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大草原の徴(しるし) 〜タルトシュの馬飼い〜  作者: 武陵隠者
第3章『調律の産声』

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命の理の調律

 指先の肌を通じて、脳の髄に直接流れ込んできたのは、生々しく胸の悪くなるような肉体の「滞り」の地図だった。


 頸脈の奥で固まった黒い血塊。破断した骨の周囲で石のように硬直した筋膜。そして、気管から肺の奥底までを重く押し潰す不純な灰と粘土質の泥。


 傷を癒やす「奇跡」などどこにもない。マールトにあるのは、この「余剰の肉」が勝手に読み取ってしまう詰まりの構造と、泥に埋もれた樋を棒切れで打つような荒々しい介入の術だけだった。


 どこに力が加わり、どの筋膜が引きつっているのか。どこに溜まった泥を押し流せば、途絶えた巡りがほんの僅かでも再び動き出すのか。


「……そこだ」


 マールトは両膝を土間に深く打ちつけ、体重のすべてを右手に乗せて、6本目の指を馬の首筋の結節部へと突き立てた。


 ザックリ、と硬い皮毛と皮膚が押し潰される重い感触が伝わる。爪が肉に食い込み、余剰の肉芽が押し潰される激痛に背筋が跳ね上がった。だが、退かない。


「ぐ、うあぁぁっ……!」


 押し込む。


 馬の体内で「ゴゴ……ズリリ……」と肉と筋膜が強引に引き剥がされる湿った擦過音が響き、堰き止められていた黒い濁血の塊が、押し開かれた隙間へと爆発的な圧力でなだれ込んでいった。


「がっ……、」


 逆流した猛烈な圧力が6本目の指を駆け上がり、マールトの胸郭を内側から叩き割るように襲う。馬の体内の塞がりをそのまま己の肉体で引き受けたかのような錯覚に視界が真っ赤に染まり、ぽたぽた、と黒ずんだ己の鼻血が土間へ叩きつけられた。


 だが、閉塞は穿たれた。


「ブシャッ……ッ!」


 老泥馬が落雷を受けたように跳ね上がり、大きく開かれた口と鼻孔から、粘つく黒い泥水と灰の固まりを大量に撒き散らした。泥水は勢いよく土間に叩きつけられ、マールトの膝やアンドラーシュの着物の裾を汚す。


 気道が開き、馬の胸郭がゴゴ……と湿った重い音を立てて膨らんだ。「ハ……グ……ッ」と空気を貪る生の喘ぎ。


 馬の体内で、途絶えていた巡りが動き始める。しかしそれは美しい流動ではない。崩れた土砂が濁流となって強引に川底を削りながら流れるような、暴虐な循環だった。


 冷え切っていた馬の体表からじわじわと鈍い「熱」が湧き上がり、生温かい水蒸気が廃屋の冷気と混ざり合って白く霞んだ。


 破綻した構造のまま、崩壊に向かっていた肉体が「壊れたまま動かされてしまった」のだ。


 老泥馬の巨躯がくの字にしなり、前脚の蹄を泥まみれの土間に突き立てた。


 「……立つ、気か……?」


 アンドラーシュの声が途切れる。


 馬が身を捩った瞬間、ズリ……メキ……と、外側へ飛び出しかけた砕けた骨片同士が強引に噛み合わさり、割れた木組みを無理やり噛み合わせたような痛々しい支点を作り出した。


 耳を限界まで後ろへ寝かせ、激痛に身を震わせながらも、巡りを取り戻した肉体は四本の脚で地を蹴る。


 メキリ、と関節が悲鳴を上げ、蹄が土間を深く削り取る。


 崩れかけた天井を覆うほどの巨躯が、揺らめく影を引き連れて、ずるりと持ち上がった。立ち腐れた膝は異様な角度に湾曲したままだ。


 けれど、馬は立った。


 「ブルル……ッ」


 鼻孔から吹き出された熱い呼気とともに、歪んだ右膝をズル……と引きずり、一歩を踏み出す。


 ガリ、と蹄が硬い土を噛む。不自由で、見る者の胸を掻きむしるような凄絶な歩行。


 飛び散った泥と体液の飛沫を浴びたアンドラーシュは、震える指先で服の汚れを拭い落とそうとし、指についたその湿り気を確かめるように、無意識に唇へ触れさせた。


 舌を刺したのは、甘やかな生の味覚ではない。


 肉体が強引に駆動した摩擦と濁血によって生じた、重く歪んだ「塩気」だった。


 アンドラーシュは息を吸うことも忘れ、足元の泥と、目の前に立ち尽くす歪な巨躯をただ絶望の眼で見つめていた。

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