第28話 笑ったのは、誰だったのか
翌朝の教室は、昨日までと同じように明るかった。
それが、少しだけ腹立たしかった。
誰に対して怒っているのかはわからない。教室に怒っているのか、笑っているクラスメイトたちに怒っているのか、それとも、何も知らない顔でその中に入っていく自分に怒っているのか。
たぶん、全部だった。
「おはよ、湊」
花音がいつもの席のあたりから声をかけてきた。
でも、いつもの軽さより少しだけ音が低い。
「おはよう」
僕が返すと、花音は一瞬だけ目を合わせて、それからすぐに視線を逸らした。
昨夜の電話。
水崎澪は笑っていなかった。
教室は笑っていた。
僕はその場にいた。
それだけで、僕たちの間には、もう昨日までとは違う何かが置かれていた。
前の席では、美晴がこちらを振り返った。
「湊、今日の放課後」
「うん」
「話すんでしょ」
「うん」
短いやりとりだった。
それだけで通じてしまうのが、今は少しありがたくて、少し怖かった。
栞は一番後ろの席で本を開いていた。けれど、ページはめくられていない。彼女も待っているのだと思った。放課後に、僕たちが昨日の写真の話を持ち込むことを。
授業は、ほとんど頭に入らなかった。
黒板の文字は写した。先生の声も聞こえていた。けれど、その奥でずっと別の音がしている。
笑い声。
まだ思い出したわけではない。
でも、音だけがある。
教室の中で、誰かが笑う。
ひとりが笑い、つられて数人が笑う。
空気が笑いに変わって、誰も止めない。
その中で、水崎澪だけが笑っていない。
それは記憶なのか、花音の言葉から勝手に作った想像なのか、まだわからなかった。
でも、どちらにしても苦しかった。
昼休み、花音は珍しくあまり喋らなかった。
周りに話しかけられれば普通に返す。笑いもする。けれど、自分から場を広げようとはしていなかった。だから教室の温度が、いつもより少しだけ低い。
花音が黙るだけで、こんなに変わるのかと思った。
それだけ、彼女はいつも教室を動かしていた。
「橘、今日おとなしくない?」
男子の一人が言った。
花音は笑って返す。
「そう? 省エネモード」
「何それ」
「文化祭まで体力温存」
「絶対嘘だ」
「ばれた」
笑いが起きる。
花音も笑う。
でも僕は、笑えなかった。
花音が笑いを作った瞬間、その裏にある手つきを見てしまったからだ。
少し止まりかけた空気を、軽くする。
誰かの違和感を、冗談に変える。
何もなかったことにする。
それはやっぱり、才能だった。
そしてたぶん、怖い才能だった。
放課後になるまでが、やけに長かった。
終礼が終わると、教室は文化祭準備の空気へ切り替わった。黒板前に人が集まり、装飾係が紙を広げ、広報係の何人かが写真の使い方について話し始める。
僕はそこに混ざらなかった。
今日は、先に話すことがある。
花音がこちらへ来る。美晴も鞄を持って近づいてくる。栞は本を閉じて立ち上がった。
「空き教室?」
美晴が聞いた。
「うん」
花音が答える。
「昨日のとこ、たぶん空いてる」
四人で教室を出た。
昨日と同じ廊下。
昨日と同じ夕方の光。
昨日と同じ空き教室。
なのに、今日は少し違った。
昨日はまだ、花音が話す側で、僕たちは聞く側だった。
今日は違う。
写真を見つけた。
澪が写っていた。
笑っていなかった。
そして僕がその場にいた。
扉を閉めると、花音はすぐに口を開いた。
「昨日の写真、もう一回見せて」
僕はスマホを取り出した。
画面に、去年の文化祭準備中の写真を表示する。
教室の端。
プリントの束。
画面の隅にいる水崎澪。
四人で、その小さな画面を覗き込む。
誰もすぐには喋らなかった。
「……これ」
美晴が小さく言った。
「私、たぶんこの日、近くにいた」
「思い出した?」
「思い出したってほどじゃない。でも、このプリントの束、見覚えある」
美晴の指が画面の一部を指す。
「文化祭の紹介文、各班から集めたやつだと思う。書き方がバラバラで、誰かがまとめ直さなきゃいけなかった」
「記録係が?」
僕が聞くと、美晴は頷く。
「たぶん」
栞が静かに言う。
「記録係は、残すための係だったんだね」
残すための係。
その言葉が胸に落ちる。
僕と澪は、残す側だった。
でも今、澪はほとんど残っていない。
残っているのは、端に写った写真と、紙に書かれた名前だけ。
花音が画面を見つめたまま言った。
「この日、水崎さん、何か言った」
「何を?」
美晴が聞く。
花音は眉を寄せる。
「思い出せない。でも、言い方は覚えてる。責めるとかじゃなくて、普通に確認する感じだった」
「確認?」
「うん。『これ、ちゃんと残した方がよくない?』みたいな……違うかな。でも、そういう感じ」
ちゃんと残した方がよくない?
その言葉が、頭の奥に引っかかった。
何かが動きかける。
夕方の教室。
プリントの束。
文化祭の紹介文。
花音の笑い声。
誰かの「細かくない?」という声。
まだ見えない。
でも、近い。
「湊?」
美晴が僕の顔を覗き込む。
「何か思い出した?」
「……少し、引っかかった」
「どこが?」
「ちゃんと残す、って言葉」
そう言うと、栞が顔を上げた。
「澪が言いそう」
「わかるの?」
「断片だけ。でも、たぶん」
花音が小さく頷く。
「うん。水崎さん、そういう子だった。みんなが『まあいいじゃん』ってするときに、『でも』って言う子」
でも。
その一語だけで、空気が止まることがある。
僕は想像する。
文化祭の準備で疲れている教室。
みんな早く終わらせたい。
紹介文なんて適当でいい。写真も何枚かあればいい。
その中で、澪が「でも」と言う。
ちゃんと残した方がいい。
誰が何をしたか、わかるようにした方がいい。
適当にまとめるのは違う。
それは正しい。
たぶん、正しい。
でも、きっと面倒くさい。
今それ言う?
空気読んでよ。
もう疲れてるんだから。
そういう空気が、教室に生まれたのかもしれない。
「笑ったのは」
僕は口を開いた。
「誰だったんだろう」
花音が視線を落とす。
美晴も黙る。
栞だけが僕を見ていた。
「誰か一人じゃないと思う」
栞が言った。
「たぶんね」
「場が笑った」
花音が小さく言う。
「昨日も言ったけど、そういう感じだった。誰が最初かは覚えてない。でも、何人かが笑って、それで空気が決まった」
「空気が決まった」
美晴が繰り返す。
「嫌な言い方」
「でも、そうだったと思う」
花音は苦しそうに笑った。
「一回そうなると、戻しにくいんだよ。『これは笑うところ』って決まったら、真面目に受け取る方が変になる」
その言葉に、誰も反論できなかった。
僕は、たぶんその空気を知っている。
誰かの真面目な言葉が、場に合わなかった瞬間。
それを真正面から受け止めると重くなるから、誰かが笑う。
その笑いに救われたような顔をして、みんなが乗る。
真面目だった人だけが、置き去りになる。
そんな場面は、学校にいくらでもある。
たぶん、それが一番怖い。
「私」
美晴がぽつりと言った。
「言ったかもしれない」
僕は美晴を見る。
「何を?」
「『そこまでしなくてもよくない?』って」
声が震えていた。
「覚えてるの?」
「まだ、はっきりじゃない。でも……言いそう。っていうだけじゃなくて、言った気がする」
美晴は両手を握りしめていた。
「紹介文、締切が近くて。みんな疲れてて。水崎さんが、もっとちゃんと確認しようって言って。それで、私……言ったのかも」
そこまでしなくてもよくない?
それは、ひどい言葉ではない。
むしろ普通だ。
だからこそ、重い。
「美晴だけじゃない」
花音が言う。
「たぶん、私も乗った。『真面目すぎ』とか、そういう感じにした」
「私も」
栞が静かに言った。
三人が栞を見る。
栞は目を伏せずに続けた。
「私は、その場にいたかは曖昧。でも、澪がそういう子だって知ってた。知ってたのに、近づかなかった。図書室では少し話したことがあったのに」
図書室。
澪も来ていた場所。
栞にもまた、彼女との距離があった。
みんな、少しずつ近くにいた。
でも、誰も彼女の隣には立たなかった。
「僕は」
言いかけて、声が止まる。
僕は何をしたのか。
何もしなかったのか。
笑ったのか。
流したのか。
聞いていたのか。
まだわからない。
でも、写真は僕が撮った。
だから僕は、画面の外にいた。
その場を見ていた。
「僕は、撮ってたんだよね」
自分の声が、少し遠く聞こえる。
「たぶん」
花音が答える。
「その場を撮ってた」
「なら、見てたはずだ」
誰も否定しなかった。
僕はスマホの画面を見る。
端に写る澪。
画面の外にいる僕。
撮るということは、見るということだと思っていた。
でも、違うのかもしれない。
カメラを向けていても、見ていないことはある。
そこにいる誰かではなく、記録として必要な場面だけを撮る。
空気は写らない。
笑い声は写らない。
澪が笑っていなかったことも、たぶん写真だけではわからない。
僕はその場を撮りながら、何を見落としたのだろう。
「湊」
美晴が小さく呼ぶ。
「顔、真っ青」
「大丈夫」
「それ、信用してない」
「じゃあ、大丈夫じゃない」
「うん。そっちの方がまだいい」
こんな場面なのに、美晴らしい言い方で、少しだけ息ができた。
花音も、かすかに笑った。
「ねえ」
栞がスマホの画面を見ながら言った。
「この写真、他にも連続で撮ってない?」
「連続?」
「同じ時間帯の写真。何枚かあるかも」
僕は写真一覧に戻った。
同じ日の写真が並んでいる。
一枚目。
教室の全体。
二枚目。
プリントの束。
三枚目。
花音が何か言っている横顔。
四枚目。
少しぶれた黒板。
五枚目。
そこで指が止まった。
五枚目には、僕の机の上が写っていた。
紙の束。
ペン。
誰かの手。
そして、端に小さく、文字が写っている。
紹介文の下書きらしい紙。
そこには、細い字でこう書かれていた。
「ちゃんと残さないと、なかったことになるから」
誰の字かはわからない。
でも、僕たちは全員、その文字を見た瞬間に黙った。
花音が息を呑む。
美晴が口元を押さえる。
栞は、ほとんど動かなかった。
僕はその文字を見つめる。
ちゃんと残さないと、なかったことになるから。
それはたぶん、水崎澪の言葉だった。
そう思った瞬間、胸の奥に、何かが落ちた。
彼女は知っていたのだろうか。
自分の言葉が流されることを。
自分の存在が薄くなっていくことを。
ちゃんと残さなければ、なかったことにされてしまうことを。
そして僕は、その文字を写真に撮っていた。
撮っていたのに、忘れていた。
「……これ」
美晴が震える声で言う。
「水崎さんの字?」
誰も答えられない。
でも、誰も違うとは言わなかった。
空き教室の中で、スマホの画面だけが明るかった。
そこに写っているのは、顔ではない。
声でもない。
でも確かに、彼女の言葉だった。
ちゃんと残さないと、なかったことになるから。
その言葉は、僕たち全員に向けられている気がした。
いや、違う。
きっと去年のそのときも、向けられていたのだ。
なのに、僕たちは笑った。
流した。
止めなかった。
たぶん、何もしなかった。
僕は、スマホを持つ手に力を込めた。
ようやく一つ、思い出した。
映像ではない。
顔でもない。
でも、言葉だけは戻ってきた。
ちゃんと残さないと、なかったことになるから。
僕はその言葉を、聞いたことがある。
そしてたぶん、そのとき何も言わなかった。




