山と草の交差点
追撃隊の叫びも、もがく重装兵の鉄鳴りも、すべてが底なしの泥炭層へ沈み、湿原には冷ややかな静寂が戻っていた。
焦げた聖油の匂いが消え去り、代わりに湧き上がる腐泥の生臭さにアンドラーシュが膝の震えを押さえ込もうとした、その時である。
「――キィィィィヤッ!」
頭上から降り注いだのは、夜空の冷気を力任せに引き裂くような甲高い金切り声だった。
直後、激しい風切り音が頭上を洗った。葦の先端がざわめき、大きくしなる。アンドラーシュが咄嗟に身をすくめると、視界をかすめたのは巨大な影――翼長が人の背丈を超える一羽の大鷹だった。
猛禽は湿原の上空を低空で旋回し、その鋭い黄金色の彩虹で下界を見下ろしている。その眼光に宿っていたのは、剥き出しの食欲だけだった。
大鷹が捉えていたのは、マールトの鼻から滴る生の血の匂いと、老泥馬の砕けた左膝から滲み出る膿の腐臭だった。傷ついて動けない「死肉」の到来を確信した猛禽が、旋回速度を上げて降下態勢に入る。
その羽ばたきに応じるように、追撃隊が呑み込まれた泥沼のすぐ対岸――枯れ葦の密集地帯を割って、ひとつの影が身を起こした。
黒く鞣した獣皮の外套に身を包み、膝下を頑丈な革脚絆で固めた人影。北方の山林地帯を巡る狩人――ボグラールカだった。
彼女は追撃隊が泥に呑み込まれていく一部始終を、息を殺して葦の陰から見届けていたのだ。その冷徹な視線が、泥炭の淵に佇む異様な者たちを捉える。
血を流す少年。
膝の骨を粉砕させながら立つ歪な老馬。
そして、胸に羊皮紙を抱えて喘ぐ元記録官。
北の山で目撃してきた異常――あの雄鹿や、幹から滲み出る膿と同じ匂いが、目の前の者たちから漂っていた。山に生きる者としての冷酷な直感が、即座に彼らを「退治すべき異変」と判断する。
ボグラールカの手動きに躊躇はなかった。背負った筒から黒ずんだ鹿角の角弓を引き抜くや、手慣れた所作で矢を番え、一瞬で弓弦を引き絞る。
ミシミシ……、ギチ……。
極限まで撓んだ角と木材が圧迫し合う生々しい音。鋭い鹿角の鏃は、迷うことなくマールトの胸元を一心に捉えていた。
「待ってくれ! 我々は追っ手から逃れてきただけだ。害意はない――!」
アンドラーシュは泥に濡れた両手を掲げ、ラテン語と古い方言を交えて狂おしく叫んだ。
だが、放たれた言葉は夜風に吹かれる枯れ葦の雑音にしかならなかった。ボグラールカの眉根は微動だにしない。何を言っているのか理解できない叫びなど、風の音と変わりなかった。
大鷹がボグラールカの左腕の厚皮護手へ舞い下り、鋭い爪で皮を激しく軋ませる。
「クク……、キィ」
猛禽の視線が捉えていたのは、少年の右手――袖の陰で固く握りしめられた、六本目の指が小さく動いた瞬間だった。
アンドラーシュの言葉は誰にも届かない。だが、狩人の直感、猛禽の知覚、少年の異形の身体だけが、不気味な正確さでお互いを読み取り合っていた。
マールトは逃げようともせず、ただ底なしの泥水と同じ重い静けさを湛えた瞳で矢先を見つめていた。ボグラールカの指先にかかる圧力が上限に達し、まさに弦が解き放たれようとした、その瞬間――
「メキ……、ゴツン」
凄惨な骨音とともに、老泥馬の灰色の巨体が不格好に割り込んできた。
馬は威嚇するでもなく、襲いかかるでもない。ただ砕けた左脚を泥の中に力任せにめり込ませ、太い胴体をもって少年の華奢な身体をすっぽりと覆い隠したのだった。
「……ッ」
ボグラールカの眼光が揺れた。
射線は、傷口から体液を垂らす老馬のぶ厚い肉体によって完全に遮断された。矢を放てば馬の肉に刺さるだけで、背後の少年を穿つことはできない。馬はただそこに立ち、ボグラールカへ灰色の顔を向け、不機嫌そうに「フシュー……」と荒い息を吹き出している。
弓を構えたまま立ち尽くす狩人。
言葉を持たぬまま、肉体で遮る老馬。
そして、その影で呼吸を殺す異形の少年と知識人。
人間の言葉は一つも届かないまま、東の空がゆっくりと白み始め、夜明けの冷気が湿原をうす墨色に染めていった。枯れ葦を揺らす風の音と、引き絞られた弓弦の細い糸鳴り、そして老馬の荒い吐息だけが、解きほぐしようのない緊張を保ったまま響き続けていた。




