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大草原の徴(しるし) 〜タルトシュの馬飼い〜  作者: 武陵隠者
第4章『灰を食むもの』

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追跡する伏兵

 大地の深部を震わせた不吉な脈動が去った直後、風向きが変わった。


 廃屋の隙間から滑り込んできた夜気に、長年の書庫暮らしでは決して嗅いだことのない生々しい異臭が混ざる。濡れた厚手の羊毛が放つ油脂の臭気、油と鉄の混ざり合った殺伐とした錆臭さ。そして――鼻奥を刺すように粘りつく、あの嫌に甘ったるい聖油の残り香。


 アンドラーシュは息を呑み、書けなかった束状の羊皮紙を無意識に懐へ深く押し込んだ。


 ジャリ……ジャリ……。


 廃村の外囲いの向こうから、冷酷なまでに揃った革底の足音が近づく。包囲網はすでに完璧な円となって廃屋を押し潰しにかかっていた。


 壁の歪んだ隙間から、鈍い鉄色の光が漏れる。


 崩れかけた土塀を割って現れたのは、消音の麻布を馬銜(はみ)に巻きつけた騎馬の影だった。先頭の兵員が掲げる鉄燭台から、オレンジ色の火光が垂れ落ち、廃屋の土間を赤く染め上げる。


 破断した大腿の関節を歪に折り曲げたまま自立する、老泥馬の巨大な影。


 そしてその足元で鼻血に汚れ、右手の多指をしがみつかせている少年マールト。


「放火《や》れ」


 低い命令が夜気を引き裂いた。


 問答も、審問もない。燭台の火炎が廃屋の朽ちかけた茅葺き屋根へと一斉に投げつけられた。バチバチと猛烈な音を立てて黒煙が上がり、熱風が土間へとなだれ込んでくる。


 マールトが動いたのは、まさにその瞬間のことだった。


 少年は無言のまま老泥馬の首筋にしがみつき、鼻血の混ざる息を荒く吐きながら、アンドラーシュの袖を強く引いた。引きちぎらんばかりのその力の込め方に、金縛りに遭っていたアンドラーシュの身体が跳ね起きる。


 二人と一頭は老泥馬を挟むようにして、崩落した土壁の隙間――夜の荒野へと躍り出た。


「ハッ……、はぁっ、はぁっ……!」


 走り出してわずか十歩で、アンドラーシュの肺が焼き切れるような悲鳴を上げた。書架の間しか歩いたことのない脚は泥と枯草に足を取られ、そのたびに惨めにもたもたとなぎ倒される。懐の羊皮紙が肋骨を強く圧迫した。


 だが、それ以上に惨絶だったのは、傍らを疾走する老泥馬の足音だった。


 ズザ……、メキ……。


 右膝の砕けた骨同士が擦れ合い、肉を内部から破り潰す摩擦音が、闇の中に響き渡る。灰を食らったことで宿った理不尽な生命力が、壊れた肉体を強引に駆動させていた。だが、その脚が地を擦る音は、追撃隊へ自らの位置を告げる明らかな標識となっていた。


 背後から迫る足音がある。消音布を巻かれた馬具の軋みと、規則正しい靴底の打撃音。


 追手は、走ってさえいなかった。追い詰めるのは時間の問題だと確信している者の、確実で静かな足取り。


「待て……マールト、そっちは……!」


 前方を走る少年の背を追いながら、アンドラーシュの靴底が急激な変質をとらえた。枯草の下で足が濡れた粘土と苔に滑り、足首から不快な冷酷さが立ち上る。


 泥炭地帯《ボグ》。


 人間の背丈を超える枯れ葦の群落に入り込んだ瞬間、視界は完全に奪われた。表層の雑草の根を一皮剥けば、そこは何百年分の腐爛した植物が泥水と混ざり合う、底なしの暗黒だ。


「ひっ……!」


 爪先が不気味に沈み込み、アンドラーシュは不格好に尻餅をついた。手をついた場所から、ジュッ……と気泡の弾ける音が立ち上る。眼前に広がっているのは、黒く光る底なしの泥の池。行き止まりだった。


 背後から、赤黒い火光と焦げた聖油の匂いが迫ってくる。追手は沈黙したまま、泥に沈みかけて動けない者たちを捕殺するため、静かに歩幅を狭めてくる。


 マールトは老泥馬の太い首筋に両腕を回し、顔を押し当てたまま身を縮めていた。


 そのとき、少年の頬に、馬の皮膚を透かして異様な振動が伝わった。


 老泥馬の耳が、ぴんと後ろに向かって限界まで伏せられる。灰を食らい、砕けた膝を歪ませて立っていたその巨躯の腹の底から、空気を震わせる音が漏れ始めていた。


 ゴゴゴ……、グルル……。


 それは馬の嘶きでも、苦悶の呻きでもなかった。大地そのものが岩盤を擦り合わせているかのような、深く重い低音の振動。


 灰の毒気と熱を蓄えた老泥馬の胸郭が大きく膨らみ、その眼球が、異様な鈍色の光を宿して追撃隊の方角を見据えていた。

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