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放課後、君とだけ秘密の話をする  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第38話 普通に戻そうとする声

 水崎澪の名前を出したあと、教室は少しだけ変わった。


 けれど、その変化は前向きなものばかりではなかった。


 たとえば、朝の挨拶は普通に交わされる。文化祭の準備も進む。花音は企画係として黒板の前に立つし、美晴は装飾係の色味に口を出す。栞は資料の束を静かに分類して、僕は写真を撮ってノートに記録する。


 そこだけ見れば、昨日と同じだ。


 でも、水崎澪の名前を聞いた三浦さんが「覚えてる」と言ったことで、何人かは明らかにこちらを気にするようになった。


 視線が増えた。


 責める視線ではない。

 でも、遠巻きに見る目だ。


 何か面倒なことが始まっている。

 けれど、完全には無視できない。


 そんな空気が、教室の端々に残っていた。


「湊」


 朝のホームルーム前、美晴が前の席から振り返った。


「今日、またノート持ってきた?」


「あるよ」


「見せて」


「今?」


「今」


 僕は鞄から紺色のノートを出した。


 美晴はそれを受け取ると、昨日の最後のページを開いた。


 そこには、僕が昨日書いた一文がある。


 ――水崎澪の名前は、まだ小さいけれど、教室の中で息をしている。


 美晴はそこをじっと見て、少しだけ眉を寄せた。


「これ、湊が書いたの?」


「うん」


「なんか……詩みたい」


「消す?」


「消さなくていい」


 美晴はすぐに首を振った。


「ちょっと恥ずかしいけど」


「そこは言わなくていい」


「でも、いいと思う」


 彼女はノートを閉じて、机に置いた。


「水崎さんの名前、息してる感じはする。昨日から」


「うん」


「でも、嫌がってる人もいると思う」


 その言葉に、僕は少しだけ息を止めた。


「やっぱり?」


「うん。たぶん」


 美晴は教室の中をちらっと見る。


「昨日、三浦さんと話したあと、何人かちょっと気にしてた。あれ何の話? みたいな顔してた」


「聞かれた?」


「私はまだ」


「そっか」


「でも、聞かれると思う」


 美晴の予感は、だいたい当たる。


 それが幼馴染としての経験なのか、彼女自身の観察力なのかはわからない。

 ただ、僕も同じことを感じていた。


 水崎澪の名前は、もう僕たち四人だけのものではなくなりかけている。


 それは必要なことだと思う。

 でも、広がれば広がるほど、別の力も働く。


 普通に戻そうとする力。


 昨日までの明るい教室へ、何もなかった教室へ、去年のことなんていちいち掘り返さない教室へ。


 みんながそれを望んでいるわけではない。

 でも、そういう方向へ戻る方が楽なのはたしかだった。


 昼休み、その予感は形になった。


 僕が窓際の席でノートに今日の作業予定を書いていると、男子の一人が近づいてきた。


 吉岡。

 去年も同じクラスだった男子だ。話したことはあるけれど、特別仲がいいわけではない。軽いノリで、体育祭や文化祭ではそこそこ目立つタイプ。悪い奴ではない。少なくとも、僕はそう思っている。


「水野」


「何?」


「最近さ、何してんの?」


 声は軽かった。


 でも、周りの何人かがさりげなく耳を向けたのがわかった。


「何って?」


「いや、なんか記録とか、去年の話とか。水崎さんのこと聞いて回ってるって聞いたけど」


 水崎さん。


 その名前が、吉岡の口から出た。


 教室の空気が、ほんの少しだけ止まる。


 花音が黒板前で動きを止めた。

 美晴が前の席から振り返る。

 栞は本から目を上げた。


 僕は吉岡を見た。


「聞いて回ってるつもりはないよ」


「でも聞いてるんだろ?」


「うん。聞くこともある」


 吉岡は少しだけ困ったように笑った。


「いや、別に悪いって言ってるわけじゃないけどさ」


 出た、と思った。


 悪いって言ってるわけじゃない。


 その言葉は、たぶん本当にそうなのだろう。

 吉岡は僕を責めたいわけではない。

 でも、何かを止めたい。


「今さらじゃね?」


 彼は言った。


 その一言に、教室の中の音が少し遠くなった。


 今さら。


 きっと誰かはそう思う。

 僕だって何度も思った。

 今さら名前を出して、今さら写真を見て、今さら覚えているか聞いて、何になるのか。


「今さらだと思う」


 僕が答えると、吉岡は少し驚いた顔をした。


「思うんだ」


「うん」


「じゃあ、なんで?」


 その問いは、まっすぐだった。


 茶化しているわけではない。

 でも、答えを間違えると笑いに流れそうな危うさがあった。


 僕は少し考えた。


 美晴が立ち上がりかけたのが見えた。

 花音も、口を開きかけている。

 でも、僕は小さく首を振った。


 自分で答えるべきだと思った。


「今さらでも、なかったことにしたままよりはいいと思ったから」


 教室が静かになった。


 完全な沈黙ではない。

 でも、近くにいた何人かは明らかに会話を止めた。


 吉岡は気まずそうに頭をかいた。


「いや、そんな大ごとにするつもりじゃ」


「うん」


「でもさ、水崎さんのことって、みんなそんなに覚えてないだろ。変に掘ると、逆にさ……」


「逆に?」


「空気悪くなるっていうか」


 空気。


 また、その言葉だった。


 水崎澪本人ではなく、空気。


 吉岡は続ける。


「文化祭近いし。今、クラスの雰囲気いいじゃん。去年のこと引っ張り出して暗くなるの、なんか違わない?」


 その言い分は、わかる。


 とてもよくわかる。


 文化祭前。

 クラスの雰囲気。

 みんなで楽しく準備する時間。

 そこへ、去年の重い記憶を持ち込むことへの抵抗。


 僕だって、少し前なら同じことを思ったかもしれない。


「違うかもしれない」


 僕は言った。


「でも、楽しい写真だけ残した去年の記録、見た?」


「え?」


「去年の文化祭の写真。楽しそうなやつばっかりだった。でも実際は、そうじゃないところもあった」


 吉岡は少しだけ表情を固くした。


「それは、まあ……文化祭の記録ってそういうもんじゃないの」


「そういうものにしたから、水崎さんのことも見えなくなったんだと思う」


 言ってから、少し強すぎたかもしれないと思った。


 でも、もう戻せない。


 吉岡は黙った。


 教室の空気が重くなる。


 昔なら、ここで花音が入ってきただろう。


 「はいはい、二人とも真面目タイム終了」とか。

 「文化祭前に哲学しない」とか。

 そう言って笑いに変えただろう。


 でも花音は入ってこなかった。


 その代わり、彼女は黒板前からこちらを見ていた。

 笑わずに。


 美晴も黙っている。

 栞も。


 誰も流さない。


 だから、教室の空気は重いままだった。


 でも、壊れなかった。


 吉岡はしばらくして、小さく息を吐いた。


「……水崎さんってさ」


 彼が言った。


「俺、正直あんまり覚えてない」


「うん」


「でも、なんか面倒な子だったって印象だけ残ってる」


 その言葉に、近くの誰かが小さく息を呑んだ。


 吉岡は慌てて手を振る。


「いや、悪口じゃなくて」


 そう言ってから、自分で苦笑した。


「悪口か。これ」


「たぶん」


 僕が答えると、吉岡は顔をしかめた。


「だよな」


 彼は机の端に手を置いて、視線を落とした。


「でも、そういう覚え方してる。ちゃんと何言ってたかとか、何があったかじゃなくて、なんか面倒だったなって。たぶん、そう思ってると楽だったんだと思う」


 その言葉は、教室に静かに落ちた。


 楽だった。


 澪を「面倒な子」として覚えておけば、自分たちが何を見なかったのか考えずに済む。

 彼女が悪い、とは言わない。

 でも、扱いづらかった。

 真面目すぎた。

 空気を止めた。


 そう整理すれば、こちらは楽になる。


「俺、最低だな」


 吉岡が小さく言った。


 僕は首を振った。


「たぶん、僕も同じだった」


「水野も?」


「うん。僕は、使いにくいって書いた」


「何を?」


「水崎さんが残したがった写真に」


 吉岡は黙った。


 たぶん意味は全部わかっていない。

 でも、僕の声の重さで何かを察したのだと思う。


「そっか」


 彼はそれだけ言った。


 少し離れたところで、三浦さんがこちらを見ていた。

 美晴が、そっと僕の机の横に来る。

 花音も、ゆっくり近づいてきた。


 吉岡はそれを見ると、少しだけ居心地悪そうに笑った。


「なんか、変な空気にして悪い」


 それを聞いて、花音が言った。


「変な空気でいいと思う」


 吉岡が目を丸くする。


「橘がそれ言う?」


「私が言う」


 花音は少しだけ困ったように笑った。


「全部明るくしようとすると、また同じになるから」


 吉岡は花音を見て、何か言いたそうにした。


 でも結局、頷いた。


「わかった。いや、わかってないかもしれないけど」


「それでいいと思う」


 栞が静かに言った。


「わかってないって言えるなら、まだ」


 吉岡は栞を見る。


「雪平さん、たまにすごいこと言うよな」


「たまに?」


「いや、いつもかも」


 そこで少しだけ笑いが起きた。


 でも、さっきまでと違う笑いだった。


 誰かを置いていく笑いではない。

 張りつめすぎた空気に、小さな穴を開ける笑い。


 花音も笑った。

 美晴も、少しだけ。


 僕も、ほんの少し笑った。


 笑ってもいいのだと思った。


 ただし、誰が笑えていないかを見ないまま笑うのではなく。


 放課後、僕は記録ノートに今日のことを書いた。


 ――吉岡が「今さらじゃね?」と言った。文化祭前に空気が悪くなるのは違うのでは、と。自分の中に「水崎さんは面倒な子だった」という印象が残っているとも言った。その方が楽だったのだと思う、と。花音は「変な空気でいいと思う」と言った。誰も笑って流さなかった。


 書き終えると、美晴が覗き込んできた。


「また重い」


「うん」


「でも、必要」


「うん」


 花音が横から言った。


「私の台詞、ちゃんと残ってる?」


「変な空気でいいと思う、ってところ?」


「うん」


「残ってる」


「よかった。あれ、私にしては頑張った」


「自分で言うんだ」


「言うよ。頑張ったことは記録して」


 その言葉に、美晴が笑った。


「花音らしい」


「でしょ」


 栞が静かにノートを見て、少しだけ頷いた。


「教室の記録になってきたね」


「文化祭の記録じゃなくて?」


「両方」


 栞は言った。


「文化祭の準備って、教室そのものだから」


 その言葉を、僕はノートの端に書き足した。


 ――文化祭の準備は、教室そのもの。


 去年も、そうだったのだと思う。


 文化祭の記録は、ただの行事の記録ではなかった。

 誰が何を見て、何を見なかったか。

 誰が笑い、誰が黙り、誰が消えていったか。


 教室そのものが、そこにあった。


 だから今年は、ちゃんと残したい。


 明るいところも。

 重いところも。

 使いやすいところも。

 使いにくいところも。


 水崎澪の名前を出したあとの教室は、まだ揺れている。


 でも、揺れていることを残す。


 それが、今の僕たちにできることだった。

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