つかったら同じ」
「厳しい」
「普通」
いつもの会話だった。
美晴の声は、少しだけいつもに戻っていた。もちろん完全ではない。彼女の目の奥には、昨日の空き教室で聞いた僕の「黙ってた」という言葉が残っている。それでも、彼女は朝の会話を朝の会話として続けようとしている。
それが、少しだけありがたかった。
「写真撮るの?」
美晴が聞く。
「撮るかも」
「何を」
「教室」
「今?」
「今」
「……湊って、たまに急に変なことするよね」
「最近はずっと変らしいから」
「自覚あるならいいけど」
そう言いながら、美晴は少しだけ机の上を整えた。
まるで、撮られる準備をするみたいに。
「別に、美晴を撮るわけじゃないよ」
「わかってるし」
「じゃあ何その動き」
「机が散らかってたら恥ずかしいでしょ」
「撮られる気あるじゃん」
「ない」
きっぱり言うわりに、美晴は教科書の角をもう一度揃えた。
その仕草に少しだけ笑ってしまう。
笑ってから、思った。
こういう何でもないやりとりも、残しておきたいと思えば残せるのだろうか。
写真にすれば、美晴の少し尖った口元や、机の上を整えた手は残る。
でも、「撮られる気あるじゃん」と僕が言ったときの、彼女のほんの少し照れた空気までは残らない。
写真は万能じゃない。
それなのに僕らは、写真が残っていれば何かを覚えていられるような気がしてしまう。
「撮るなら撮れば」
美晴が言った。
「いいの?」
「変な顔じゃなければ」
「普通の顔してて」
「普通って難しいんだけど」
美晴はそう言って、少しだけ困った顔をした。
僕はその瞬間を撮った。
シャッター音が、朝の教室に小さく響く。
美晴がすぐに眉を寄せた。
「今の絶対変な顔」
「普通の困った顔」
「見せて」
スマホを向けると、美晴は画面を覗き込んだ。
写真の中の彼女は、確かに少し困った顔をしていた。
でも、悪くなかった。
「……まあ、許す」
「審査があるんだ」
「当然」
そう言って、美晴は前を向いた。
その横顔を見ながら、僕は写真を保存した。
今年の記録。
今ここにいる人の記録。
けれど、心のどこかで、去年のあの写真と重なる。
澪も、こんなふうに残されたかったのだろうか。
それとも、残したかっただけなのだろうか。
自分ではなく、教室そのものを。
笑っているところも、失敗しているところも、誰かが困っているところも含めて。
ホームルーム前、花音が近づいてきた。
「今、美晴撮ってた?」
「広報係なので」
「じゃあ私も撮って」
「急に」
「可愛くね」
「注文が多い」
「広報係なら頑張って」
花音はいつものようにピースした。
でも、顔は少しだけ硬い。
ピースはしている。笑っている。
けれど、昨日までのように何でも笑いへ変えようとしている顔ではなかった。
僕はカメラを向けた。
「無理して笑わなくていいよ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
花音も驚いた顔をした。
「……それ、写真撮る人の台詞?」
「たぶん違う」
「だよね」
花音はピースを下ろした。
少しだけ視線を逸らして、それから小さく笑った。作った笑顔ではなく、困っているのを隠しきれない笑い方だった。
僕は、その瞬間を撮った。
シャッター音。
花音が画面を見せろとも言わず、ただ小さく息を吐いた。
「変な顔でしょ」
「うん」
「そこは否定してよ」
「でも、たぶん今の花音の顔」
そう言うと、彼女は一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ口元を緩める。
「湊、写真撮るの下手じゃない?」
「え、今の流れで?」
「可愛く撮ってって言ったのに」
「無理して笑わなくていいって言ったら、可愛くは難しい」
「じゃあ今度はちゃんと可愛く撮って」
「はいはい」
「はいは一回」
その言い方が美晴に似ていて、僕は少し笑った。
花音も笑った。
少しだけ、いつもの彼女に戻ったように見えた。
けれど、もう完全には戻れないこともわかった。
彼女はもう、自分が空気を流す側だったことを知っている。
僕も、それを知っている。
だから彼女の笑顔は、前よりほんの少しだけ重い。
でも、それは悪いことだけではないのかもしれない。
軽いままだと、見えないものがあるから。
昼休み、栞が僕の席まで来た。
手には薄いファイルを持っている。
「広報係、写真撮ってるんだって」
「情報回るの早くない?」
「花音が言ってた」
「ああ」
花音なら言うだろう。
栞はファイルを机の上に置いた。
「これ、去年の資料の一部」
「今、見るやつ?」
「今じゃなくていい」
「じゃあ何で持ってきたの」
「渡すタイミングを逃すと、また見ないままになるかもしれないから」
その言い方は栞らしかった。
逃げ道を残しながら、逃げ切れない位置にそっと置く。
僕はファイルに触れた。
「中身は?」
「写真の使用候補リスト。去年の記録係が選んだものだと思う」
「僕と澪が?」
「たぶん」
たぶん。
相変わらずの言葉。
でも、今はその曖昧さが少しだけ助けになった。
僕はすぐには開かなかった。
「放課後に見る」
「一人で?」
「たぶん、美晴たちと」
「その方がいいと思う」
栞はそう言って、自分の席へ戻ろうとした。
でも、途中で一度だけ振り返った。
「湊くん」
「何」
「沈黙を残すなら、写真だけじゃ足りないよ」
それだけ言って、栞は去っていった。
沈黙を残す。
その言葉が、妙に耳に残る。
写真だけでは足りない。
たぶん、そうなのだ。
写っているものだけでは、去年のあの日はわからない。
澪が何を言ったのか。
誰が笑ったのか。
誰が黙ったのか。
誰が追いかけなかったのか。
それは、写真には写っていない。
でも、だからといって残せないわけではない。
言葉にするしかないのかもしれない。
見たもの、聞いたもの、黙ったこと、その全部を。
放課後、広報係の作業が始まった。
僕はスマホで写真を撮りながら、教室の中を歩いた。
黒板の前で企画名を考える花音。
装飾の紙を広げる美晴。
端の席で資料を整理する栞。
段ボールを運ぶ男子。
予算表を見て頭を抱える会計係。
誰かが失敗して、紙テープを床に落として、周りが笑っているところ。
撮った。
笑っているところだけじゃなく、困っているところも、やり直しているところも、誰かが少し不機嫌そうにしているところも。
すると、何人かに言われた。
「え、今の撮った?」
「変なとこ撮るなよ」
「完成してからでよくない?」
その言葉に、胸が少しだけざらつく。
完成してからでよくない。
去年も、誰かがそう言ったのだろうか。
僕はスマホを下ろして言った。
「途中も残した方がいいかなと思って」
「真面目かよ」
男子が笑う。
軽い笑いだった。
悪意はない。
でも僕は、その笑いに乗らなかった。
「うん。今日は真面目」
そう答えると、相手は少し拍子抜けした顔をした。
「お、おう」
それだけで会話は終わった。
空気が少しだけ止まった。
でも、壊れはしなかった。
花音が遠くからこちらを見ていた。
美晴も、装飾の紙を持ったまま動きを止めていた。
たぶん、二人とも気づいた。
今のは、去年なら笑いに流れていたかもしれない。
でも今日は、少しだけ止まった。
止まっても、教室は壊れなかった。
そのことに、僕は少しだけ驚いた。
放課後の作業が一段落したあと、僕たちはまた空き教室へ向かった。
もう、そこへ行くことが当然のようになっている。
それも少し変だと思う。
でも今の僕たちには、教室の中では話せないことが多すぎた。
空き教室に入ると、栞が昼に渡してくれたファイルを机の上に置いた。
花音が椅子を引く。
「今日は見るんだよね」
「うん」
僕は答えた。
美晴は隣に座り、栞は少し離れた机に腰をかける。
僕はファイルを開いた。
中には、去年の文化祭写真の候補リストらしい紙が数枚入っていた。
写真番号。
撮影場所。
使用候補。
備考。
手書きのメモがいくつもある。
字は二種類あった。
一つは、たぶん僕の字。
少し雑で、必要なことだけ書いている。
もう一つは、丁寧な細い字。
水崎澪の字。
僕たちは、すぐにそう思った。
備考欄に、細い字で書かれている。
準備中の写真も入れたい。完成だけだと、誰が頑張ったかわからない。
誰も何も言わなかった。
次の行。
失敗した飾りも、作り直したことがわかるように残したい。
さらに次。
笑っている写真だけだと、少し嘘っぽい。
その一文で、花音が小さく息を呑んだ。
「……これ」
美晴が呟く。
「水崎さん、ずっと同じこと言ってたんだ」
ちゃんと残さないと、なかったことになる。
失敗したところも含めて残した方が、本当の記録になる。
笑っている写真だけだと、嘘っぽい。
澪は、最初からそう言っていたのだ。
ずっと。
僕は自分の字を探した。
僕の字は、澪のメモの横に短く書かれていた。
使いにくいかも。
それだけ。
たったそれだけ。
胸の奥が冷えた。
僕は彼女の言葉を否定したわけではない。
笑ったわけでもない。
ただ、実務的にそう書いた。
使いにくいかも。
それはたぶん、写真として使いにくいという意味だったのだろう。広報として、文化祭の記録として、見栄えが悪い。楽しくなさそう。完成形じゃない。だから使いにくい。
でも、澪が残したかったものは、そこだった。
使いやすい写真ではなく、本当の記録。
「僕だ」
声が出た。
「これ、僕の字だ」
誰も否定しなかった。
僕はそのメモを見つめた。
使いにくいかも。
それは、ひどい言葉ではない。
むしろ普通だ。
広報としては間違っていない。
担任もきっと、楽しそうな写真を選ぶだろう。外に出すなら、完成したものや笑顔の写真の方がいい。
でも、その普通さが痛かった。
僕は澪の言葉を、間違っていると言わなかった。
でも、使いにくいと判断した。
残す価値ではなく、使いやすさで見た。
それが、去年の僕だった。
「湊」
美晴がそっと呼ぶ。
「今、何か思い出した?」
「うん」
僕は紙から目を離せなかった。
「澪が言ったんだ。笑ってる写真だけだと、嘘っぽいって」
「うん」
「それで僕、言った」
喉が渇く。
「使いにくいかもって」
花音が目を閉じた。
栞は何も言わなかった。
美晴は、僕の隣で小さく息を止めた。
「それだけ?」
美晴が聞く。
責めているわけではない。
続きを促している。
「それだけ」
僕は答える。
「でも、それで十分だったんだと思う」
自分で言って、胸が痛んだ。
僕は笑わなかった。
でも、彼女の言葉を残さなかった。
実用的な言葉で、そっと横に置いた。
使いにくいかも。
それは、刃物ではない。
でも、線引きだった。
澪が残したかったものと、僕が残そうとしたものの間に引いた線。
そして僕は、その線を引いたことを忘れていた。
空き教室の中に、夕方の光が入っている。
スマホで撮った写真では、この沈黙は残らない。
でも、僕は今、この沈黙を覚えておきたいと思った。
逃げるためではなく。
今度こそ、なかったことにしないために。




