地表の亀裂
地底を押し潰すようなあの一瞬の陥没が去り、不気味な余韻だけが湿原の底に溜まっていた。
東の空から注ぐ白む光は、泥と枯れ葦の隙間に残された無数の水たまりを冷ややかに照らし出していく。夜明けの湿風が地表を滑り、葦の葉先をかすかに揺らした。
ボグラールカの指先は、角弓の弦を絞りきった緊張からゆるやかに解放されていた。
だが、彼女は番えた矢を矢筒に戻しはしなかった。弓のノッチに矢筈を引っ掛けたまま、その視線はゆっくりとマールトの胸元から外れ、己の足もと――数瞬前に地盤そのものが垂直に削げ落ちた、その生々しい段差へと落とされた。
音もなく一歩を踏み出し、彼女は陥没の境目に片膝をつく。
泥炭層の断層からは、引きちぎられた葦や笹の根が黒い束となって削ぎ出されていた。落ち込んだ泥の亀裂からは、まるで地底が息を吐き出したかのように、濁った黒い水が不規則な泡を立てて逆流している。
右手の厚い鹿皮の手袋を歯で噛んで引き抜き、むき出しになった指先を、湿った泥の亀裂へと躊躇なく突き刺した。爪の間に黒い泥炭が入り込むのも構わず、泥の深部を指先で少しだけ浚い上げ、掌に乗せて鼻腔へ近づける。
立ち上ったのは、聖堂の香炉が放つような神秘の匂いでも、伝承に語られる怪物の生臭い血の気でもなかった。
数千年のあいだ光に触れることなく地中に押し込められていた泥炭層が、上からの圧力によって押し潰され、内部の水分とともに搾り出された古く饐えた植物質の臭気。泥は氷のように冷たく、触れたそばから指の関節の感覚を急速に奪い去っていった。
「……フシュー……」
左腕の上に留まる大鷹カルチャが、低く掠れた呼気を漏らす。
鷹の羽は寒さからではなく明らかな警戒によって逆立ち、その鋭い爪はボグラールカの皮護手を締め上げていた。厚手のアザラシ皮を突き破らんばかりの強い圧力が、彼女の腕の肉と骨に痛むほど伝わってくる。カルチャの首は固く固定され、その黄金色の瞳は自分たちが降りてきた北の山並みの影をまっすぐに捉えていた。
北の山は、もう戻れる場所ではなかった。
ボグラールカの脳裏に、数日前まで足を踏み入れた山林の生々しい光景が蘇る。幹から滴り落ちる漆喰のように粘りつく樹液。その樹液を舐めとった山鹿たちが、正気を失って自らの腹や腿の肉をむしり取り、血反吐を撒き散らしながら谷底へ跳んでいった惨状。沢の水は腐った硫黄の匂いを帯び、道を塞ぐ倒木は中から灰色の粉を噴いて崩れ去っていた。
北へ引き返せば、待ち受けているのは飢えと、山そのものが垂れ流す正体不明の病みだ。
ボグラールカは泥を握りつぶして立ち上がり、指についた黒土を外套の裾で無造作に拭った。
北の道は途絶している。そして足もとの泥は、南に向かってゆるやかに低く傾斜していた。目の前には、言葉を失った少年と、泥に濡れた羊皮紙を抱え込む男が佇んでいる。
ボグラールカは一度も彼らと視線を交わすことなく、ただ左腕のカルチャの重みを感じながら、南の空の下に広がる枯れ笹の海へと視線を据え直した。
風が吹き抜け、彼女の耳元で角弓の弦が小さく鳴った。
「ミシッ、グシャ……」
沈み込んだ湿原の静寂を破ったのは、骨と肉が擦れ合う鈍い音だった。
膝の関節が砕けた老泥馬が、灰色の巨体をゆっくりと前へ傾け、左脚を引きずるように踏み出したのだ。蹄が湿った泥炭を深く押し潰し、抜ける際に水気を孕んだ嫌な音を立てる。踏み込む場所によって泥の柔らかさは不規則に変形し、蹄が落ちる深さも一歩ごとに違っていた。傷口からは膿と薄い血が混ざり合った黄濁した液が滴り落ち、歩みを進めるたびに、皮と肉の隙間で関節の破片が軋んでいた。
馬に手綱はない。誰も行く先を指示してはいなかった。ただ南へ向かってわずかに低く傾斜している地表の勾配に従い、破砕した脚が交互に押し出されている。
マールトは、馬の太い首筋に右手をそっと添えた。
衣服の袖口から覗く彼の右手には、いまだ6本目の指の関節が小さく疼きを残している。少年の唇は固く結ばれ、声帯を失った喉からは吐息の音しか漏れない。彼は馬を引くでもなく、励ますでもなく、ただその不揃いな歩幅と、壊れた骨が泥を叩く周期に合わせて、並んで歩いていた。馬の皮膚の下を流れる血の気配すら希薄だったが、その脇腹に添えられたマールトの掌だけが、馬の壊れた運動を直に受け止めていた。
その二歩後ろを、アンドラーシュが重い足取りでついていく。
泥と乾いた血で硬くなった外套の胸元を手で押さえ、そこに滑り込ませた羊皮紙の束の感触を確かめていた。羊皮紙は濡れてズシリと重く、彼の肋骨を冷たく圧迫している。
追撃してきた教会の兵士たちは、あの底なしの泥沼へと沈み、跡形もなく消え去った。教会の記録官としての肩書も、住処も、身を守るための信仰も、すべてをあの沼の底に置き去りにしてきた。
「……ハァ……、ハァ……」
荒い息を吐きながら、アンドラーシュは何度もぬかるみに靴底を奪われそうになり、膝を揺らした。
行き場所を失い、追っ手から逃れ、北の山の病みから押し出された。だから南へ足を運ぶ。目的地を知る者は、誰もいなかった。
そして彼らの十数歩後ろを、ボグラールカが歩いていた。
彼女はマールトたちと視線を合わせることもなく、言葉を投げかけることもない。左腕に大鷹カルチャを据え、右手に角弓を携えたまま、彼らが泥の上に残していく足跡の少し外側を、一定の距離を保ってトレースしている。彼らが立ち止まれば距離を置いて足を止め、歩き出せばただ足を進める。
枯れ笹の海が、風を受けてカサカサと乾いた音を立てて擦れ合う。
砕けた膝を引きずる老馬の重い足音、マールトの擦り切れた靴の音、アンドラーシュの荒い呼吸、そしてボグラールカの皮履が笹を踏みしめる静かな足音。
言葉も目的も共有せぬ者たちは、ただ大地の勾配に流されるまま、南の大草原の暗がりへと歩みを進めていった。




