地の底の不協和音
老泥馬がすっぽりと射線を塞いだことで、一瞬の膠着状態が訪れていた。
ボグラールカの指先は引き絞られた弓弦にかかったままだ。弓を僅かに引き戻しつつも、その眼光は馬の太い首の向こう側に潜む少年を逃がさぬよう鋭く研ぎ澄まされている。
アンドラーシュは両手を挙げ、湿った泥の中に這いつくばったまま、息を殺していた。
動けば放たれる。
喉元を鹿角の鏃で穿たれ、あの泥の底へ追撃隊と同じように沈められる。それだけの死線が、冷たい朝靄の中でピンと張り詰めていた。
胸元に押し込まれた羊皮紙の束が、激しい鼓動に合わせて荒い肋骨を圧迫する。
書架の暗闇で命を削って写本してきた、正統なラテン語の判例や厳格な判決録。自分をこの恐ろしい荒野へと駆り立てた「知識」のすべてが、今やこの狩人の前では無力な紙きれに過ぎなかった。言葉を通わせることも、釈明することもできない。文字を持たぬ者に、文字の理屈は届かないのだ。
だが、アンドラーシュは泥に濡れて張り付き合った羊皮紙を、震える指先で手繰り寄せた。
羊皮紙の束の終わり近く、余白が大きく取られた三枚目の下端で、彼の指が止まる。そこにあったのは、正規の記録ではなく、過去の筆録官が残した乱雑な余白の悪戯書きだった。
――『地ノ下ニ、腹ヲ持タヌモノアリ』。
悪魔の名でも、異端が崇める神の名でもない。ただの不気味な一文。
その時、老馬の腹の下で丸くなっていたマールトの右手が、小さく跳ねた。
衣服の袖の陰で固く握りしめられていた右拳――その端にある「6本目の指」が、まるで心臓のようにドクン……ドクン……と不規則な脈動を刻み始めている。
直後――大地の底から、不吉な音が響いた。
ゴゴゴゴゴ……ッ!
それは落雷の音でも、遠くの崩落音でもなかった。
地面そのものが、内側から重い溜め息をついたかのような、低く不快な地鳴り。
ボグラールカの表情が一変した。
足もとから突き上げる振動に身体の軸がグラリと揺らぎ、鋭い眼光がマールトから地面へと叩きつけられる。彼女の腕に留まっていた大鷹カルチャが、羽を乱狂させて「キィィィッ!」と悲痛な悲鳴を上げ、北方――山の頂を目指して一気に飛び立った。
泥炭地帯の水面が、不規則な細かい波紋を散らし始める。
追撃隊を呑み込んだ黒い泥が、まるで下から巨大な何かが息を吸い込んだかのように、ズル……と数インチ落ち込んだ。
「フシュー……ッ!」
老泥馬が耳を前方に倒し、北の山並みに向かって激しく鼻を鳴らした。
灰を食らった馬の異形なる野性が、地底の唸りに強く反応している。
ボグラールカの弓先がゆっくりと下りていった。
だが、鹿角の矢を番えた弦から、彼女の指先が離れることはなかった。北の深山で起きていた不気味な気配と、この湿原の底を走った衝撃が一本の線で繋がり、彼女は驚愕の面持ちのまま、遥か北の山影を見つめていた。
アンドラーシュは泥の中からゆっくりと体を起こし、胸元の羊皮紙の束を強く抱き直した。
言葉は通じない。
互いを理解することも、歩み寄ることもない。
北方の方言を喋る狩人も、言葉を失った異形の少年も、壊れた老馬も、過去の記述にしがみつく知識人も。
全員がただ無言のまま、同じ「地の底の不協和音」を聞いていた。東の空から差し込む冷たい朝光の中、静まり返った湿原に呆然と佇む四つの影を、白み始めた空が静かに照らし出していた。




