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放課後、君とだけ秘密の話をする  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第3話 図書室で会う、静かな同級生

 放課後の学校は、同じ建物のくせに昼間とは別の顔をしている。


 授業が終わってすぐの教室にはまだ熱が残っている。今日の小テストがどうだったとか、部活がだるいとか、駅前の新しい店がどうとか、そういう断片的な話題が机と机のあいだを跳ね回っていて、そこには昼休みとは違う種類の解放感があった。半端に疲れて、半端に浮かれていて、まだ完全には帰宅モードじゃない。あの感じは嫌いじゃない。


 けれど、その熱気は廊下へ出ると急に薄まる。


 部活へ向かう生徒の足音。教室に残って喋っている連中の笑い声。どこかの階から聞こえる机を引きずる音。全部ちゃんと聞こえているのに、空気だけが少し遠い。校舎全体が、昼間に人から借りていた騒がしさをゆっくり返し始めているみたいだった。


 僕はそんな放課後の廊下を、一冊の本を手に歩いていた。


 図書室に返すだけの、たいして重くもない文庫本。先週、なんとなくタイトルに惹かれて借りた短編集だった。結局、最後まで読めたのは半分にも届かない。つまらなかったわけじゃない。ただ、読み進めるタイミングを逃しているうちに返却日が来ただけだ。


 そういうことは、僕にはよくある。


 好きになりきる前に、時間だけが過ぎる。嫌いになる前に、興味が薄れる。何に対しても、少しだけ手前で止まる癖がある。べつに困ってはいないし、直したいとも思っていなかった。好きか嫌いか、白か黒か、そういうはっきりしたものを持つには、たぶん僕は少し面倒くさがりすぎる。


 階段を上がりながら、窓の外に目をやる。


 春の空はまだ明るい。部活の声がグラウンドの方から細く届いてきて、風に混ざって消える。校舎の中は少しだけひんやりしていて、その温度差が妙に心地よかった。


 図書室の扉を開ける。


 すぐに、紙の匂いがした。


 インクと古い本の紙、それから棚の木材に染みついた少し乾いた匂い。図書室という場所は、どこの学校でもたぶん似たような空気をしている。でも、その「どこも同じ」感じが、僕は案外好きだった。知らない場所に来た感じはしないのに、教室とは違う顔がある。静かでいても不自然じゃない場所。何も話さなくても許される場所。


 放課後の図書室には、数人の生徒がいた。


 窓際の机で問題集を広げている三年生っぽい女子。奥の棚の前で立ち読みしている男子。カウンターのそばで返却された本を仕分けている図書委員らしい生徒。その中に、見覚えのある横顔があった。


 雪平栞。


 同じクラスの女子だ。


 教室にいるときの彼女は、いつも少し輪郭が薄い。目立たないというより、目立つ位置に自分を置かない感じがある。騒がしいのが苦手なのか、昼休みはたいてい本を読んでいるし、誰かの話題の中心にいるところもあまり見ない。けれど孤立しているわけではない。話しかけられれば普通に答えるし、必要な会話はちゃんとする。そのあたりが、なんとなく僕に似ている気がしなくもなかった。


 ただ、彼女は僕よりずっと静かだ。


 静かというより、無駄に音を立てない人、なのかもしれない。


 カウンターに近づくと、栞が顔を上げた。


 目が合う。彼女は一拍だけ間を置いてから、いつもの落ち着いた声で言った。


「返却?」


「うん」


 僕は本を差し出す。


 栞はそれを受け取って、バーコードを読み取った。電子音が小さく鳴る。画面を見ながら、彼女は本の表紙に視線を落とした。


「これ、最後まで読んだ?」


「半分くらい」


「正直だね」


「読んだふりして感想聞かれたら詰むから」


「感想聞くつもりはなかったけど」


「ならセーフか」


「セーフ」


 小さなやりとりだった。


 でも図書室の静けさの中では、そのくらいの会話の方がちょうどいい。教室みたいに誰かがすぐ拾って広げたり、茶化したりしない。言葉のあとに沈黙があって、その沈黙が妙な気まずさにならない。この場所のそういうところが好きだ。


 栞は返却処理を終えた本を、カウンター脇の棚へそっと置いた。


「湊くんって、こういう本選ぶんだ」


「どういう本」


「表紙が静かそうなやつ」


「静かそうなやつって、ジャンル分類としてだいぶ曖昧じゃない?」


「でもなんとなくあるでしょ。騒がしそうな表紙と静かそうな表紙」


「それはまあ、わからなくもない」


「湊くん、たぶん中身より先に雰囲気で選ぶタイプ」


「急に分析された」


「違う?」


 違わない、と思った。


 たぶん僕は、何かを選ぶときにあまり深く踏み込まない。好きになる前の入口だけ見て、そこでなんとなく手を伸ばす。映画でも、本でも、人でも。中身を全部知る前に「まあこんな感じかな」と決めてしまうことがある。


 いや、あるというより、そっちの方が多いのかもしれない。


「否定しないんだ」


「図星だったから」


「そうなんだ」


 栞はそこで少しだけ笑った。


 大きく表情を変えるわけじゃない。でも、ちゃんと笑ったのがわかる笑い方だった。教室で花音が笑うとまわりの空気まで明るくなるけれど、栞の笑いはそういう種類じゃない。声の響きではなく、静けさの中に少しだけ温度が増す感じだ。


 窓から差し込む夕方の光が、カウンターの端を薄く照らしている。図書室の時計は四時を少し過ぎたところで、長針の位置だけが静かに進んでいた。


「他に借りる?」


 栞が聞いた。


「んー、どうしよう」


「その言い方、たぶん借りないやつ」


「バレてる」


「なんとなく」


 彼女はそう言いながら、返却された本のカードを整理し始めた。細い指がカードを揃えるたび、紙の擦れる小さな音がする。


 僕はその場を離れるきっかけを失って、なんとなくカウンターの前に立ったままだった。


 図書室って、急いで出ていく場所じゃない。そんな言い訳を頭の中で作りながら、棚の背表紙に目を向けたり、窓の外の空を見たりする。帰っても別に予定はない。だったらもう少しここにいてもいい気がした。


「湊くん」


 不意に、栞がまた僕の名前を呼んだ。


「なに」


「ちゃんと見てるようで、見ないほうを選ぶの上手そう」


 昨日も言われた気がして、一瞬返事に詰まる。


「またそれ言うの」


「昨日? 言ったっけ」


「言ってた。たぶん」


「じゃあ思ったより印象強かったんだ」


「そりゃまあ、急に言われたら」


 ちゃんと見てるようで、見ないほうを選ぶ。


 その言葉は、なんとなく引っかかる。でも正面から否定しづらい。たぶん違う、と言い切るほど、自分のことをちゃんと見ているわけじゃないからだ。


「どういう意味?」


 僕が聞くと、栞は少し考えるように視線を泳がせた。


「たとえば」


「たとえば?」


「クラスで誰かがちょっと困ってそうでも、すぐに大丈夫か聞くタイプじゃないでしょ」


「それは……まあ」


「でも、気づいてないわけじゃなさそう」


「雪平さん、地味に刺してくるよね」


「刺してるつもりはないよ」


 それはたぶん本当なんだろう。栞は嫌味っぽく言うタイプには見えない。ただ、気づいたことをそのまま口にしているだけだ。余計な飾りをつけないからこそ、少しだけ痛い。


「でもそれ、別に悪いことじゃなくない?」


 自分でも弁解っぽいと思いながら言う。


「変に踏み込むより、放っといた方がいいときもあるし」


「うん。あると思う」


 栞はあっさり頷いた。


 否定されなかったことに、逆に少し拍子抜けする。


「ただ」


「ただ?」


「放っとくのが上手い人って、自分ではそれを優しさだと思ってることあるよね」


 言葉が、静かに落ちた。


 図書室は相変わらず静かで、奥の席からページをめくる音だけが聞こえる。だから余計に、その一文だけが少しだけ重く響いた気がした。


 優しさ。


 花音に言われた「誰にでもやさしい顔」と、今の栞の言葉が、頭の中で勝手に並ぶ。


 僕は自分を優しい人間だと思ったことは、たぶんない。かといって、冷たいとも思っていない。困っている人がいれば少しくらい助けるし、相手が嫌がることをわざわざする趣味もない。だからまあ、普通だろうと思っていた。


 普通という言葉の中には、たいてい免罪符みたいな響きがある。


 でも、普通って本当にそんなに都合のいいものなんだろうか。


「雪平さんって、たまにすごいこと言うよね」


 考え込むのが面倒になって、僕は軽く笑って流した。


 栞は少しだけ肩をすくめる。


「そうかな」


「そうだよ。もっとこう、図書委員っぽいこと言ってほしい」


「図書委員っぽいことって何」


「静かにしてください、とか」


「それは司書の先生の仕事」


「じゃあおすすめの本あります、とか」


「あるけど」


「あるんだ」


「でも、たぶん今の湊くんには向かない」


「なんで」


「最後まで読まなそうだから」


「ひどい」


「半分しか読んでない人に言われたくないと思う」


 また小さく笑う。


 その笑い方に、少し救われた気がした。さっきの言葉の重さが、そこだけ少し薄まる。栞はたぶん、わざと人を追い詰めたいわけじゃない。ただ、言葉を途中で丸めないだけだ。


 それは美晴とも花音とも違う。


 美晴は言いたいことをまっすぐ言うけれど、言ったあとでちゃんと面倒も見ようとする。花音は場が悪くならないように笑いへ逃がす。栞はどちらでもない。言葉をそのまま置いて、それを受け取るかどうかは相手に任せる。


 図書室の空気には、そのやり方が似合っていた。


 カウンターの上に積まれた貸出カードの束から、栞が一枚を抜きかける。


 ほんの無意識みたいな動きだった。けれど途中で指が止まり、彼女はそのカードを見て、すぐに束の中へ戻した。


 その仕草がなぜか気になった。


 カードの名前が見えたわけじゃない。見ようと思えば見えたかもしれないけれど、そこまで覗き込む理由もない。だから僕は、見なかったことにした。


 見なかったことにした、という表現がいちばん正確かもしれない。


「どうしたの」


 栞が尋ねる。


「いや、別に」


 今度は僕がそう返す番だった。


 栞はそれ以上何も言わなかった。


 沈黙が落ちる。気まずくはない。けれど、さっきまでとは少しだけ質の違う沈黙だった。何かが始まる直前というより、何かを横に置いたまま喋っている感じ。


 僕はふと、教室での彼女を思い出した。


 昼休みに一人で本を読んでいる姿。先生に当てられたときの落ち着いた返事。誰かに話しかけられたらちゃんと答えるけれど、自分から輪の中心には入っていかない距離感。


 教室では目立たないのに、図書室だと妙に存在感があるのは、この場所が彼女の声に合っているからかもしれない。騒がしい場所では消えてしまうものが、静かな場所ではちゃんと形を持つ。そういうことはある。


「ねえ」


 僕は何となく聞いてみた。


「雪平さんって、ずっと図書委員やってるの?」


「去年から」


「好きだから?」


「半分はそれ。半分は、人があんまり来ないと思ってたから」


「でも案外いるよね」


「うん。思ったより」


 彼女は少しだけ窓際を見た。


 勉強している生徒。雑誌コーナーを立ち読みしている生徒。返却に来る生徒。賑やかではないけれど、放課後の図書室にはいつも誰かがいる。


「でも」


 栞が言う。


「教室よりは静かだから」


「そりゃそう」


「静かな方が、考えなくていいことが増えるから好き」


 それはなんとなくわかる気がした。


 教室は情報が多い。誰がどこで笑っていて、誰が誰と話していて、今その場の中心がどこにあるのか、空気がどっちへ流れているのか。意識しなくても目に入るし、耳に入る。僕はそういう場所で生きていくのが下手じゃない。たぶんむしろ、それなりに上手い。


 でも上手いことと、楽なことは、少し違う。


「静かな方が好きなの?」


 栞が逆に聞いてくる。


「たぶん」


「たぶんなんだ」


「好き嫌いをはっきり言うほどじゃないだけ」


「やっぱりそういうとこだ」


「またそれ?」


「うん」


 彼女はまた小さく笑う。


 繰り返し同じようなことを言われているのに、不思議と嫌じゃなかった。栞の言葉は、決めつけというより観察に近い。だから腹が立つ前に、「そう見えるのか」と考える余地がある。


 それに、図書室の夕方は人を少しだけ素直にするのかもしれない。


 窓の外の光が、だんだんオレンジ色に寄っていく。時計の針も少し進んでいた。そろそろ帰る生徒も増える時間だ。


「じゃあ、僕そろそろ帰る」


 何となく区切りがついた気がして言うと、栞は頷いた。


「うん」


「本、ありがと……じゃないか、返しただけか」


「返しただけだね」


「じゃあ、お疲れさま」


「湊くん」


 背を向けかけたところで、また呼び止められる。


「なに」


「秘密って、打ち明ける方だけのものじゃないからね」


「え?」


「知っちゃった側にも、少しだけ責任が移る」


 また、急だ。


 急すぎて、意味がわからない。


「何その話」


「なんとなく」


「雪平さんのなんとなく、たまに重いよ」


「ごめん」


 そう言いながらも、彼女は本気で謝っている感じではなかった。ただ事実を置いただけ、みたいな顔をしている。


 秘密を知った側にも、責任が移る。


 その言葉はうまく飲み込めなかったけれど、妙に耳には残った。


「じゃあ今度は、図書委員っぽくおすすめの本でも教えてよ」


 僕はそれを冗談っぽく返して、空気を軽くする。


 栞もそれに付き合うように、少し考えたふりをした。


「最後まで読めそうなの探しておく」


「遠回しに信用ないな」


「事実だから」


「それ言われると弱い」


 それで会話は終わった。


 図書室を出る。扉が閉まると、さっきまでの静けさが一枚向こう側へ移った感じがした。廊下の空気は少しだけ温度が違って、遠くの部活の声が現実味を帯びて耳に届く。


 歩きながら、僕はさっきの会話をぼんやり反芻していた。


 ちゃんと見てるようで、見ないほうを選ぶ。

 放っとくのが上手い人は、自分では優しさだと思ってることがある。

 秘密は、知った側にも責任が移る。


 どれも、別に今すぐ何かに繋がる言葉じゃない。日常の会話としては少しだけ重いけれど、それだけだ。図書室という場所がそういう話を似合わせてしまっただけかもしれない。


 それでも、なぜか妙に心のどこかへ残っていた。


 階段を下りる途中、自分のクラスの前を通る。


 扉は開いていて、中にはまだ何人か残っていた。花音の声が聞こえる。誰かが笑う。美晴らしい姿も見えた。いつもの明るい放課後の教室だ。


 なのに、またほんの一瞬だけ、視界の端に何かの空白が引っかかった。


 人が少ないから、ではないと思う。時間帯のせいでもない。ただ、教室という風景のどこかに、うまく馴染んでいない感じがある。そういう、言葉にできない違和感。


 でも僕は立ち止まらなかった。


 その違和感に名前をつけるほど、はっきりしたものじゃなかったからだ。


 考えすぎる方がたぶん変だ。


 見間違いとか、気のせいとか、そういう曖昧な言葉の中へ押し戻してしまえば済む。実際、その方が楽だった。


 昇降口で靴を履き替え、外へ出る。


 春の風が頬に当たる。昼より少しだけ冷たい。校門へ向かう生徒の流れに混ざりながら、僕はポケットに手を突っ込んだ。


 今日も別に、何かが起きたわけじゃない。


 図書室で少し話した。それだけだ。


 同じクラスの静かな女子が、少しだけ意味深なことを言って、僕はうまく受け流した。たぶんそれで終わり。終わりのはずだ。


 でも、もし本当にそれで終わりなら、人はあんな言葉をいつまでも思い返したりしないのかもしれない。


 秘密は、知った側にも責任が移る。


 その意味を、このときの僕はまだ知らなかった。


 知らないままでいられるなら、それでよかったのにと、あとから思うことになる。

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