第26話 広報係は、去年の記録係に似ている
翌日の放課後、広報係の初めての打ち合わせがあった。
黒板の右端に、担任の雑な字で「係別打ち合わせ」と書かれている。教室の中は、いくつかの小さな島に分かれていた。企画係は黒板前、装飾係は窓際、会計係は教卓付近、広報係は教室の後ろ。
僕は、後ろの棚の近くに集まった数人の中にいた。
去年の役割分担表が入っていた段ボールが、すぐ横にある。
それだけで、少し落ち着かなかった。
「広報って具体的に何すんの?」
男子の一人が言う。
「ポスター作るとか?」
「あと当日の案内とか、写真撮るとかじゃない?」
「写真?」
その言葉に、指先が少しだけ止まった。
別におかしくない。
広報係が写真を撮るのは普通だ。
文化祭の様子を記録して、あとでクラスのページに載せたり、紹介文に使ったりする。去年の記録係と似ていても、何も不自然じゃない。
でも、似ている。
それだけで、胸の奥がざらつく。
「湊、写真得意?」
隣の女子が軽く聞いてきた。
「いや、普通」
「普通って便利な答えだよね」
「最近それ、いろんな人に言われる」
「じゃあほんとに便利なんじゃん」
彼女は笑った。
僕も少しだけ笑う。
広報係の打ち合わせは、思っていたより軽かった。
ポスター担当を誰にするか。
当日の写真は誰が撮るか。
紹介文は誰が書くか。
SNSに載せるなら先生の確認がいるのか。
学校の文化祭なのに、やることは案外細かい。
去年も、こういう話をしたのだろうか。
水崎澪と。
そう考えた瞬間、目の前の声が少し遠くなる。
「湊?」
「あ、ごめん。何?」
「写真担当、できる?」
男子がこちらを見ていた。
「写真担当」
「うん。スマホで撮るだけだし、湊なら変にふざけなさそう」
「それ、褒めてる?」
「半分」
「半分多いな、このクラス」
そう言うと、何人かが笑った。
会話は普通に流れる。
流れてしまう。
僕は少し迷ってから頷いた。
「じゃあ、写真でいいよ」
「助かる」
「あとで紹介文にも使うから、ちゃんと撮ってね」
「ちゃんと、ね」
その言葉が少し引っかかった。
ちゃんと撮る。
ちゃんと残す。
誰が何をしていたか、あとから見てもわかるように。
花音が言っていた。
水崎さんは、写真を適当に撮るんじゃなくて、誰が何をしてたか残そうとしていた気がする、と。
僕は去年、何を撮ったのだろう。
あるいは、何を撮らなかったのだろう。
「水野くん?」
同じ係の女子に呼ばれて、僕は顔を上げた。
「ほんとに大丈夫?」
「ああ、うん。大丈夫」
「無理なら別でもいいよ」
「大丈夫。撮るよ」
言ってから、その言葉が自分に向いている気がした。
撮る。
見る。
残す。
今年の文化祭で、僕は写真担当になった。
去年の記録係に、少しだけ戻るみたいに。
黒板前では、花音が企画係を回していた。
「だから、入口で写真撮りたくなる感じにするなら、名前いるでしょ。企画名、ちゃんと可愛いのがいい」
「橘、こだわり強いな」
「こだわるところですー」
いつもの花音だった。
昨日、空き教室で自分の怖さを話した人と、同じ人。
花音は僕の視線に気づいたらしく、少しだけこちらを見た。
目が合う。
彼女は一瞬だけ小さく頷いた。
逃げない、という合図みたいに見えた。
僕も小さく頷き返した。
美晴は装飾係の方にいた。
色紙や布のサンプルを見ながら、誰かに「そこは統一感あった方がいい」と真面目に言っている。美晴らしい。
その横顔を見ていると、昨日の言葉を思い出す。
――私、それをたぶん、迷惑だと思ったことがある。
今の美晴は、誰かの意見をきちんと聞いている。
真面目で、ちゃんとしていて、場を整えようとしている。
でも、その「ちゃんと」が、去年は誰かを追い詰めたのかもしれない。
まだ、そう決まったわけではない。
それでも、考えてしまう。
栞は広報係ではなかった。
彼女は資料整理係に近い役割を選んでいて、教室の端で去年のファイルをいくつか見ていた。文化祭準備というより、図書室で本を扱うときと同じ顔だった。
その姿を見て、ふと思う。
今年の僕たちは、去年をなぞっているのかもしれない。
花音は空気を回す。
美晴は場を整える。
栞は記録や資料を見る。
僕は写真を撮る。
そして、そこに水崎澪はいない。
いないのに、彼女がいた場所だけが、今年の準備の中に浮かび上がってくる。
「湊」
打ち合わせが一段落したころ、花音が黒板前から歩いてきた。
「写真担当になったんだって?」
「情報早いね」
「企画係は全体を把握するのが仕事なので」
「それっぽいこと言う」
「それっぽくない。ちゃんと仕事」
花音はそう言って笑ったあと、少しだけ声を落とした。
「大丈夫?」
「何が」
「写真」
短い言葉だった。
でも、意味はわかった。
去年の記録係。
澪と一緒だった係。
思い出せない作業。
その近くへ、自分から戻っていくことになる。
「わからない」
僕は正直に答えた。
「でも、やる」
「そっか」
花音はそれだけ言った。
以前なら、ここで「顔死なないようにね」とでも軽口を叩いただろう。
でも今日は言わなかった。
その代わり、少しだけ不器用に笑う。
「撮るなら、私のこと可愛く撮ってね」
「結局それは言うんだ」
「大事でしょ」
「はいはい」
「はいは一回」
「美晴みたいなこと言うな」
花音はそこで初めて、少しだけいつもの調子で笑った。
その笑いが、少しだけ救いだった。
重い話をしたあとでも、人はくだらないことを言う。
それは逃げかもしれない。
でも、呼吸でもある。
放課後の打ち合わせが終わるころ、教室には夕方の光が深く入っていた。
黒板の文字は増え、机の上にはプリントが散らばり、文化祭の形が少しだけ見え始めている。
去年も、こんなふうに少しずつ形になっていったのだろう。
僕はスマホを取り出して、何となく教室の写真を撮った。
シャッター音。
画面の中に、黒板前で話す花音、装飾の紙を持つ美晴、ファイルを見る栞が写る。
誰もこちらを意識していない、自然な一枚だった。
写真を確認した瞬間、胸の奥が小さく震えた。
こういう写真を、去年も撮ったのかもしれない。
その中に、澪がいたのかもしれない。
「湊?」
美晴が近づいてくる。
「今撮った?」
「うん。広報係だから」
「ちゃんと仕事してる」
「珍しい?」
「ちょっと」
「失礼」
美晴は画面を覗き込んだ。
「……私、変な顔してない?」
「してないよ」
「ほんと?」
「真面目な顔してる」
「それはいつも」
「自分で言うんだ」
美晴が少し笑った。
その笑顔を見ながら、僕はふと思った。
今年の写真には、彼女たちがちゃんと残る。
花音も、美晴も、栞も。
でも去年の写真には、澪がどんなふうに残っていたのだろう。
残っているなら、なぜ僕は忘れているのだろう。
残っていないなら、誰が撮らなかったのだろう。
「湊」
美晴が画面から顔を上げる。
「何か思い出した?」
「いや」
「そっか」
彼女は少しだけ残念そうにした。
でもすぐに、無理に聞かない顔になった。
「焦らなくていいよ」
「美晴に言われると、ちょっと意外」
「私だって成長します」
「何様?」
「幼馴染様」
久しぶりに、ちゃんと笑えた。
そこへ花音が戻ってくる。
「何、二人でいい感じ?」
「違う」
美晴が即答する。
「早い。否定早すぎ」
「花音がそういうこと言うからでしょ」
「いやあ、最近重い話多かったから、ちょっとラブコメっぽさ戻そうと思って」
言ったあと、花音は自分で少しだけしまったという顔をした。
ラブコメっぽさ。
その言葉は、この物語の外側に触れるようで、でも教室の中ではただの軽口として成立していた。
「そういうの、花音らしいね」
美晴が言った。
責めてはいなかった。
花音も少しだけ安心したように笑った。
「でしょ。私、こういうの担当だから」
「無理しなくていいけど」
僕が言うと、花音は少しだけ目を丸くした。
「湊に言われると、変な感じ」
「何が」
「前なら、流される側だったのに」
「今もわりと流されてるよ」
「でも、止まるようになった」
花音はそう言った。
止まるようになった。
たぶん、それは褒め言葉ではない。
でも悪口でもない。
水崎澪は、空気を止める子だった。
花音はそう言った。
僕は今、その止まる側へ少しずつ近づいているのかもしれない。
それがいいことなのかどうかは、まだわからない。
帰り際、栞がファイルを棚へ戻していた。
「何かあった?」
僕が聞くと、栞は振り向かずに答えた。
「去年の資料、少しだけ見た」
「澪の名前、あった?」
「いくつか」
その答えに、胸が少しだけ重くなる。
「見たい?」
栞がこちらを見る。
僕はすぐには答えなかった。
見たい。
でも怖い。
その二つはもう、いつもの組み合わせになっていた。
「今日は、やめとく」
そう言うと、栞は頷いた。
「うん。それでいいと思う」
「逃げてる?」
「今日は、休んでる」
その言い方が少しだけ優しかった。
逃げるのと休むのは違う。
そう言ってもらえた気がした。
僕は鞄を持ち、教室を出る。
廊下には、まだ文化祭準備のざわめきが残っている。
遠くで笑い声がして、誰かが段ボールを運んでいる。
今年の文化祭は、確実に近づいている。
僕はスマホの中の写真をもう一度開いた。
今日撮った一枚。
花音が黒板の前にいる。
美晴が紙を持っている。
栞がファイルを見ている。
教室は明るい。
誰も欠けていないように見える。
でも、画面の外にいる僕だけは知っている。
写真は、写っているものだけを残す。
写さなかったものは、残らない。
去年、僕は何を写して、何を写さなかったのだろう。
その問いだけが、夕方の廊下にいつまでも残っていた。




