表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
放課後、君とだけ秘密の話をする  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/37

第29話 なかったことにした日

翌日、教室の扉がやけに重く見えた。


 ただの引き戸だ。

 毎朝開けて、毎日通っている。

 何度も何度も、何も考えずに手をかけてきた扉。


 それなのに、その朝だけは、少し違って見えた。


 昨日見た写真のせいだと思う。


 教室を出ていく水崎澪の背中。

 紙を一枚持って、肩を少し落として、扉の方へ向かっていた彼女。

 そのあとに続く写真には、彼女がいなかった。


 たぶん、この扉を通ったのだ。


 去年のあの日、澪はこの教室から出ていった。

 そして、僕たちは追いかけなかった。


 少なくとも、今の僕にはそうとしか思えない。


 教室の前で立ち止まっていると、後ろから声がした。


「湊、入らないの?」


 美晴だった。


 鞄を肩にかけ、少しだけ眠そうな顔をしている。けれど僕を見る目だけは、すぐに朝の眠気を失った。


「……入るよ」


「嘘。今、完全に止まってた」


「ちょっと考えごと」


「その“ちょっと”が最近ぜんぜんちょっとじゃない」


 美晴はそう言って、僕の横に並んだ。


 彼女も教室の扉を見る。


 ただの扉を、僕と同じように。


「昨日の写真?」


「うん」


「私も、ちょっと考えてた」


「何を?」


「この扉、通ったのかなって」


 やっぱり、と思った。


 美晴も同じものを見ている。

 同じ場所に、昨日の写真を重ねている。


「入ろう」


 美晴が言った。


 声は少し硬かった。


「ここで止まってたら、逆に変に見える」


「もう十分変だと思うけど」


「それは否定しない」


「否定してよ」


「今さらでしょ」


 そう言って、彼女は扉に手をかけた。


 がらり、と音がする。


 教室の朝が、いつも通りそこにあった。


 花音がいた。

 栞がいた。

 何人かのクラスメイトがいて、誰かが小テストの範囲を聞いていて、誰かが机に突っ伏していた。


 明るい。

 普通だ。

 今日も、ちゃんと学校が始まる。


「おはよ」


 花音がこちらを見た。


 声はいつもより少しだけ慎重だった。


「おはよう」


 美晴が返す。

 僕も少し遅れて返した。


 花音は僕らの顔を見て、何かを察したようにほんの少しだけ笑った。


「扉で止まってた?」


「見てたの?」


 美晴が聞く。


「うん。見えた」


「観察力こわい」


「今は褒め言葉として受け取る」


 花音はそう言ったけれど、声はあまり弾まなかった。


 僕は自分の席へ向かう。


 窓際の席。

 今は僕の席。

 でも、どこか一人分だけ残響がある席。


 鞄を置いて椅子に座ると、昨日の写真が頭の中に戻ってきた。


 澪が教室を出ていく。

 その背中を、僕は撮っていた。

 その後の写真には、彼女がいない。


 たぶん、僕はその場にいた。

 追いかけることもできた。

 声をかけることもできた。


 でも、しなかった。


 それだけは、まだ思い出せていないのに、なぜか確信に近くなっていた。


 ホームルームが始まる前、栞が僕の席の横に来た。


 珍しいことだった。


 彼女はいつも、自分から誰かの席へ来ることが少ない。来ても用件だけ言ってすぐ戻る。今日もきっとそうなのだろうけれど、その立ち方には少しだけ迷いがあった。


「昨日の写真」


 栞が言う。


「うん」


「見返した?」


「何回も」


「そう」


 彼女は一度、教室の扉の方を見た。


「私、あの写真のあとを少し考えてた」


「あと?」


「澪が出ていったあと」


 僕は返事をしなかった。


 栞は続ける。


「たぶん、すぐ戻ってくるって思ったんだと思う」


「誰が?」


「みんなが」


 みんなが。


 その言葉は、教室という形をしていた。


「少し機嫌悪くしただけ。ちょっと空気が重くなっただけ。すぐ戻ってくる。そう思うと、誰も追いかけなくて済む」


 栞の声は静かだった。


 でも、その静けさの中に、わずかな痛みがあった。


「……栞もそう思った?」


 僕が聞くと、彼女は少しだけ目を伏せた。


「私は、その場にいたかまだ思い出せない。でも、たぶん同じことをしたと思う」


「同じこと?」


「追いかけなかった」


 短い言葉だった。


 責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ事実のように置かれた。


「私も、そういう人だから」


 栞が言う。


「静かな場所にいるのが好きで、人が揉めてるところから少し離れて、あとで一人で考える。でも、その時には何もしない」


 その言葉は、栞自身を切っているように聞こえた。


「図書室にいると、外のことを見なくて済むから」


「栞」


「うん」


「それ、僕も同じだと思う」


 栞は少しだけ僕を見る。


 僕は扉の方を見た。


「僕は、人と揉めたくないから、何も言わない。あとで考えればいいって思う。でも、あとで考える頃には、もうその人はいない」


 口にしてから、胸の奥が重くなった。


 それは、水崎澪のことだけではなく、僕自身の生き方について言っているようだった。


 栞は何も言わなかった。


 その沈黙が、今は少しありがたかった。


 チャイムが鳴って、担任が入ってくる。


 栞は静かに自分の席へ戻った。


 ホームルームでは、文化祭の係ごとの進捗確認があった。


「広報、写真係決まったか?」


 担任が黒板の前で聞く。


 何人かの視線が、こちらへ向く。


 僕は手を挙げた。


「僕です」


「水野か。じゃあ当日も準備期間も、適当に撮っといてくれ。あとで使うから」


 適当に撮っといてくれ。


 その言葉に、胸が引っかかった。


 去年の僕も、そう言われたのだろうか。

 適当に。

 あとで使うから。

 記録として、必要なところだけ。


「先生」


 気づけば、声が出ていた。


 教室が少しだけ静かになる。


 担任がこちらを見る。


「何だ?」


「写真、どこまで撮ればいいですか」


「どこまで?」


「準備してるところとか、失敗したところとか、話し合いとか。そういうのも残しますか」


 担任は少し不思議そうな顔をした。


 たぶん、そんな質問をされるとは思っていなかったのだろう。


「まあ、使えそうなところでいいんじゃないか。楽しそうなやつとか、完成したやつとか」


「途中は?」


「途中?」


「うまくいってないところ」


 教室の空気が、少しだけ変わった。


 花音がこちらを見る。

 美晴も振り返る。

 栞は、たぶん見ていないふりをしてこちらを聞いている。


 担任はほんの少しだけ眉を寄せた。


「水野、何の話だ?」


「広報の話です」


 自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。


「完成したところだけ撮ると、何か違うかなと思って」


 担任は数秒黙った。


 その沈黙は、教室全体に薄く広がった。


 去年なら、ここで誰かが笑ったかもしれない。

 「真面目かよ」とか、「湊どうした」とか。

 花音が軽口を挟んで、空気を戻したかもしれない。


 でも、今日は誰も笑わなかった。


 少なくとも、すぐには。


 担任が咳払いをする。


「まあ……必要だと思うなら撮ればいい。ただ、公開する写真はちゃんと選ぶからな」


「わかりました」


「それと、人が嫌がる写真は撮るなよ」


「はい」


 会話はそこで終わった。


 担任は次の連絡へ移り、教室も少しずついつもの朝へ戻っていく。


 でも、僕の中では何かが少しだけ動いていた。


 たぶん、初めて止まったのだ。


 流れそうになったところで、ほんの少しだけ。


 昼休み、花音が僕の机にやってきた。


「湊、朝のあれ」


「あれ?」


「広報の話」


「うん」


「ちょっと、水崎さんっぽかった」


 その言葉に、僕は返事を失った。


 花音は自分で言ってから、少し困ったような顔をする。


「ごめん。変な言い方した」


「いや」


「責めてるわけじゃないよ」


「わかってる」


「ただ、ああいう感じだったのかもって思った。水崎さんも」


 花音は視線を黒板へ向けた。


「みんなが“まあ楽しいとこだけでよくない?”ってなってるときに、“途中も残した方がよくない?”って言う感じ」


「それで、空気が止まった?」


「たぶんね」


 花音は小さく笑った。


「今日、私、笑えなかった」


「笑わなかったね」


「うん」


「無理しなくていいと思う」


「湊にそれ言われるの、まだ慣れない」


「僕も言うの慣れない」


 花音は少しだけ、今度はちゃんと笑った。


「でも、ありがと」


 そのあと、花音は小さな声で続けた。


「昨日の続き、少し思い出した」


 僕は顔を上げる。


「教えて」


「今?」


「無理なら放課後でも」


「……放課後。ちゃんと言う」


「うん」


「逃げないから」


 花音はそう言って、自分の席へ戻っていった。


 美晴が前から振り返る。


「また何か話してた?」


「うん」


「放課後?」


「たぶん」


「私も行く」


「もちろん」


 そう答えると、美晴は少しだけ頷いた。


「当然でしょ」


 その言い方は、少しだけ昔の美晴に近かった。


 放課後。


 僕たちは、また空き教室に集まった。


 もう何度目かの空き教室だった。

 机が端に寄せられたままの、誰の居場所にもなっていない教室。

 でも今の僕たちにとっては、ここが一番話しやすい場所になっていた。


 花音は窓際に立ち、少しだけ手を握ったり開いたりしていた。


 美晴はその様子をじっと見ている。

 栞は入口に近い机の端に腰をかけていた。


「朝の湊の話で、思い出した」


 花音が言う。


「去年、水崎さんも似たようなこと言ってた。完成した写真だけじゃなくて、準備してる途中も残した方がいいって」


「うん」


「で、誰かが言った」


 花音は目を伏せる。


「失敗してるところなんか残されても困るって」


 その言葉に、美晴の顔が強張った。


「それ、私かも」


 花音は首を横に振る。


「わからない。美晴かもしれないし、違うかもしれない。男子だった気もする。ほんとに曖昧」


「でも、誰かが言った」


「うん」


「それで?」


 僕が聞くと、花音は苦しそうに息を吐いた。


「水崎さんが、『失敗したところも含めて残した方が、本当の記録になると思う』って言った」


 その瞬間、頭の奥で何かが鳴った。


 音ではない。

 記憶の扉に、指が触れたような感覚だった。


 夕方の教室。

 紙の束。

 スマホを持つ手。

 誰かの声。


 ――失敗したところも含めて残した方が、本当の記録になると思う。


 聞いたことがある。


 たぶん、僕はその言葉を聞いた。


「……知ってる」


 僕は呟いた。


 三人がこちらを見る。


「今の言葉、聞いたことがある」


「思い出したの?」


 美晴が聞く。


「少しだけ」


 まだ映像はぼやけている。

 でも、声の輪郭がある。


 高すぎず、低すぎず、静かな声。

 強く主張しているわけではない。

 ただ、正しいと思うことを言っている声。


「澪の声」


 言った瞬間、胸が苦しくなった。


 初めてだった。


 名前だけじゃなく、声の断片が戻ってきたのは。


 花音が口元を押さえる。


 美晴は泣きそうな顔になった。


 栞は静かに目を伏せた。


「そのあと」


 僕は必死に記憶の端を掴もうとした。


「そのあと、誰かが笑った」


 花音が小さく頷く。


「うん」


「『記録係、重すぎ』って」


 言った瞬間、自分の声が止まった。


 僕は、その言葉を知っていた。


 誰かが言った。

 笑いながら。


 記録係、重すぎ。


 教室が笑った。


 澪は笑わなかった。


「それを言ったのは」


 美晴が震える声で聞く。


「誰?」


 僕は口を開きかけて、止まる。


 そこだけが、まだ見えない。


 顔がない。


 ただ、笑い声だけがある。


「……わからない」


 僕は答えた。


「でも、僕は笑わなかった」


 三人が息を呑む。


 僕は続ける。


「笑わなかった。でも、何も言わなかった」


 それが、戻ってきた。


 笑っていない自分。

 でも、止めていない自分。

 澪の方を見ていたのに、何も言わなかった自分。


 僕は笑った誰かではなかったかもしれない。

 でも、笑いを止めた誰かでもなかった。


 その差は、救いにはならなかった。


「僕は」


 声が震える。


「黙ってた」


 空き教室の中に、言葉が落ちる。


 黙っていた。


 それは、何もしなかったよりも少し具体的で、少し痛かった。


 美晴が近づこうとして、途中で止まる。


 花音は泣きそうな顔で、それでも泣かなかった。

 栞は何も言わない。


 誰も、慰めなかった。


 それがよかった。


 たぶん今、慰められたら、僕はまた逃げる。


 僕は澪の声を思い出した。


 そして、自分の沈黙も思い出した。


 教室は今日も、明るい。

 文化祭は進む。

 今年の写真も増えていく。


 でも去年のその日、僕は彼女の声を聞いていた。


 聞いていたのに、黙っていた。


 それが、最初に戻ってきた僕自身の記憶だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ