灰を喰う馬の蹄音
枯れ葦の密集地帯を抜けた先には、死んだような静寂が広がっていた。
アンドラーシュの視界を塞ぐのは、月光を吸い込んで鈍く光る黒泥のぬかりと、その表面を覆う薄氷のような土の皮膜だった。一見すれば地足の利く平原に見えても、その下には何百年分もの腐濁した泥炭が底なしの暗黒を湛えて潜んでいる。
「……動くな、マールト!」
アンドラーシュは擦れ切った声で制し、手綱を引き絞った。一歩でも踏み外せば、自重でどこまでも沈下していく死地だ。
背後からは、着実に間合いを詰めてくる足音が迫っていた。湿った泥を踏み荒らす馬上追跡兵の蹄音と、徒歩兵の甲冑が擦れる冷酷な軋み。焦げた聖油の匂いが夜気の中で濃縮され、追手がすでに三十歩も離れていないことを告げていた。
だが、その死地に静止することを拒んだのは、馬だった。
老泥馬は灰の毒気を吸い込んだ鼻孔を「フシュー……」と荒く広げると、アンドラーシュの指示を完全に無視した。左膝の砕けた骨を「メキ……」と鳴らし、手綱とは逆の左手――水と泥が渦巻く闇の行き止まりへと、迷いなく舵を切った。
「な……!? 待て、そっちは――!」
アンドラーシュの制止は届かない。そこは人間から見れば、一際深く落ち込んで見える絶望の深淵だった。
だが、馬の鼻先は微細に蠢き、夜気の湿度の差と足下に眠る地層の硬度を嗅ぎ分けていた。
北風に折れた枯れ笹の節。
黒い油膜の切れ目。
そして、灰緑色の苔が這う僅かな筋。
それらはすべて、泥炭層の上に奇跡的な均衡で横たわる、一本の極細い「固い地層の脈」だった。
馬の背にすがりつくマールトは、呼吸を殺してその揺れに身を委ね、後ろを走るアンドラーシュの手を強く握り返していた。アンドラーシュもまた、足裏に伝わる地表の異様な硬さを感じ取っていた。
「……行ったぞ。逃がすな!」
追撃隊の指揮官の冷徹な声が夜気を叩いた。彼らの目には、脚の壊れた老馬が渡れた場所が、そのまま安全な道筋として映っていた。
「浅い地表だ。陣形を保ち、追撃せよ」
重装の甲冑をまとった兵員と軍馬が、老泥馬の残した惨めな足跡へとなだれ込んでいく。
破壊は、一瞬だった。
「――メキミシミシッ!」
枯草と泥が固まった地表の薄皮が、耐えかえられた歪みの限界を超え、生々しい悲鳴を上げて弾け飛んだ。
老泥馬が選んだ道は、一頭の馬と二人の逃亡者を支えるのが精一杯の薄皮に過ぎなかったのだ。そこへ、重装の鉄甲をまとった兵員と軍馬が一挙に乗り上げた。
乾いた土の表面が薄氷のように割れ、何百年間も空気を奪われていた黒粘土が、ジュッ……と気泡を吹き上げて跳ね上がる。
「なに――!? 引け、退が――」
指揮官の叫びすら完結しなかった。先頭の徒歩兵が腰まで一気になぎ倒されるように泥へ没する。もがいて体重をかけた瞬間、周囲の皮膜が連鎖的に崩壊した。
支えを失った軍馬が大きく嘶き、前脚を挙げて泥を掻き乱す。だが、その激しい運動が足下の崩落をさらに押し広げた。重い鉄の胸甲、肩当、水と泥を吸い上げた羊毛の外套――それらはすべて、泥の底では身を護る武具ではなく、確実に命を沈める鉛の重石へと姿を変えていた。
「足が……上がらん! 掴ま――」
「離せ! 引きずり込まれ――」
隊列の統制は一瞬で瓦解した。仲間を助けようとした者も、もつれ合うように泥の穴へと倒れ込んでいく。
ゴブ……ドブツ……と、冷たい粘土が空気を押し出す不気味な泡立ちの音だけが湿原に響く。助けを呼ぶ手も、柄を握りしめた槍も、泥の表面から一つ、また一つと途絶えていった。
やがて、泡の弾ける音すら消えた。
底なしの泥炭地帯には、何事もなかったかのように再び静寂が降り積もる。
泥の表面、月光を浴びて鈍く光るぬかりの上に、一つだけ鉄の兜がポツンと浮いていた。追撃隊の指揮官が被っていたものだ。
ジュッ……。
最後の空気が抜ける音とともに黒い泥が鉢の縁を乗り越え、鉄の兜は静かに泥の下へと没した。
跡には、水面に広がるかすかな油膜の円環だけが残された。
マールトは老泥馬の首筋に顔を埋めたまま、荒い呼吸を繰り返している。馬は左膝の骨を鳴らしながらも、ただじっと冷たい夜風の中に立ち尽くしていた。




