その4
自室のテラスで優雅に茶を傾けながら、ディアメルはふと頭上の空を仰ぎながら問うた。
「それで、あれからどうなっているのかしら? アムリタ」
「そうですね。まあ、良くやっている――と言ったところです。姫様にしては」
「あら、随分頑張ってるのね」
これまで何度となくアムリタがシャーロットに剣や槍を教えようと試みた。それこそ両手両足の指では足りないくらいの回数を。
しかし、それが長続きしたことは終ぞなかった。短いものだとその日のうちに。長く続いても三日が限界だった。
それがまさか、シャーロットが彗に文句を言いながら剣を教わるように今日で一週間。まさに連日記録更新中である。
「なるほど……今日で一週間ですか。粘りますね」
「今のところは、彼に対する敵意と、それ以上の対抗意識のおかげで続いているみたいです。このまま継続して頂けたら幸いなのですがね……」
対座に座るアムリタが心底そう思っているように吐息を漏らしながら言った。その様子に、ディアメルはくすくすと笑い声を漏らす。
「そうあってくれたら素晴らしいですね。そして――傍付の貴女が離れてよいのですか?」
「太后様が来るように言われたのにそれを言いますか? それに、今は私が補佐するような机仕事はあまりありませんし、彼は『剣術指南』兼『護衛』……何かあっても彼一人で事足りてしまうでしょう」
「それほど腕が立ちますか?」
「……恐ろしいほどに」
ディアメルの問いに、アムリタはカップをテーブルに置いて沈痛な面持ちで肯定した。
「少なくとも……私が知る限り、私が出会ったどの剣士よりも強いでしょう」
「かつて貴方のお爺様がホウキと出会った時も、そのようなことを言っていましたね」
懐かしそうにディアメルが言った。
そう。かつてホウキがこの世界に訪れた時も、スイが現れたのと同じような騒動があったのをディアメルは覚えている。
むしろスイが現れた時より酷いものだった気がする。何せこちらの静止の声も軽やかに無視し、快活な笑い声をあげて当時の衛士や騎士たちを全滅させてから「で、貴方たちは何?」と問うたのだから。
騒がしさに関してはきっと天下一だろう。あの無駄に元気の有り余ったホウキに比べれば、スイが引き起こした騒動などなんと生ぬるいものか。
「今でも昨日のことのようですよ。彼女が現れてからの日々は」
「随分と楽しかったようですね」
「騒がしい、というのが正しい気もしますが」
「それは今の姫様のことですよ」
「違いありません」
そう言って、二人は声を揃えて笑った。そしてひとしきり笑った後、ディアメルは柔和な表情を真剣なものへ一変させた。
「それで、あちらのほうに動きはありましたか?」
「以前、沈黙したままです」
アムリタのほうもまた、沈痛な面持ちで手短に答えた。
「ル・ガルシェの動向はいまだ不明ですが、まるで何かの実験をしているのではと推測されます。しかし、一体何のためなのかは全く見当もつきません」
「そうですか……では、もう一つのほうはどうですか?」
ディアメルが再び問いを投げると、アムリタは一瞬視線を背後に向け――何かを警戒するように周囲を見回した後、ディアメルだけに聞こえるほど声を潜めて告げた。
「――確たる証拠があるわけではありませんが、『黒』と思われます」
「……そうですか」
落胆したように、ディアメルはかぶりを振る。
「敵はル・ガルシェだけではないのですね……」
ディアメルは嘆息しながらカップを傾けながら言った。
「警戒を怠らないように……動きに気を付けてください」
「承知しております」
アムリタが低頭する。
カップの中身を口にしながら、ディアメルはふとある懸念が脳裏をよぎった。
もしかすれば、彗がこの地に召喚された理由はこのためなのだろうか……。かつて箒がこの国を襲った災厄を退けたように、彼もまたこの国を何かの危機から救うために来たのではないだろうか。
建国以来、このフィムルロードは幾度か傾国の危機にさらされた歴史がある。そして、そのたびに聖殿の《招きの間》にこの世界とは異なる世界から何者かを召喚し、その者の力を借りたという話は列挙するに困らない。その史実から生じた昔話は無数にあふれているのだから。
一体、どんな力が作用しているのかは分からない。
ただ、そうしてこの国は歴史を繋いでいるのだ。
ならば、彗の現れた理由もまた、そこにあるのではないかとディアメルは思う。
だが、それでも願わずにはいられない。
戦乱などいらない。ただ平和な世の中であり続けることを。それこそ、古き友人が守ってくれたこの国の平和が、恒久であることを。
しかし、その思いとは裏腹に、ディアメルはあきらめ顔で愚痴るように言葉を紡いだ。
「何も起きないに越したことはないのですが……そうはいかないのでしょうね。きっと」
◇◇◇
彗は宛がわれた一室のベランダに立っていた。夜の空を見上げれば、この場所が地球上の何処でもないことが彗にも分かる。天には星が幾億も散りばめられており、その星の描く形が季節ごとに見えるものも変化することは誰だって知っていることだ。
彗自身それほど星座に詳しいわけではない。しかし有名どころ程度は大体把握しているつもりだ。彗がいた世界では季節は夏だった。
こと座のベガ。白鳥座のデネブ、わし座のアルタイル。総じて夏の大三角形と呼ばれる天体は、同じ季節であろうこのフィムルロードでは見る影もない。それどころか彗が知らない星が無数に点在し、更に言えば月が二つあるという時点で、最早此処が地球どころか太陽系ですらないということを、否応なしに理解させられたのだから。
彗はポケットに手を入れ、そこに入れていた短刀を取り出した。それは七歳の祝いに母がくれた守り刀。それを掌の上で転がして、小さくぼやいた。
「子供へのプレゼントじゃないだろう……こんなの」
不満を口にしている割には、その声音が喜色を漂わせていることを彗は自覚している。幼かった頃の自分が、この小刀を貰って心躍らせたのを覚えている。まるで母に認められたような気がして、その日は一日中これを手放そうとしなかった。
祖父は呆れ、母は意地の悪い笑顔でそんな自分を見ていた。そして、彼女が《天枢ノ箒》を失くしたのはそれから間もなくの頃。
つまり、母がこの地に来たのは、自分が母を殺す少し前のことなのだろう。
そして、彼女はこの地で英雄になった。
だが英雄は、息子の手で殺されることとなる。
今も思う。あの日、母が何を思って自分の刃を受けたのか。その意味は、そこにあった真意は、一体なんなのだろう。
『――剣を握るということ。それがどういう意味か、分かる?』
あの日、剣を合わせる前に母はそう問うた。その答えは、あの日の答えから変わらず、今も分からないままだ。
思えば、そんな問いを振られたのはあの日が初めてだった。それまではただ楽しそうに剣を振るい、気まぐれで気が向いた日だけ――普段は祖父が教えていた――空凪の技を教えていた母が、あの日はまるで、彗に剣を教えることを躊躇していた。
まるで――何かを悔いているように今は思える。
ならば、それは一体何か。
思い当たる節はいままでなかった。だが、もしこの世界で母が関わった何かがその要因なのだとしたら。
――あの日の答えられなかった答えが、見つかるかもしれない。
それは願望に近いものだろう。でも、僅かでもその可能性があるのなら、それを探してみるのも悪くはないのかもしれない。
ただ無為に生きて、ただ無為に死ぬよりも。
「少しは……近づけますか?」
手にする小刀を見据え、彗はそう独り言を漏らす……そして、ふと視線を下に向け――それを見つけた。
階下は芝生で覆われた広い庭のようになっている。そこに一人、誰かが立っていた。
いや、誰かではない。この一週間毎日顔を合わせている相手だ。さすがに見間違うはずがない。
シャーロット・リム=ロード。
その姿を視界のはずれに捉えた刹那、彗の表情は一瞬にして凍りついた。
彼女は今、ベランダからすぐ下にある庭に立っていた。それだけなら――庭に立っているだけならばそれはそれでいい。別に気にすることでもないのだ。
彗が凍りついた理由は、シャーロットが庭でやっていること。彗の母の刀であり、この国の宝剣である《天枢ノ箒》を手に、振り上げ、振り下ろす。それをひたすらに繰り返す行為――言ってしまえばただの素振りである。
そして、その素振りをしている姿を捉えた瞬間、彗は暫し呆然としたのち――思わず頭痛を覚えてかぶりを振ると、迷いなくテラスの手摺りを越えて階下へと飛び降りた。
すた……っと、地面に着地すると、一心不乱に素振りを繰り返している少女に向かって歩み寄り、声をかける。
「……何をしている?」
瞬間、少女の肩がびくりと震え、刀を振る腕の動きが止まると、その長い金髪を揺らしながら振り返って仏頂面で彗を見た。
「見て分からんのか? 鍛錬だろう?」
「……誰がそんなことをしろと言った?」
ため息交じりに彗が問う。シャーロットは汗の伝う額を拭いながら刀を二、三度振るい、挑むように口角を吊り上げながら言う。
「別に誰に言われたのでもない。私が自主的にやっているだけだ。お前を堂々と切るために……な」
その言葉に、彗は呆れた……と溜め息を漏らした。
「……それじゃあ、一生かかっても叶わないだろうな」
「なんだと!?」
「必要以上の鍛錬は身体に許容量を超える疲労を溜めるだけだ。結果後で悲惨な目にあって泣くのはお前だぞ」
「う……」と、寸前の勢いは一瞬で消沈し、バツが悪そうに視線を逸らした。彗はやれやれという風に肩を竦めて、明後日の方向を見ながら言う。
「……それを昔やって、あの人に怒られた」
「あの人?」
誰だそれは? そう問うように小首を傾げるシャーロットに、どうしてだろうか。彗は素直にその名前を口にした。
「空凪箒」
「なんと!?」
ねめるような視線と共に彗に問い返したシャーロットに母の名を返すと、シャーロットは途端に態度を変えて目を輝かせた。
「貴様、ホウキの弟子だったのか?」
「急に人の話に耳を傾けるようになったのか?」
「揚げ足を取るな! 質問に答えろ」
その言葉に、彗は苦笑しながら肯定した。正確な師は祖父だ。結局母は――空凪箒は、空凪古流四十四代目当主となる前に世を去ったのだから。だが、母から剣を習ったのも真実だ。彗にとって、数少ない母との思い出でもある。
そこで、ふと彗はある疑問が浮かび、それを問うた。
「……お前は、どうしてそんなに箒のことを知りたがる?」
その質問に、シャーロットは「馬鹿なことを聞く」とでも言いたげに眉間に皺を寄せながら答えた。
「彼女が、この国にとって英雄だからだ。祖母から何度も話を聞いた。憧れないほうが不思議ではないか」
「残念だが、その理屈は俺には分からん」とかぶりを振り、手にしていた小刀を指先で転がしながらそう返すと、シャーロットは表情を険しくし――そして、視線を彗から夜の空へと移して、静かに語りだした。
「五十年前。このフィムルロードを史上で最もおぞましい災厄が襲った。その災厄はこの王都にも匹敵するほど巨大な黒い霧のような化け物――魔物だったそうだ。
その魔物を倒すために国中の戦士たちが戦った。剣を、槍を、斧を、弓を手に。時には隣国の武器である銃器すら持ち出して。しかし、それでは魔物には傷一つ負わせることが出来なかった。
まあ、無理もないだろう。フィムルロードは武に秀でた国ではない。魔術によって文明を発達させ、魔術を最大の兵力として成り立っていた……お前の言う通り、魔術にばかり頼っていた国だ。
しかし、その私たちの便りの綱である魔術もまた、魔物には何一つ通用しなかった。それどころか、魔物は魔術の根源である魔素を喰らう、我々フィムルロードの常識――魔術はあらゆる力の中でも最も秀でた力という常識を、根底から覆すような存在だったのだ。
最早打つ術のないフィムルロードが絶望に覆われ、後は魔物に滅ぼされるのを粛々と待つだけだった。
だが、その時奇跡が起きた。それが《箒星の英雄》――クナギ・ホウキの登場だ。
彼女は当時まだ王女であったお婆様の願いを聞き入れ、魔物に挑んだ――この剣一本でな」
そう言って、シャーロットは手にする刀を彗に見せつけるように翳す。
「我が国にいた幾万の戦士たちや、名高い英傑たちがどれだけ尽力しても、傷一つ負わせることが出来なかった化け物を。我らが最も強いと信じ疑わなかった魔術が、まったく通用しなかった化け物を。
しかしてホウキはこの剣――いや、刀だったか。ともかくこの得物一振りだけを手に果敢に挑み、そして長い戦いの果てにその魔物を打ち倒したのだ!」
熱の籠った瞳で、シャーロットは毀棄した表情で彗を見て、ほとんど叫んでいるのと同じくらいの声量で言った。
「これがどれだけ凄いことか、お前に分かるか? このフィムルロードがどれだけの策を以てしても太刀打ちできなかった魔物を、この剣一本で打ち倒すという、実に荒唐無稽なことを遣って退けたホウキの凄さ!
そして一国を救うという功労をしたというのに、なんの見返りを求めることもしなかった心の広さが!
彼女を英雄と呼ばずして、一体誰を英雄と呼ぶという?
彼女のように強くありたい。どんな強敵を相手にしても恐れることなく、いかなる害悪も退けるような強さを求めるのは、決して可笑しいことではないだろう!」
そう胸を張って少女は言い切った。まるで「どうだ、まいったか?」とでもいう子供のように、シャーロットは鼻を鳴らしている。
随分と子供じみた仕草をすると、そんな場違いなことを不意に思った。
「――ご高説……どうもありがとう、とだけ言っておこう」
そしてしばしの沈黙ののち、彗はそう静かに返した。結局シャーロットの話を聞いても何かが分かるわけではなかった。知れたのは、空凪箒がこの国に多大な貢献をした――その事実だけだ。やはり母のことを聞くべき相手は、語り継がれる物語しか知らない相手ではなく、その出来事を直に目にした人物のほうが有益だろう。
そう判断した彗は、最早話を聞く価値もないと踵を返そうとした。が、それよりも早く、シャーロットが問う。
「で、貴様の知るホウキとは、どんな人物なのだ?」
「は?」
思わず、素でそんな声を出した自分を情けなく思った。だが、考えるよりも先に出たその言葉に、シャーロットはむっ、と不服そうに表情を顰め、言った。
「私ばかりが話しているのは不公平だろう。貴様の知るホウキのことを、私に語るのは至極当然のことではないか」
どんな理屈だ、と彗は嘆息した。そもそも自分で勝手に話し出したのに、こちらに対価を求めるのは間違いではないのだろうか。断ったらこの少女が憤慨して面倒臭いことになるだろうし、かといって母の話をして興奮されるのもまた面倒臭い。
考えた挙句、彗はため息交じりに口を開いた。
「……天才、と呼ばれていた。長い歴史を持つ空凪という一族の中でも、史上に名を残すといわれるほどの天才。それが空凪箒だった」
まぎれもない天才。
祖父は母をそう評価していた。
剣術を始め、空凪古流という流派の伝承する武芸に関して、彼女は類稀なる天賦の才を宿していた。そしてその才能に驕ることもなく、日々の修練を怠らぬ堅実さを持っていた。
恵まれた身体能力に、たゆまぬ努力。そして持って生まれた才能を余すことなく発揮した母は、十代後半には祖父すら退けるほどの実力を身に着けていたという。そして、それだけに満足せず、彼女は史上数名しか体得し得なかったと云われる空凪の極み――二刀に手を出したのだという。
空凪古流とは、平安の世に生まれた古流武術であると同時に、嘘か真か――人外の化け物と対峙するために生まれた戦闘術であると言われている。
実際、彗の知る技の多くには、どう考えても対人用に考案されたとは思えないような異常な技の型が幾つも存在している。
そして、そんな空凪の幾つもある武芸の中で、二刀というのはある種禁忌と扱われていた。
空凪は幼少の頃から肉体改造を行う。全身の骨という骨を何度も砕き強化していく。そうしなければ空凪の技に肉体が耐えきれないからだ。門下生でも十回はまずそれをやらされる。
ましてや血縁――空凪の直系となればその比ではない。彗が覚えている限り、骨を砕かれた回数は三〇近かった。そうやって骨の強度を高めることで、初めて空凪古流を体得するに至る。
しかし、それだけのことをしても空凪の二刀を修めるのは困難と言われているそうだ。
元々尋常ならざる速さを武器とする空凪の技の中でも、二刀はそれを更に凌駕する速度を体現するという。しかしその分使い手の身体にかかる負担は通常の空凪の技をはるかに超え、二度と体を動かすことの出来ない廃人に至るようなリスクがある。
故に、史上空凪の二刀を体得し得た人間はわずかに二人。初代当主と、江戸初期の三二代目当主だけである。
長きに渡る歴史の中でもたった二人しか体得し得なかったその技に、母は辿り着いた。実質史上三人目の空凪の二刀を体得した天才――それが空凪箒なのだ。
――人としては色々破綻していたようだが。
自由気まま。自分勝手。自由奔放。唯我独尊。
それが箒に対する人間としての周囲の評価だった。やることなすことすべてが派手で、周りの迷惑を顧みないことを当然の如くやって見せ、良くも悪くも目立っていた。一歩間違えれば大犯罪にも至るようなこともやっていたという。
まさに天才となんとかは紙一重のような人だったそうだ。武勇伝には事欠かない。彼女が通っていた学校では、今でも空凪という名前は問題児の代表的な扱いになっているほどである。
それらの武勇伝の一部を、シャーロットはハトが豆鉄砲を喰らったような顔をして目を瞬かせていた。
彗はため息交じりに言う。
「だから、お前たちのいう『英雄クナギ・ホウキ』の話を聞いてもピンとこない。その災厄を倒したというのは想像できても、英雄視されるような人間とは、とても思えない」
「お前の話のほうが、私にはよほど信じ難いがな」
シャーロットがジト目で言った。彗は苦笑しながら言葉を返した。
「事実だ。聞かされたことも、見てきたことも、すべて含めて――母は、自由な人だった」
返して――そしてしまった、と彗は目を見開いた。しかし、口にしてしまった言葉は覆しようがなかった。
何より、
「――え?」
目を見張り、信じがたい言葉を聞いたという風に驚くシャーロットの声が、彼女の驚愕を如実に表している。
自分の気の緩みを恨んだ。恨みながら、彗は何を言えばいいのか分からないという様子で困惑するシャーロットに向けて、
「……そういえば、お前にはまだ名乗っていなかったな」
一週間も剣を教えていたというのに、思えば未だ自分の名を口にしたことはなかった。ディアメルにしろアムリタにしろ、皆「スイ」とだけ呼んでいた。姓のほうは、誰も口にはしていなかった。
――さて、どんな反応をするか。
そんな場違いなことを考えながら、彗は自らの名を名乗った。
「彗。空凪彗。それが俺の名前だ。そして俺の母の名は――空凪箒だ」
なんてこともない、そんな様子で彗は自らの素性を明かした。シャーロットが見るからに表情を変貌させていく。
言葉もなく、ただただ少女は彗を見据えていた。何かを言おうとして、しかし言葉が出てこないのか視線を右往左往させてかぶりを振る。
そんなシャーロットの様子を見て、彗は我知らずの内に微笑を漏らした。瞬間、シャーロットが眉間に皺を寄せる。
「な、何を笑っている!」
顔を赤くしながらシャーロットは叫んだ。その赤らんだ理由が怒りなのか、羞恥なのかは知れない。そんな少女に向けて、彗は言う。
「聞かなかっただろう。どうして? と」
「そ、それは……」
彗の言葉に、シャーロットは狼狽したように目を泳がせ、
「……そうは、思えなかったからだ」
その言葉に、彗は驚いて目を見開いた。そして驚いて開いたままの口が綻び、自然とその言葉を口にした。
「――ありがとう」
刹那、シャーロットが飛び退いたのを見て、「なんだ、いきなり」と、半眼で彗が問う。シャーロットは刀を手にその切っ先を彗に向けながら叫んだ。
「いいいい、いきなりなんだ貴様は! れ、礼を言われることなど、私は言った覚えはないぞ!」
顔を真っ赤にして叫ぶシャーロットに呆れながら、彗はやれやれとかぶりを振りつつ彼女に歩み寄ると、「借りるぞ」と一言言ってひょいとその手に握る刀を奪い取った。
「な、何をする!」
「喚くな――いいか。一度しか見せない。だから、良く見ておけ」
文句を言うシャーロットに向け有無を言わさぬ言葉を投げつけると、彗はシャーロットと対峙する形で刀を構えた。
母の刀を手に、彗は静かに瞑目しながら意識を研ぎ澄ませる。そして記憶の奥に眠る母の姿を呼び起こし、かつて一度だけ見せてもらったことのある『それ』をイメージし、目を見開いて言った。
「――お前が母に憧れるのなら、これだけは覚えておけ」
その言葉をシャーロットが息を呑み――そして無言のまま首肯する。よろしい、と彗はうなずき返すと、シャーロットをしかと見据え、そして手にする刀に意識を移し――そして一歩、前に強く踏み出す。
――刹那、光芒が閃いた。
閃いた剣閃は、刹那のうちに八つ。極限まで速度を高めた、ただただ疾い八つの斬撃を伴って、彗はシャーロットの脇をすり抜ける。そのまま靴の底で地面を滑り、やがて勢いが止まった頃には随分な距離が開いていた。
振り返れば、そこにはあまりの衝撃に言葉もなく棒立ちになっているシャーロットの姿が見えた。彗は苦笑しながらその背に歩み寄り、頭にぽん……と手を乗せて言った。
「空凪古流箒ノ型――箒星。それが今の刀術の名前。母の編み出した技だ……ちゃんと視たか?」
「……ああ、視た」
「なら、上出来だ」そう言葉を残して、彗は拾い上げた鞘に《天枢ノ箒》を納めると、それをシャーロットの手に渡して踵を返し、
「良い夜を」
そう言葉を残し、その場を後にした。