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放課後、君とだけ秘密の話をする  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第25話 美晴の記憶は、まだ名前を持たない

 教室に戻ると、黒板の前ではまだ文化祭の話が続いていた。


「だから、入口に写真スポット作るなら、装飾は絶対いるって」


「でも予算ある?」


「ないなら段ボールでどうにかする」


「貧乏くさくならない?」


「逆に手作り感ってことで」


 そんな、いつもなら何も考えずに混ざれそうな会話だった。


 花音は一度だけ僕たちを見たあと、すぐに企画係の輪へ戻った。戻り方は自然だった。さっきまで空き教室で、あんな話をしていた人とは思えないくらいに。


 でも、よく見ると違った。


 笑うタイミングが、ほんの少し遅い。

 誰かの言葉を拾う前に、一拍だけ間がある。

 それでも花音は笑って、場を回していた。


 たぶん、あの子はそうしないと立っていられないのだ。


「湊」


 美晴が小さく呼んだ。


「何」


「帰る?」


「うん。今日は」


「そっか」


 美晴は自分の鞄を持ち直した。けれどすぐには歩き出さない。黒板の前にいる花音を見て、それから一番後ろの席へ向かう栞を見て、最後に僕を見る。


「……なんか、変だね」


「何が」


「戻ってきたのに、戻ってない感じ」


 美晴らしくない言い方だった。


 でも、今の教室には合っていた。


 僕たちは空き教室から戻ってきた。ドアを開けて、廊下を歩いて、同じ教室に入った。物理的には戻っている。なのに、さっきまでと同じ場所にはいない。


 教室は変わっていない。

 変わったのは、こっちの目の方だ。


「わかる」


 僕が言うと、美晴は少し驚いたようにこちらを見た。


「湊が素直に同意するの、珍しい」


「そんなことないでしょ」


「あるよ。だいたい、まず誤魔化す」


「最近、評判悪いな」


「前からだよ」


 そう言ってから、美晴は少しだけ笑った。


 軽い笑いだった。

 でも、その笑いには無理がないように見えた。


 僕たちは教室を出た。


 廊下は夕方の匂いがしていた。窓の外は薄い橙色で、グラウンドからは部活の声が届いている。空き教室で聞いたのと同じ音なのに、廊下で聞くと少しだけ現実味が増した。


 昇降口へ向かう途中、美晴がぽつりと言った。


「私、何か覚えてるのかな」


 その声は、本当に小さかった。


「花音が言ってたこと?」


「うん」


 美晴は前を向いたまま歩いている。


「私もたぶん何か覚えてるって。自分ではわかんないけど」


「……心当たりあるの?」


「あるような、ないような」


「それが一番困るやつだね」


「そう」


 美晴は少しだけ眉を寄せた。


「湊ってさ、覚えてないのに罪悪感あるんでしょ」


 突然そう言われて、返事が遅れた。


「……ある」


「私も、今ちょっとそれに近い」


 足音だけが廊下に響く。


 美晴は言葉を探すように、少し間を置いた。


「何かした記憶はないの。でも、何か見なかった気がする」


 その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。


 何か見なかった気がする。


 それは僕にも覚えがある。

 まだ映像にはなっていない。

 でも感覚だけがある。

 目の前にあったはずのものを、見なかったことにしたような感覚。


「具体的には?」


 僕が聞くと、美晴は首を横に振った。


「ない。ないんだけど……花音が言ってたでしょ。水崎さんは、空気を止める子だったって」


「うん」


「それ聞いたとき、嫌な感じがした」


「嫌な感じ?」


「私、それをたぶん、迷惑だと思ったことがある」


 美晴の声が、少しだけ震えた。


 僕は何も言えなかった。


 美晴は真面目だ。

 ちゃんとしている。

 提出物を忘れないし、先生の連絡も聞いているし、僕のネクタイが曲がっていれば直す。


 だからこそ、きっと“ちゃんとしない空気”が嫌いだったのだろう。

 いや、違う。

 澪はちゃんとしようとしていた子だった。

 花音はそう言っていた。


 たぶん美晴が嫌だったのは、澪が空気を乱すことではなく、みんなが曖昧にしているものを曖昧にしてくれなかったことだ。


「私さ」


 美晴は続けた。


「正しいこと言う人、苦手なときある」


 その告白は、とても小さかった。


「正しいのはわかるの。でも、今それ言う? って思っちゃうときがある。みんな疲れてるのに、とか。今は流した方がいいのに、とか」


「それは……普通じゃない?」


 僕がそう言うと、美晴は苦笑した。


「湊、慰めるの下手」


「ごめん」


「でも、普通なのかもね。普通だから、嫌なんだと思う」


 普通だから嫌。


 その意味が、少しだけわかった。


 誰か一人が特別に悪かったのなら、もっと簡単だった。

 悪い人を責めればいい。

 ひどいことをした人を見つければいい。


 でもたぶん、この話はそうじゃない。


 普通の感情。

 普通の疲れ。

 普通の面倒くささ。

 普通の「今はやめてほしい」。

 その積み重ねで、一人が少しずつ薄くなったのだとしたら。


 それは、誰にとっても逃げ場がない。


 昇降口で靴を履き替える。


 美晴はローファーのかかとを直しながら、ふと手を止めた。


「そういえば」


「うん?」


「去年、文化祭のあと、私……誰かに怒った気がする」


 僕は顔を上げた。


「誰に?」


「わからない」


「澪?」


「わからない」


 美晴は少し苛立ったように、靴箱の扉を閉めた。


「でも、怒ったっていうより、きつく言ったのかも。『今それ言うこと?』みたいな」


 今それ言うこと。


 廊下で聞いた女子たちの会話を思い出した。

 「今それ言わなくてよくない?」

 あの言葉は、たぶんこのクラスに染みついている。


 美晴は唇を噛んだ。


「嫌だな」


「何が」


「思い出す前から、自分が言いそうなのがわかる」


 それは、かなり正直な言葉だった。


 僕も同じだった。


 記憶がないのに、想像できる。

 自分がどんなふうに黙っていたか。

 どんなふうに誤魔化したか。

 どんなふうに、何もしなかったか。


 記憶より先に、自分の性格が証言してしまう。


 外へ出ると、風が少し冷たかった。


 校門へ向かう道で、美晴は少しだけ歩幅を落とした。僕もそれに合わせる。そういえば最近、僕たちは以前よりゆっくり歩くようになった気がする。


 前は、こんなふうに会話の重さを気にしながら歩くことはなかった。


「湊」


「何」


「私、もし思い出したら言う」


「うん」


「言いたくなくても言う」


 その声は震えていたけれど、はっきりしていた。


「だから湊も、思い出したら言って」


「美晴に?」


「うん」


「最初に?」


「できれば」


 以前なら、ここで少しからかったかもしれない。

 「幼馴染だから?」と聞いて、美晴が「そうだけど何」と怒る流れにできたかもしれない。


 でも今は、そうしなかった。


「わかった」


 それだけ答えると、美晴は小さく頷いた。


 校門を出る。


 夕方の道には、帰宅する生徒がちらほら歩いていた。前を行く女子二人が、文化祭の衣装の話をしている。明るい声だった。どこにでもある放課後の帰り道。


 美晴がその声を聞きながら、少しだけ笑った。


「文化祭、ほんとは楽しみだったんだけどな」


「今も楽しみにしていいんじゃない?」


「いいのかな」


「いいと思う」


「湊が言うと説得力ない」


「なんで」


「湊も楽しめる顔してないから」


「それは……そうかも」


 美晴は立ち止まらずに、少しだけ空を見た。


「でも、そうだね。楽しみにしちゃいけないわけじゃないよね」


「たぶん」


「水崎さんのこと考えながら、今年の文化祭楽しみにするの、変かな」


 僕は少し考えた。


「変かもしれないけど、変じゃないかもしれない」


「何その答え」


「今の僕にはこれが限界」


 美晴は少しだけ笑った。


「じゃあ、それでいい」


 その笑いは、今日初めて少しだけ昔の美晴に近かった。


 でも僕たちはもう、昔のままではなかった。


 水崎澪の名前を知っている。

 役割分担表を見た。

 花音が流していたことを聞いた。

 美晴もまた、自分の中に名前のない記憶を見つけかけている。


 それでも、明日は来る。

 文化祭の準備は進む。

 花音は笑う。

 栞は静かに本を開く。

 担任はきっと、また正しい言葉を言う。


 そして僕たちは、その中で少しずつ思い出していくのだろう。


 思い出したくないものも含めて。


 分かれ道に着いた。


 美晴の家は右、僕の家は左。


「じゃあ」


 美晴が言う。


「うん。また明日」


 いつもの挨拶。


 でも美晴は一歩進んだあと、振り返った。


「湊」


「何」


「逃げそうになったら、言って」


「どういうこと?」


「私が止めるから」


 その言い方が、あまりにも美晴らしくて、少しだけ笑ってしまった。


「じゃあ、美晴も」


「私も?」


「逃げそうになったら言って」


 美晴は一瞬きょとんとして、それから少し困ったように笑った。


「私、逃げるの下手そうだけどね」


「だから心配」


「失礼」


 今度は、ちゃんと笑えた。


 ほんの少しだけ。


 美晴も笑って、それから手を振って歩いていった。


 一人になった帰り道で、僕はスマホを取り出した。


 昨日撮った役割分担表の写真を開く。


 水崎澪。

 水野湊。


 同じ係だった二つの名前。


 その文字を見ても、まだ何も鮮明には戻らない。

 でも、今日は少しだけ違った。


 名前の横に、美晴の言葉が重なる。


 ――私、それをたぶん、迷惑だと思ったことがある。

 ――今それ言うこと? みたいな。


 それは、澪の輪郭ではなく、美晴の輪郭だった。


 僕たちは、澪を思い出そうとしている。

 でも同時に、自分たち自身を思い出し始めている。


 それがたぶん、一番つらい。


 写真を閉じる前に、僕はもう一度だけその名前を見た。


 水崎澪。


 まだ顔は浮かばない。

 声も浮かばない。

 けれど、彼女がいた場所だけは、少しずつ暗闇の中から輪郭を取り戻し始めている。


 そしてそのすぐ近くに、僕たちがいた。

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