第2話 クラスの人気者は、からかい方がうまい
高校の昼休みというのは、不思議なくらいに空気が軽い。
四時間目までの授業で少しだけ疲れているはずなのに、チャイムが鳴った途端、教室は急にほどける。椅子を引く音、机を寄せる音、購買へ走る足音、弁当箱のふたが開く音。そういう細かな生活音が一斉に立ち上がって、五十分だけの自由時間を「昼休み」という別の世界に変えてしまう。
僕はその変化を、いつも少し離れたところから眺めていた。
中心に飛び込むほど社交的じゃない。けれど壁に背を預けて一人でスマホをいじるほど、孤独が好きなわけでもない。誰かの輪の端に引っかかって、必要なら笑って、話が向けば自分も混ざる。それが僕にとっていちばん楽な昼休みの過ごし方だった。
「湊、今日パン?」
前の席の男子が振り返る。購買帰りらしく、片手には焼きそばパンが握られていた。
「いや、弁当」
「篠宮さん作?」
「なんでそうなるんだよ」
「だってもうそういう距離感じゃん、お前ら」
「幼馴染ってだけで、勝手に関係性を盛るのやめてほしい」
「でも朝もネクタイ直してもらってたじゃん」
「見てたのかよ」
「教室中が見てた」
それはまあ、そうだろうなと思う。
朝の美晴はわりと容赦がないし、僕もいちいち全力で抵抗するほど子どもじゃない。結果として、ああいう光景になる。それを教室の連中が面白がるのも、たぶん普通だ。
僕が鞄から弁当箱を取り出したところで、横から影が落ちた。
「わ、ちゃんと弁当だ」
声の主は橘花音だった。
彼女は昼の光が似合う。たぶん朝でも放課後でも似合うんだろうけど、少なくとも昼休みの教室では彼女の明るさがいちばん自然に見えた。肩までのゆるく巻いた髪、よく動く表情、笑う前から楽しそうに見える目元。可愛い、というより、目が離れにくいタイプの子だと思う。
「ちゃんとって何」
「湊ってコンビニ飯でも成立しそうだから」
「僕、そんなに生活力低く見える?」
「低いっていうか、自分で何でもどうにかしようとしてない感じ?」
「悪口?」
「まだ違うよ」
花音は僕の前の空いた机に腰を軽く預けると、自分の購買のパンを見せびらかすように振った。
「ほら、今日は勝った。ラスイチのクリームパン」
「急に勝負始まった」
「昼休みの購買は戦場なんです」
「負けたらどうなるの」
「チョコチップスティックで妥協することになる」
「それはそれでおいしいじゃん」
「そういう問題じゃないの。欲しかったものが取れなかったという事実が重いの」
言い切りながら、花音は自分でおかしくなったのか、くすくすと笑った。
この子はたぶん、自分で場を回している自覚がある。無意識じゃない。誰にどう話しかけたら空気がやわらぐか、たぶんちゃんと知っている。だから強いんだろうなと、僕は思う。
人と話すのがうまい人はいる。けれど、人が話しやすい空気をつくるのがうまい人は、そう多くない。花音はたぶん後者だった。
「ねえ、見せて」
言うなり、彼女は僕の弁当箱を覗き込んだ。
「うわ、普通にちゃんとしてる。卵焼き入ってる」
「うちの母親、そういうのは抜かりないから」
「へえ。いいな。私、今日めっちゃパンの気分だったから購買行ったけど、やっぱたまに弁当見ると羨ましくなる」
「交換する?」
「卵焼き一個なら」
「部分交換」
「対価はクリームパンの端っこ」
「しょぼい」
そんなやりとりをしていると、近くの女子グループから「なにそれ」「交換会?」と声が飛んでくる。花音はそちらに顔だけ向けて、「今、湊の卵焼き争奪戦」と適当なことを返した。笑いが起こる。
なんでも軽く広げて、場を柔らかくするのが上手い。
それは本当に才能だと思う。
「湊ってさ」
卵焼きを受け取って満足そうな顔をしながら、花音が言う。
「結局誰とでもこうやって普通に喋るよね」
「悪いことみたいに言う」
「言ってないよ。むしろ便利」
「便利扱いされた」
「いや、クラスに一人いると助かるタイプ。話しかけても変な空気にならない人」
「褒め言葉として受け取っておく」
「うん、褒めてる褒めてる」
適当そうに見えて、花音の言葉は案外、人をよく見ている。
話しかけても変な空気にならない人。たしかに僕はたぶん、そういう人間だ。面白いことを言えるわけじゃないし、会話の中心に立てるわけでもない。でも、少なくとも話の腰を折ったり、相手を不快にさせたりはあまりしない。
そういう性質が、気楽だと思われることもある。
それを損だと思ったことは、たぶん一度もない。
「でも」
花音はそこで少しだけ目を細めた。
「湊って、誰にでも同じくらいの距離で喋るよね」
「そんなことないと思うけど」
「あるって。美晴にも、男子にも、先生にも、図書室の雪平さんにも」
「最後の一人だけサンプル数少なくない?」
「見てるから言えるんです」
その言い方が妙に自信ありげで、僕は少し笑ってしまった。
「橘さん、観察眼こわいな」
「でしょ」
「自分で言うんだ」
「言うよ。私、人のこと見るの好きだし」
好き、という言い方が妙に軽くて、妙に本当っぽかった。
花音は本当に人を見ているんだろうと思う。誰が誰と仲がいいとか、誰がどんな顔で笑うとか、誰が何を言われると困るとか。そういう細かいことを、たぶん自然に拾っている。
そのうえで、あえて明るい方へ転がしている。
だからたぶん、彼女は人気がある。
「湊はさ」
花音がクリームパンをちぎりながら続ける。
「やさしいっていうより、怒らせない感じなんだよね」
「それ褒めてる?」
「五分五分」
「半分悪口じゃん」
「悪口じゃないって。なんていうか、丸いの」
「丸い」
「角がない。誰かと喧嘩してるイメージないし」
「喧嘩は疲れるから」
「ほら、そういうとこ」
まただ。
そういうとこ、と言われるたび、自分が自分じゃないみたいな気分になる。
たぶん僕はずっと、自分のことを平坦な人間だと思ってきた。強い個性もなければ、強い欠点もない。得意なことが少しあって、苦手なことも少しあって、全体として大きくはみ出していない。その「はみ出さなさ」が、自分の輪郭なんだとなんとなく信じていた。
でも、他人に言葉にされると、その輪郭の意味が少し変わる。
角がない。怒らせない。誰にでも同じ距離。
それは優しいのか、薄いのか。
そこまで考えて、僕は考えるのをやめた。昼休みに向いていない思考だ。
「で、美晴とはどうなの」
花音が急に話題を切り替える。
「急だな」
「急じゃないよ。教室の定番トークだよ」
「知らないうちに定番にされてた」
「だって気になるじゃん」
「何が」
「何がって、あの距離感で何もないのは逆に不自然じゃない?」
「ないから普通にしてるんだけど」
「ふーん」
その「ふーん」には、まったく納得していない感じが滲んでいた。
花音はこういうとき、追及しすぎない。けれど引きもしない。相手が困らない程度のところまで踏み込んで、そこから先は笑いに変える。さっきから感心してばかりだけど、やっぱりうまいと思う。
「じゃあ、雪平さんは?」
「どうしてそうなる」
「図書室でよく会ってるっぽいし」
「返却しただけだよ」
「でも昨日、普通に喋ってたじゃん」
「見てたのか」
「見てた」
即答である。
「橘さん、ほんとに人のこと見てるな」
「でしょ。褒めて」
「褒めてるつもり」
「ありがとう」
彼女は満足そうに笑って、またパンをかじる。
その様子があまりにも自然で、僕は肩の力を抜いた。こういう子と話していると、こっちまで「たいした意味のない会話」の中にいられる。意味のない会話は、案外救いだ。正しいことも答えもいらない。ただ笑って流れていくだけの時間は、思っているよりずっと貴重なのかもしれない。
「湊、飲み物買いに行かない?」
花音が空になりかけた牛乳パックを振って見せる。
「今?」
「今。購買行くほどじゃないけど、喉乾いた」
「別にいいけど」
「よし」
彼女は立ち上がると、ついでのように周囲へ声をかけた。
「誰かなんかいるー?」
「あ、私お茶」
「コーヒー牛乳お願い」
「優しいー、橘さん神」
「神は言いすぎ」
そんな会話を交わしながら、花音は僕と一緒に教室を出た。
廊下は昼休みらしいざわめきに満ちていた。開いた窓から春の風が入ってきて、掲示物の端を少しだけ揺らしている。別のクラスからは笑い声と、椅子を引く音と、誰かが先生の真似をする声が聞こえてくる。どこも同じようで、少しずつ違う。
「ねえ」
自販機へ向かう途中、花音が前を向いたまま言った。
「湊ってさ、本当に誰とも喧嘩したことないの?」
「あるよ、たぶん」
「たぶん?」
「小学生の頃とかはしてたと思う」
「高校入ってからは?」
「記憶にないかも」
「へえ」
花音は少しだけ目を見開いて、それからふっと笑った。
「すごいね、それ」
「すごいかな」
「うん。私は無理。普通にあるもん。ちょっと気まずいとか、あの子今日機嫌悪いなとか」
「それは喧嘩じゃなくない?」
「でも、喧嘩の手前みたいなのはいっぱいあるじゃん」
「まあ、それは」
「でしょ?」
彼女はそこで足を止め、自販機の前に立った。春限定のいちごミルクのボタンを見て一瞬悩み、結局いつものお茶を選ぶ。僕は炭酸を一本買った。
取り出し口から缶を取ったところで、花音がまた言う。
「でも湊って、そういうのも上手く流しそう」
「何を」
「人の機嫌とか、変な空気とか」
「そう見える?」
「見える」
缶の冷たさが掌に移る。
変な空気を流す。
それはたぶん、できる方だと思う。正面からぶつからないかわりに、少しだけ話題をずらすとか、笑って終わらせるとか、誰かの言葉を拾って薄めるとか。意識してやっているときもあれば、無意識のときもある。
それが悪いことだと思ったことは、今までなかった。
空気が悪くなるより、いいに決まっているからだ。
「それ、便利だよねえ」
花音はペットボトルのキャップをひねりながら、軽く言った。
「場が荒れないし」
「便利ってまた言う」
「いい意味の便利。大事だよ。場を壊さない人って」
「橘さんもそっち側じゃない?」
「私は壊れた後に笑いに変える係」
「違いが細かい」
「全然違うよ」
そう言って、彼女は少しだけ遠くを見た。
廊下の突き当たり。窓の外。春の明るい空。そのどこを見たのかはわからなかったけれど、ほんの一瞬だけ、彼女の表情が教室で見せるものより薄くなった気がした。
けれど次の瞬間には、もういつもの調子に戻っていた。
「はい、戻ろ。みんな待ってるし」
僕たちは来た道を引き返す。
戻る途中、隣のクラスの前で立ち話をしている女子たちの会話が、風に混じって少しだけ耳に入った。
「え、でもあれ結局――」
そこで、もう一人が小さく何かを言った。聞き取れなかったけれど、制するような声音だったのはわかった。
「……今それ、別によくない?」
続く沈黙。
短い、ほんの数秒の沈黙だった。
それから、話題を無理やり変えたような笑い声が起きる。
僕はそちらを見るともなく見たけれど、向こうの女子たちはもうこちらを意識していなかった。たまたま切れ端を拾っただけの、意味のわからない会話だ。学校ではよくある。全部の文脈を知れるわけじゃないし、知らなくていいことだってある。
「どうしたの?」
花音が振り返る。
「いや、別に」
「ふーん」
彼女はそれ以上聞かなかった。
教室へ戻ると、さっきと同じような昼休みの風景が待っていた。弁当の続き、雑談の続き、スマホゲームの続き。僕たちは頼まれていた飲み物を配って、ついでにまた数人と会話して、そのまま何となく輪に混ざった。
誰かが今度の校外学習の班決めの話を始める。誰かが先生の口癖を真似する。花音がそれを大げさに再現して笑いを取る。美晴が呆れた顔をしながらも少し笑う。
明るくて、軽くて、よくある昼休みだった。
ただ一度だけ、花音が何かを言いかけてやめたことがある。
「そういえば、あの……」
そこまで言って、彼女は一瞬だけ口を閉じた。
「ん?」
近くにいた男子が首を傾げる。
「いや、なんでもない。次の小テストいつだっけって思っただけ」
「話題の切り替え雑すぎ」
「だって大事じゃん、成績」
「橘が言うと説得力ない」
「失礼だなー」
みんなが笑う。花音も笑う。
たったそれだけのことだった。
言いかけてやめるなんて、誰にでもある。話題を忘れることだってある。昼休みの雑談なんて特にそうだ。気にするほどのことじゃない。
なのに、なぜかその「なんでもない」が少しだけ残った。
僕は自分でも理由がわからないまま、机の上の空いたペットボトルを指で転がした。軽い音がして、止まる。
「湊」
向かいから美晴が呼ぶ。
「なにぼーっとしてるの」
「してないよ」
「してる。午後の数学で寝る前触れ?」
「それはあるかも」
「あるんだ」
呆れたような顔をされて、僕は肩をすくめる。
美晴は小さく息をついて、それでも机の上のプリントを一枚こっちに滑らせてきた。
「これ、次の授業で使うやつ。先生、配り忘れてたから取ってきた」
「ありがと」
「感謝して」
「してる」
「軽い」
朝と同じようなやりとり。
変わらない調子。変わらない距離。教室のざわめきに混ざるにはちょうどいい会話。
たぶん、こういう何でもない繰り返しが「クラスの空気」をつくっていくんだろうと思う。いつも話す相手、いつも笑うタイミング、いつも誰かが拾ってくれる話題。そういう小さな積み重ねで、教室は教室になる。
だから逆に、一つの話題だけが妙に浮いたり、誰も触れようとしなかったりすると、それは少しだけ目立つ。
もちろん、そのときの僕はそんなふうに整理していなかった。
ただ、昼休みの終わりが近づくころ、教室の中に一瞬だけできた小さな空白を、なんとなく覚えていただけだ。
それが花音の言い淀みだったのか。廊下で聞いた知らない女子たちの会話だったのか。あるいは、もっと別の何かだったのか。
はっきりはしない。
でも、はっきりしないものほど、あとから思い出に残ることがある。
五時間目開始の予鈴が鳴る。
昼休みの軽さが、少しずつ剥がれ始める音だった。
みんなが席へ戻っていく。机がずれ、椅子が鳴る。花音は最後まで誰かと喋りながら自分の席へ戻っていき、美晴はプリントを揃えながら「ちゃんと起きててよ」と僕に釘を刺した。
「善処します」
「しないやつの言い方」
「よくわかったね」
「幼馴染なので」
それだけ言って、美晴は前を向く。
その背中を見ながら、僕は少し笑った。
先生が入ってくる。教室が静かになっていく。
窓の外では春の風が木の枝を揺らし、昼の明るさが少しずつ傾き始めていた。
変わらない一日。そう思っていた。
誰かが笑って、誰かが茶化して、誰かが話題を拾って、少し気まずくなりそうな空気は、たいてい誰かの軽口で流れていく。
そういう教室なら、たぶん何も問題はないのだと、そのときの僕はまだ、疑っていなかった。




