脈動する指
崩れ落ちた地鳴りのような余韻が、狭い土間に重く残っていた。
足元に横たわる老泥馬の巨躯は、埃の渦の中で不規則に隆起し、沈んだ。鼻孔から吐き出された泥混じりの灰から生温かい蒸気が立ちのぼり、腐ちかけた草と濁った血の生臭さが土間に充満する。
「……触るな! 下がるんだ、マールト!」
アンドラーシュの声が割れた器の擦れる雑音となって響いた。彼は正気を失いかけた眼で馬を見つめ、なりふり構わずマールトの襟首を掴んで後ろへ引き倒そうとする。
「それは生き物ではない! 死体が動き回るなどあってはならんのだ!」
爪が衣類に食い込み、布地が悲鳴を上げる。だが、マールトの身体は土間に深く根を張ったように動かなかった。
眼前にあるのは、悪魔の異容などではない。圧倒的な「苦痛の物質」そのものだ。
馬の横腹からは、規則正しい呼吸音の代わりにゴリ、ゴリ……ズリ……と、泥を噛み込んだ水車が悲鳴を上げるような歪な異音が漏れ出ていた。空気を吸うたびに折れた肋骨の尖端が内肉を突き刺し、皮毛を歪に押し上げる。
「来い……早く外へ……!」
アンドラーシュが叫び、さらに強く引っ張った。その瞬間だった。
じく、と右手の端に激痛が走った。
生まれ落ちた時からそこにあり、「余剰の肉」と蔑まれてきた6本目の指。普段は何の感覚も持たず、ただ冷たくぶら下がっているだけの肉片に、赤く焼けた鉄釘を骨ごと打ち込まれたような酷い鈍痛が突き抜けた。
「……ッ、」
息が止まる。痛みではない――これは「侵入」だった。
折れた骨が肉を裂き、粘つく泥が気管を塞ぎ、途絶えた血が管の途中で腐る。巨躯の体内で起きているすべての「塞がり」と「歪み」が、6本目の指を通じて、直接脳の髄へとなだれ込んできたのだ。
小指の脇の肉が、意思とは無関係に跳ね上がる。自分の心臓はトクン、トクンと乾いて速い音を立てているのに、指先から伝わるのは、ド・グ、……ド・グ、と引き伸ばされた重く冷たい不整脈。
二つの脈拍が脳の奥で激しく衝突し、天地が反転するような眩暈とともに猛烈な嘔吐感が込み上げた。
「おえっ……ぐ……っ」
マールトは膝をつき、透明な唾液を土間へ吐き散らした。糸を引く唾液が、馬の鼻孔から散った灰の粒を呑み込んでいく。
「マールト!? どうした!」
アンドラーシュの悲鳴が遠く聞こえる。耳底では、馬の体内で血が滞るドロ、ドロという不快音が鼓膜を内側から叩き続けていた。
全身の毛穴が縮み、激しい鳥肌が立つ。逃げ出したいという恐怖以上に、生理的な悪心が全身を打ち叩く。だが、マールトの身体は一歩も後ろへ下がろうとしなかった。
頭の中に急激に湧き上がったのは、幼少の記憶――厩の薄暗い陰で、冷え切った湿った藁の匂いに包まれながら耳にしてきた、あの低く重い呼吸音だった。疝痛に苦しみ、脚を折って二度と立てなくなった老馬の脇で、言葉を持たぬ獣の喉を撫で、荒い息を少しでも鎮めようとしていた大人の確実な手つき。
馬飼いの息子として骨の髄まで叩き込まれた肉体の習性が、恐怖で凍りつきかけた身体を突き動かしていた。病んだ馬を見捨てて立ち去ることは、その手つきを知る者にとって、自らの皮膚を削ぎ落とすのと等しい苦痛だった。
「……ッ」
マールトは嘔吐感を力任せに飲み込み、震える右腕を伸ばした。
伸ばした掌が、老泥馬の冷え切った首筋へそっと降ろされる。雨と泥に洗われ、干からびた血が固まった皮毛は、砂利のように硬くザラついていた。
触れた瞬間、世界が裏返った。
衝撃ではない。凄絶な「引き込み」だった。
視界の光も、アンドラーシュの気配も、すべてが漆黒の闇へ呑み込まれて消えた。同時に喉の奥から鼻腔にかけて、冷たく粘りつく黒泥と、苛酷な逃走行で馬が吸い込み続けた灰の強烈なえぐみが吹き出し、舌の根を麻痺させる。
マールトの胸郭は自分の意思を離れ、足元の老泥馬の歪な肋骨と完全に同じ速度で上下し始めた。
吸うたびに、折れた骨が内肉を削り取る激痛が背骨を貫く。
――トクン……。
馬の心音が不規則に響く。血が途中で凝固し、滞留している。心臓が動くたび、泥の詰まった管を強引に押し広げるゴリ……という酷い擦過音。
――……トクン。
途絶える。この巨躯の命が尽きると同時に、同期した自分の心臓も止まる――そう直感した瞬間、爪先から絶望的な冷気が駆け上がった。
パキ……ン。
6本目の指の関節の奥で、留め金が外れたように乾いた音が弾けた。
熱だ。指の根元から過剰な体温が跳ね上がり、馬の体に溜まった滞流――塞ぎ止められた泥と腐血を一気に逆流させながら、マールトの右腕の血管を不気味に黒く浮き上がらせていく。
自分の肉体が、壊れゆく獣の「詰まり」を引き受けていた。
「……あ、ぐ……」
口から粘ついた黒い唾液が垂れた。二つの命の拍動が途絶えかけるぎりぎりの淵で、生々しい侵蝕の脈動だけが、暗闇の中に重く打ち震えていた。




