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放課後、君とだけ秘密の話をする  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第24話 何もしなかった人

 花音の「ごめん」は、誰にも届かなかった。


 届かなかったというより、誰も受け取れなかったのだと思う。


 空き教室の中には、夕方の光だけが残っていた。机は端に寄せられ、床には使われていない教室特有の薄い埃っぽさがある。窓の外では部活の声がしている。遠くで誰かが笑っている。校舎の中の別の場所では、文化祭の話が続いているのだろう。


 それなのに、この教室だけは時間が止まったみたいだった。


 花音は窓際の机に腰を預けたまま、うつむいていた。いつもなら、こういう沈黙を一番先に壊すのは彼女だ。冗談でも、軽口でも、少し大げさな身振りでも、何でもいい。空気が固まる前に、柔らかくするのが彼女の役割だった。


 でも今、その花音が黙っている。


 美晴は両手をぎゅっと握っていた。何か言いたそうなのに、言葉を選びすぎて何も出てこない顔だった。栞は扉の近くに立ったまま、窓から入る光を横顔に受けている。静かだった。けれどその静けさは、何も感じていない人のものではなかった。


 僕だけが、どこに立っていればいいのかわからなかった。


 花音の言葉が、まだ耳に残っている。


 ――湊が何をしたかは、私は知らない。

 ――でも、何もしなかったことは、たぶんある。


 何もしなかった。


 その言葉は、ひどく僕に似合っていた。


 誰かを殴ったわけじゃない。

 悪口を言った記憶もない。

 明確に無視した場面も、まだ思い出せない。


 でも、何もしなかったことなら、いくらでも想像できてしまう。


 困った顔をしている誰かを見て、声をかけなかった。

 空気が止まりそうになったとき、笑って流した。

 何かがおかしいと思っても、大したことじゃないと決めた。

 誰かが助けを求めていたとしても、それを「面倒なこと」に分類した。


 そのどれも、僕がやりそうだった。


「……ごめん」


 今度は、僕が言っていた。


 自分でも驚くくらい、弱い声だった。


 花音が顔を上げる。


「湊が謝ることじゃないでしょ」


「わからない」


「わからないなら、謝らなくていいよ」


「でも」


 言葉が詰まる。


 でも、何なのか。

 何を言えばいいのか。


 まだ何も思い出していないのに、謝るのはずるい気がした。

 何も知らないまま謝れば、自分が少しだけ楽になれる気がした。


 それも嫌だった。


 栞が静かに言った。


「謝るのは、思い出してからでいいんじゃない」


 その言葉は冷たくも聞こえたし、優しくも聞こえた。


 美晴が栞を見る。


「でも、思い出せなかったら?」


 栞はすぐには答えなかった。


 少しだけ間を置いてから、言う。


「そのときは、思い出せないことを持っていくしかないと思う」


「持っていく?」


「うん。なかったことにしないで」


 空き教室に、また沈黙が落ちる。


 なかったことにしない。


 水崎澪の存在も。

 自分が覚えていないことも。

 花音が流していたことも。

 美晴が気づけなかったことも。

 栞が断片だけを抱えて黙っていたことも。


 全部を、なかったことにしない。


 簡単に言うけれど、それはたぶん、とても難しい。


 花音が小さく笑った。


 いつもの笑いとは全然違う。喉の奥で少しだけ引っかかるみたいな、頼りない笑いだった。


「なんか、栞って容赦ないよね」


「そうかな」


「うん。静かなのに、言うこと逃げ場ない」


「逃げ場を作るのは、花音の方が上手いと思う」


 栞の声は淡々としていた。


 花音は一瞬だけ目を伏せて、それから困ったように肩をすくめた。


「それ、今は全然褒め言葉に聞こえない」


「褒めてないから」


「だよね」


 二人の会話は、少しだけ普通に近かった。


 けれど、そこに軽さは戻らなかった。


 美晴が一歩、花音に近づいた。


「花音」


「うん」


「水崎さんのこと、他にも覚えてる?」


 花音は少しだけ迷った。


 その迷い方は、何を話すかを選んでいるというより、自分の中のどれが記憶で、どれが後からつけた意味なのかを確かめているように見えた。


「……声は、あんまり覚えてない」


 花音は言った。


「顔も、はっきりは。でも、雰囲気は覚えてる」


「雰囲気?」


「うん。真面目っていうか、ちゃんとしようとする子だった」


 ちゃんとしようとする子。


 その言い方が、やけに胸に残った。


「文化祭のときも、たぶんそう。記録係って、別に目立つ係じゃないじゃん。写真撮って、後でまとめて、誰かに見せるために残すだけで」


 花音は言葉を探しながら続ける。


「でも水崎さんは、そういうのちゃんとやろうとしてた気がする。写真も、適当に撮るんじゃなくて、誰が何してたか残そうとしてた」


 写真。


 記録。


 残そうとしていた。


 その言葉が、どこか深い場所を叩いた気がした。


 でも、まだ何も出てこない。


「湊もそこにいたの?」


 美晴が聞く。


 花音は僕を見る。


「いたと思う」


「思う?」


「一緒に作業してるのは見た。でも……」


「でも?」


「湊は、たぶんいつも通りだった」


 その言い方が、妙に怖かった。


「いつも通りって」


 僕が聞くと、花音は少し言いにくそうにした。


「誰にでもする顔」


 息が止まりそうになった。


 誰にでもする顔。


 花音は第2話の頃から、僕に似たようなことを言っていた。誰にでもやさしい顔をする、と。


「あのときも、湊は水崎さんに普通に話してたと思う。優しくもなく、冷たくもなく、いつもみたいに。だから……水崎さんは、少し安心してたのかもしれない」


 安心。


 その言葉は、今までで一番苦しかった。


 僕が覚えていない場所で、誰かが僕に少し安心していたかもしれない。

 なのに僕は、その人を忘れている。


「やめて」


 思わず言っていた。


 花音がはっとする。


「ごめん」


「違う。花音が悪いんじゃない」


 僕は額を押さえた。


「ごめん。違うんだ。ただ……」


 続きが出なかった。


 美晴がそっと僕の袖を引いた。


「湊、座る?」


「大丈夫」


「大丈夫じゃない顔してる」


「……うん」


 僕は近くの机に手をつき、そのまま椅子に腰を下ろした。


 膝の上で、自分の手を見る。何も持っていない手だった。去年、この手で写真を撮ったのだろうか。澪と一緒に、文化祭の記録を残そうとしていたのだろうか。スマホを持って、プリントを持って、何かを書いて。


 なのに今の僕は、そのことを何ひとつ思い出せない。


 栞が言った。


「無理に思い出そうとすると、違うものまで混ざるよ」


「じゃあどうすればいい」


「今は、聞くしかないと思う」


「誰に」


「覚えている人に」


 花音が小さく息を吸う。


「私、全部は覚えてないよ」


「それでも、今は花音が覚えてることが一番近い」


 栞の声は静かだった。


 花音は少しだけ唇を噛んだ。


 いつもの明るい子には似合わない仕草だった。


「……たぶん、水崎さんが来なくなる少し前」


 花音は言った。


「文化祭の記録、まとめる作業があった」


 僕は顔を上げる。


「まとめる作業?」


「うん。撮った写真選んだり、紹介文つけたり。担任に出すやつだったのかな。詳しくは忘れたけど」


「僕もいた?」


「いたと思う」


「澪も?」


「いた」


 短い答え。


 その短さが、かえって生々しかった。


「そのとき、何かあった?」


 美晴が聞いた。


 花音は黙った。


 今度の沈黙は、明らかに重かった。


 僕はその沈黙を見て、知った。


 あったのだ。


 何かが。


「花音」


 僕が呼ぶと、彼女は目を伏せたまま言った。


「ごめん。そこ、まだうまく言えない」


「言えない?」


「うん」


「覚えてないんじゃなくて?」


「……覚えてる部分があるから、言えない」


 その声は震えていた。


 美晴が息を呑む。


 栞は何も言わない。


 僕は、しばらく花音を見ていた。


 彼女はもう逃げていなかった。

 少なくとも、この教室からは逃げていない。

 でも、言葉の前で立ち止まっていた。


 たぶん、僕が記録を見る前に立ち止まっていたのと同じように。


「じゃあ、今日はそこまででいい」


 僕は言った。


 花音が驚いたようにこちらを見る。


「いいの?」


「無理に言われても、たぶんこっちも受け取れない」


 それは本当だった。


 今、花音が何かを一気に話したとして、僕はそれをちゃんと受け止められる自信がなかった。自分の中にまだ記憶が戻っていない状態で、人の記憶だけを聞いても、たぶんどこかで防御してしまう。


「でも、逃げないで」


 僕は続けた。


「後で、って言って逃げられたら、たぶん僕も逃げる」


 花音は目を見開いた。


 それから、小さく笑った。


「湊って、そういうこと言うようになったんだ」


「自分でもびっくりしてる」


「前なら、絶対言わなかったよね」


「うん」


「なんか、嫌な成長だね」


「ほんとに」


 そのやりとりで、ほんの少しだけ空気が緩んだ。


 美晴が小さく笑う。

 栞も目元だけを少し緩めた。


 でも、その緩みは逃げではなかった。

 たぶん、少しだけ息をするためのものだった。


 花音は机から体を離し、ゆっくりと言った。


「逃げない。今日はもう言えないけど、逃げない」


「うん」


「その代わり、湊も逃げないで」


「うん」


「美晴も」


「私も?」


 美晴が少し驚く。


 花音は頷いた。


「美晴も、たぶん何か覚えてる。自分で気づいてないだけで」


 美晴の表情が固まった。


「……私が?」


「うん。たぶん」


「何を」


「それは私にもわかんない。でも、昨日から美晴の顔、変だから」


「それ、湊に言ってたやつじゃん」


「うん。今度は美晴」


 花音の言葉に、美晴は口を閉じた。


 彼女は否定しなかった。


 できなかったのかもしれない。


 空き教室の中で、四人がそれぞれ黙る。


 誰も完全には知らない。

 でも誰も、もう完全には知らないふりもできない。


 それが今の僕たちだった。


 外では、まだ誰かが笑っている。


 教室では文化祭の準備が進んでいる。

 今年の企画は少しずつ形になり、黒板の文字は消されたり書き足されたりしながら前へ進んでいく。

 学校は止まらない。


 でもこの空き教室の中だけは、去年の秋に向かって少しずつ逆戻りしていた。


 水崎澪。

 記録係。

 写真。

 僕に少し話しやすそうだった子。

 空気を止める子。

 そして、僕が覚えていない子。


 花音が扉の方へ歩き出す。


「戻ろうか」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 でも、やがて美晴が頷いた。


「うん」


 栞も静かに扉へ向かう。


 僕は最後に立ち上がった。


 空き教室を出る前に、窓の外を見た。夕方の校庭に、部活の生徒たちが走っている。何も知らないように。何も止まっていないように。


 たぶん、世界はずっとそうなのだ。


 誰か一人の名前が消えかけても、他の場所では笑い声がする。

 それを責めることはできない。

 でも、それに紛れて忘れていい理由にもならない。


 廊下へ出ると、花音が少しだけ振り返った。


「ねえ、湊」


「何」


「水崎さんのこと、ちゃんと思い出したい?」


 その問いは、さっき栞が言った言葉と少し似ていた。


 知りたいのか。

 思い出したいのか。


 僕はしばらく考えた。


 そして答えた。


「思い出すのは、怖い」


「うん」


「でも、思い出せないままなのは、もっと嫌だ」


 花音は小さく頷いた。


「そっか」


 それ以上は何も言わなかった。


 でも、その「そっか」は、軽く流すためのものではなかった。


 教室へ戻ると、黒板の前ではまだ数人が文化祭の話をしていた。


 いつもの教室。

 いつもの明るさ。

 いつもの放課後。


 でも僕たちは、さっきとは少し違う場所からそこへ戻ってきた。


 戻ってきたのに、もう完全には戻れない。


 それがたぶん、知ってしまうということなのだと思った。

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