知識の不全
頭上から見下ろしてくる巨躯から、生温かい蒸気が湿った波となってアンドラーシュの顔を撫でた。
「……あ……あり得ん……」
唇が激しく震え、掠れた声がこぼれ落ちる。
アンドラーシュの頭脳の奥底で、彼が半生を費やして羊皮紙に書き写してきた知識の体系が、すさまじい音を立てて軋み、崩壊していた。
解剖学の描版も、聖堂の地下書庫に並ぶ古今東西の獣医学も、いま目の前に佇む現象を明確に否定していた。骨の支持を失った肉は地を幾重にも這う泥でしかなく、断ち切られた靱帯で四足獣が自重を支えることなど不可能なのだ。それが世界を統べる絶対の法則であり、人間が言葉によって分類してきた「理」の境界線だった。
だというのに。
ガリ……と、不格好に湾曲した膝を引きずり、蹄が硬い土間を噛む。
破断した骨の尖端同士がギリギリと擦れ合う悪寒のするような音を響かせながら、老泥馬は確かに立ち、鼻孔から熱い息を吐き出している。
「……ッ、……オッセウス……骨の……不全における……」
アンドラーシュは震える唇で、必死に学んだ言葉を口走ろうとした。術語によって現象を縛り直し、理性の側に引き戻そうともがく。だが、乾ききった舌が上顎に貼りつき、吐き出されるのはもつれた雑音だけだった。
間違っているのは自分の目なのか。それとも、自分が正解だと信じて疑わなかった学問の方なのか。
足の裏から力が急速に抜けていく。アンドラーシュは壁に背中を擦りつけながら、崩れるように土間へ膝をついた。
「……何なのだ、これは……何なのだ……!」
爪が土を深く抉る。
足元に虚脱したまま座り込むマールトの口元から、黒ずんだ血が土間へ滴り落ちていた。荒い息を吐く少年の右腕――あの「6本目の指」は、使い潰された道具のように赤く腫れ上がり、不気味な熱を帯びて痙攣している。
かつて地下記録庫で写本した『異形児処分報告書』の冷酷な一文が、脳裏を掠めた。
『神ノ秩序ヲ乱ス剰余ノ肉ハ、大地ニ還スヲ可トス』
正しき姿形から外れたものを「忌み子」として切り捨ててきた神学の教え。人知の学問のいずれもが救うことの出来なかった破滅の肉体を、人間が「不要」と断じた余剰の爪先が、いま目の前で力任せに動かしている。
このままでは理性が泥の中に溶けて消えてしまう――恐慌に駆られたアンドラーシュは、膝の上に這うようにして旅鞄を手繰り寄せた。
革の留め金を外す指先は凍傷にかかったように滑り、何度も空を切る。すがるように引っ張り出したのは、使い古された束状の羊皮紙と、角壺に入った墨汁、そして研ぎ澄まされた鉄筆だった。
自分は記録者だ。文字に捉え、名前を与えさえすれば、この狂気を再び理性の檻の中に閉じ込められるはずだった。
「……ふ、ぅ……記録を……言葉を……」
だが、焦る指先が羊皮紙の端を強く掴みすぎた。
バリッ、と乾いた羊皮紙が容赦なく裂け、破片が膝の上から土間へ虚しく舞い落ちた。
「あ……」
喉から哀れな悲鳴が漏れる。アンドラーシュは壊れた人形のように固まり、裂けた紙の断面を見つめた。
震える右手でどうにか鉄筆を握り直し、角壺の液面に深く浸す。しかし、紙の上に筆先を当てようとした瞬間、彼の腕は金縛りに遭ったように停止した。
「奇跡」ではない。「魔術」でも「呪い」でもない。頭の中に浮かんでは消える既知の単語群が、どれも浅はかな嘘に思えてくる。どのような言葉を当てはめてみても、いま目の前で泥と血を撒き散らし、息づいている生の蠕動を、なにひとつ説明などし得なかった。
迷いと恐怖で激しく震える手元から、鉄筆の穂先が滑った。
ぽたり。
紙の余白に、濃密な黒い墨汁の雫が落ちた。
墨は乾いた羊皮紙の繊維にしわじわと染み込み、生き物のように不気味な円を描いて広がっていく。まるで、マールトの右手にへばりつく「6本目の指」が世界に残した、解読不能なシミそのもののようだった。
アンドラーシュは固まったまま、その黒いシミを凝視していた。
先ほど指先で舐めた、馬の体液の歪んだ塩気が、舌の根奥でいつまでも不快に痺れている。
廃屋の暗がりの中、紙の上の黒い染みだけが、重く、静かに膨らみ続けていた。




