第27話 写っていないもの
家に帰ってからも、スマホの中の写真が気になっていた。
今日撮った、文化祭準備中の教室。
黒板の前に花音がいて、装飾の紙を持つ美晴がいて、棚の近くでファイルを見ている栞がいる。何気ない一枚だった。誰かがこちらを向いてポーズを取っているわけでもない。笑顔を作った写真でもない。ただ、放課後の教室がそこに写っている。
それなのに、何度も見返してしまう。
理由はわかっていた。
今年の写真を撮ったことで、去年の写真を避けられなくなったからだ。
僕はベッドに座り、スマホの写真アプリを開いた。
指先が少しだけ重い。
アルバム一覧を下へスクロールする。
今年の写真。
去年の写真。
文化祭。
学校。
何気なく保存したスクリーンショット。
誰かから送られてきた画像。
去年の秋あたりまで遡るのは、思ったより時間がかかった。
写真というものは、撮った瞬間は大事に思えても、あとになるとほとんど見返さない。昼食の写真、黒板の連絡事項、友達がふざけて撮った動画、どこかの空、電車の時刻表。どうでもいいものがたくさん残っている。
でも、どうでもいいものが残っているのに。
肝心なものが残っていなかったら、どうすればいいのだろう。
去年の文化祭の日付のあたりで、指が止まった。
写真がいくつかあった。
教室の装飾。
黒板の文字。
準備中の机。
花音がふざけてピースしている写真。
美晴が何かを持ってこちらを睨んでいる写真。
クラスメイトたちの後ろ姿。
あった。
僕は、ちゃんと写真を撮っていた。
広報係みたいに。
記録係として。
胸の奥が少しだけ冷える。
画面を一枚ずつ送る。
そこに、水崎澪の姿を探す。
でも、すぐには見つからない。
教室には人がいる。
机の向こうに女子がいる。
黒板の前に誰かの手が写っている。
でも、これが澪だとは言えない。
顔が見えない。
写っていない。
あるいは、写っているのに、僕がわかっていない。
そのどれなのかがわからないことが、一番怖かった。
しばらく見ていると、メッセージが届いた。
美晴からだった。
『見てる?』
短い一文。
僕は少し迷ってから返す。
『見てる』
すぐ既読がついた。
『大丈夫?』
大丈夫ではなかった。
でも、大丈夫じゃないと返すのも違う気がした。
『わからない』
そう送ると、少し間が空いた。
『私も去年の写真見てる』
その返事を見た瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
美晴も見ている。
同じように、去年の写真を。
『何かあった?』
僕が送る。
今度はすぐには返ってこなかった。
数分後、短い返事が来た。
『水崎さんかもしれない子、いた』
息が止まった。
僕は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
次に画像が送られてくる。
文化祭準備中の教室の写真だった。
美晴のスマホで撮ったものらしい。
画質はそこまでよくない。少し手ぶれしている。
手前に紙の束を持った美晴の友達がいて、奥の方に何人かの生徒が写っている。
その隅に、女子が一人いた。
肩くらいの髪。
少しうつむいた顔。
手には何かのプリント。
顔ははっきりしない。
でも、写真の端で見たあの感じに似ていた。
水崎澪。
僕はその名前を口にしそうになって、やめた。
代わりに、メッセージを打つ。
『たぶん、そうかも』
送信してから、心臓の音が少しうるさくなる。
美晴から返事が来る。
『この写真、私が撮ったみたい』
そのあと、また少し間が空く。
『でも、なんで撮ったか覚えてない』
僕はスマホを握りしめた。
美晴も同じなのだ。
写真は残っている。
でも、その瞬間の意味がない。
誰を撮ろうとしたのか、なぜ撮ったのか、何を見ていたのかが戻ってこない。
僕は自分の写真フォルダへ戻った。
同じような角度の写真を探す。
何枚か送ってもらった写真と比べながら、文化祭準備の写真を見返す。すると、一枚だけ引っかかるものがあった。
教室の端。
プリントの束。
窓際の机。
誰かの横顔。
はっきり写ってはいない。
でも、そこにいる。
僕の写真にも、水崎澪らしい人が写っていた。
ただし、画面の端だった。
中心ではない。
誰かを撮った写真の奥に、偶然入っているだけ。
僕はその一枚を見たまま、しばらく何もできなかった。
写真は残っている。
でも、僕は彼女を撮っていない。
写っているだけだ。
僕が見ようとしたから残ったのではない。
僕が別のものを撮った結果、たまたまそこに入っていただけ。
その事実が、ひどく苦しかった。
美晴に画像を送る。
『僕のにもいた』
すぐ返事が来る。
『見せて』
僕は送った。
しばらく既読のまま止まる。
そして、美晴から返ってきた。
『これ、水崎さんだと思う』
それだけ。
それだけなのに、部屋の空気が少し重くなる。
僕はベッドに座ったまま、画像を拡大した。
画面の端の彼女。
ぼやけている。
表情も読めない。
ただ、そこにいる。
水崎澪は、僕の写真の中にもいた。
なのに僕は、その存在を覚えていなかった。
スマホがまた震える。
今度は花音からだった。
『今いい?』
珍しいメッセージだった。
僕は少し迷ってから返す。
『いいよ』
すぐに通話がかかってきた。
出ると、花音の声が聞こえた。
「湊?」
「うん」
「ごめん、急に」
「大丈夫」
「今、美晴から聞いた。写真見つけたって」
美晴が花音に送ったのだろう。
少しだけ驚いたけれど、不思議ではなかった。
もう一人で抱える段階ではないのだと思う。
「花音も見る?」
「見た」
「そっか」
短い沈黙。
電話越しの沈黙は、教室よりも少し息苦しい。
「水崎さんだった」
花音が言った。
僕は画面の写真を見つめながら、返す。
「やっぱり?」
「うん。たぶん。でも、あれは水崎さんだと思う」
「花音は、顔わかるんだ」
「はっきりじゃないよ。でも、なんか……わかる」
その言い方は、僕たちと同じだった。
断定できない。
でも、違うとも言えない。
「湊の写真、見た」
「うん」
「あれ、たぶん文化祭の紹介文を作ってた日」
「覚えてるの?」
「少しだけ」
花音の声が小さくなる。
「水崎さん、何か言ってた」
「何を?」
「……そこまでは思い出せない」
「そっか」
「でも、湊は近くにいた」
僕は何も言えなかった。
画面の中で、澪は端にいる。
その近くに、僕の机らしいものが写っている。
僕自身は写っていない。撮る側だから。
でも、そこにいたのだ。
僕は。
「花音」
「うん」
「僕、そのとき何してた?」
聞いた瞬間、少し後悔した。
でも、もう取り消せない。
花音はしばらく黙っていた。
「たぶん、聞いてた」
「澪の話を?」
「うん」
「僕が?」
「うん」
「それで?」
電話の向こうで、花音が息を吸う音がした。
「そこで、誰かが笑った」
胸の奥が冷たくなる。
「誰かって?」
「わからない」
「花音?」
「……私も笑ったかもしれない」
その声は、ひどく小さかった。
僕はスマホを耳に当てたまま、黙った。
花音は続ける。
「湊が笑ったかどうかは、覚えてない。でも、場が笑ったのは覚えてる」
「場が笑った」
「うん。誰か一人じゃなくて。なんとなく、空気が笑う感じ」
その表現が、妙にわかった。
誰が笑ったのかわからない。
でも、教室が笑った。
そういうことはある。
誰かの一言に、数人が笑う。
それにつられて、他の人も笑う。
笑っていいのか迷った人も、場に合わせて笑う。
気づけば、それは「みんなが笑った」ことになる。
その中に、自分がいたかどうかだけが、わからない。
いや。
たぶん、いたのだ。
「水崎さんは?」
僕は聞いた。
「そのとき、澪はどうしてた?」
花音は答えなかった。
答えないことが、答えに近かった。
「花音」
「……笑ってなかった」
その声は、ほとんど消えそうだった。
「水崎さんだけ、笑ってなかった」
僕は目を閉じた。
頭の奥で、何かが動いた気がした。
まだ映像ではない。
でも、音だけがある。
教室の笑い声。
誰かの「いや、それは真面目すぎでしょ」という声。
紙の束。
夕方の窓。
そして、笑っていない誰かの気配。
水崎澪。
彼女はそのとき、笑っていなかった。
「湊、大丈夫?」
花音の声が聞こえる。
「大丈夫じゃないかも」
「ごめん」
「謝らないで」
「でも」
「花音だけじゃない」
言いながら、自分でもわかっていた。
その言葉は、花音を慰めているようで、自分にも向けている。
花音だけじゃない。
僕もいた。
美晴もいたかもしれない。
クラスもいた。
誰か一人ではなく、場が笑った。
それが一番怖い。
「明日、話そう」
花音が言った。
「うん」
「美晴と栞にも」
「うん」
「逃げないから」
その言葉は、前より少しだけ確かだった。
「僕も」
そう答えると、花音は短く息を吐いた。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
通話が切れる。
部屋に静けさが戻った。
スマホの画面には、まだ去年の写真が表示されている。
画面の端の水崎澪。
笑っているのかどうかもわからないほど小さく写った彼女。
でも今、僕の中には一つだけ戻ったものがある。
笑っていなかった。
教室が笑っている中で、彼女だけが笑っていなかった。
そして僕は、そこにいた。
写真は、写っているものだけを残す。
でも、写っていないものもある。
その場の空気。
笑い声。
誰が目を逸らしたか。
誰が黙ったか。
誰が、何もしなかったか。
去年の写真は、澪の姿を端に残していた。
でも、僕の顔は写っていない。
撮っていたからだ。
僕は、画面の外にいた。
画面の外で、何を見ていたのだろう。
何を、写さなかったのだろう。
その問いだけが、夜の部屋に残った。




