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大草原の徴(しるし) 〜タルトシュの馬飼い〜  作者: 武陵隠者
第5章『地平の五線譜』

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星の喪失

 地平の端で太陽が没すると、大草原の夜は圧倒的な暗黒となって降り積もった。


 どこまでも平坦な草の海を渡る風は遮るものを持たず、夜露を含んで肌を刺すように冷たい。追手の手目を恐れ、また湿原から漂う不穏な気配に身をすくめるように、一行は火種すら立てずに暗がりの中に身体を潜ませていた。


 マールトとアンドラーシュ、そして膝の砕けた老泥馬がうずくまる場所から、少し離れた風下にボグラールカは座していた。


 笹の葉が擦れる微かな音の隙間に、刃物が乾いた肉を削ぎ落とす規則的な音が混じる。ボグラールカは膝の上に置いた鹿革の袋から塩漬けの干し肉を取り出し、小刀の刃先で細かく薄く削り取っていた。乾燥しきった肉の筋が切れるたびに、わずかな脂と乾いた塩の匂いが冷気の中に立ち上る。


 彼女は削り落とした肉片の小さじ一杯ほどを、左腕の上にじっと留まるカルチャの前に差し出した。大鷹は鋭い嘴をのばし、肉片を噛みちぎる。骨の音を立てて肉を呑み込む鷹の首筋の動き、嘴が皮護手を突く小刻みな振動。それらはすべて、この暗闇の中でボグラールカの身体に繋ぎ止められた数少ない確かな感覚だった。


 肉を削る手を止めず、ボグラールカは静かに耳を澄ませた。


 初秋の夜であれば湿地の縁に必ず群がっているはずの水生バッタの羽音が、どこをどう探しても聞こえてこない。風向きが変わったからでも、冷え込みが厳しくなったからでもなかった。あるはずの生き物の声だけが、そこだけ刃物で削ぎ落としたようにぽっかりと抜けていた。


 ボグラールカはゆっくりと顔を上げ、夜空を仰いだ。空には雲ひとつなく、冷たく澄み切った暗黒の中に幾千もの星々が鮮烈な光を放っている。


 だが、彼女の眉間には深い皺が刻まれた。


 北の山稜の最も低い窪みから、指三本分上にある「標の星」。彼女はその位置関係を、肉体の記憶として知っている。


 いま見上げている標の星は、山並みの影に対して指一本分、東へと傾いていた。


 星が消えたわけでも、異様な色に光っているわけでもない。だが、彼女の肉体に刻まれた「北」の軸と、目の前の空が示す角度が、どうしても噛み合わなかった。


 ◇


 数歩隔てた闇の中で、アンドラーシュもまた地面に片膝を立て、羊皮紙の控えにしがみついていた。


 上空の薄月が落とす蒼白い光を頼りに、彼は指先で羊皮紙の表面をなぞる。泥と血で汚れた羊皮紙は湿気を吸って重く波打ち、乾いたインクの匂いを放っていた。


 彼の指先が、羊皮紙の欄外に記された古い注釈の箇所で止まる。


 『地ノ下ニ、腹ヲ持タヌモノアリ』


 かつて何者かが墨で残した一文。彼は縋るように、その下の行へ指先を走らせた。


 だが、月光に透かした羊皮紙のその部分は、過去の筆録官の手が擦れたのか、墨が薄く滲んで途切れていた。


 『……其ノ呼吸ハ……ニシテ、地表ノ……ヲ蝕ム。故ニ……』


 重要な記述は、文字の形すら留めずに失われていた。


 アンドラーシュは羊皮紙の余白に、固い小枝の先で図形を描き出した。修道院の天文書で学んだ球面天文学の知識。北の極星を中心とした星々の運行角度。彼は頭の中に張り巡らされた網目を頼りに、正当な「方位」を導き出そうと小枝を動かす。


 だが、幾何学の法則をそのまま適用すると、自分たちの立っている地盤は本来あり得ない角度へ傾斜していることになってしまう。


 小枝を動かす彼の指先が、空を切るように震えて止まった。


 ◇


「フ……フシュー……」


 ボグラールカの左腕の上で、カルチャが低く掠れた声を漏らした。


 ボグラールカが腕を少し押し上げると、大鷹はバサリと羽音を立てて夜の暗闇の中へ高く舞い上がった。上空で大きく一度、円を描く。


 カルチャは一度、北へ向かって鋭く翼を傾けた。


 だが、すぐに低く失速し、軌道を戻した。


 もう一度大きく飛び立とうとしても、同じだった。南へ向かって滑空しようとしては翼をあやふやに揺らし、旋回を繰り返す。方角を失ったカルチャは、逃げ込むようにボグラールカの皮護手へと舞い戻ってきた。


 鋭い爪がアザラシ皮を突き破らんばかりに締め上げられ、鷹の身体が小刻みに震えているのが伝わってきた。


 ◇


 その沈黙の渦中で、マールトは地面に座り込み、己の右手を見つめていた。


 袖口から覗く彼の右手に刻まれた、6本目の指。そのいびつな関節が、脈動とは異なる周期で、小さく、硬く疼いた。


 ゴトン、と。


 音ではなかった。骨の内側を硬いものが一度だけ叩いた。


 大地の下で、巨大な噛み合いが牙をひとつだけ外したかのような、短く、底打つ振動が突き上がる。


 老泥馬が重い頭を一度だけ低く振った。アンドラーシュは羊皮紙を抱きしめたまま凍りつき、ボグラールカは弓の柄を固く握りしめた。マールトは6本目の指を左手で強く押さえ込み、地面へと視線を落とす。


 誰も動かなかった。ただ、壊れ始めた大地の暗がりだけがそこにあった。

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