打ち捨てられた集落
風がやむと、世界からあらゆる湿度が削ぎ落とされたような沈黙が降り立った。
大草原の端、這いあがる泥の低地からなだらかな丘陵へと向かう途上に現れたその集落は、まるで干からびた獣の肋骨のように、立ち枯れた骨組みを晒していた。
人の姿はない。家畜の鳴き声も、竈から立ちのぼる煙の匂いすらなく、ただ乾燥した草の擦れる音が、からからと乾いた乾音となって平原を滑っていく。
アンドラーシュは、もはや足を踏み出すことすら出来なかった。視界の端が白く濁り、焦点を結ぼうとするたびに網膜の裏側で砂嵐のような眩暈が弾ける。
「……おい、立つな。動けばそれだけ……体の中の水分が失われる」
掠れた声を出そうとしたが、吐き出されたのは乾いた紙を揉みしだいたような雑音に過ぎなかった。
舌は上顎にへばりつき、喉の奥が収縮するたびに粘膜同士が擦れ合ってカサ、カサと微かな痛みが走る。飲んでも飲んでも肌から水気が蒸散していくのは、水ではなく「塩」が肉体から完全に抜け落ちたからだ。重鉛を詰めたような関節の痺れと、果てしない疲弊が体を縛りつけていた。
少年のマールトもまた、青白い顔を膝に埋めるようにして地を這っていた。彼も一言も発しない。言葉を持たぬ少年は、ただその痩せた首筋を折り曲げ、獣のような直感だけで前方を見つめていた。
二人が辿り着いたのは、集落の中央にある小さな広場だった。そこには石を積んで作られた浅い井戸が佇んでいた。
水だ。泥混じりでも漉して吸えれば――アンドラーシュは千切れそうな膝の関節を震わせ、四つん坊になって井戸の縁へと這い寄った。手垢で黒ずんだ滑車の木枠に縋りつき、暗闇を覗き込む。
だが、そこにあったのは生ある水面ではなかった。
井戸の底には、深い闇の代わりに、ひび割れた黒い泥の固まりがへばりついていた。汲み出し用の木桶は縄が切れ、干からびた泥に半分埋まったまま化石のように固まっている。
数メートル下の底からは、ただ冷たく乾いた粘土の臭いと、生き物を拒絶する空気が昇ってくるだけだった。
「ない……」
アンドラーシュは井戸の石縁に額を押し付け、かすかに呻いた。
「水がないのではない……塩だ。この地の水には、もう命を繋ぐ塩気すら含まれていない……」
草が吸い上げた微量の塩を獣が食み、その血を受けて人間が生をつなぐ。その環が途切れたとき、人は水すら体にとどめられなくなる。この集落を呑み込んだのは戦による破壊ではなく、塩の脱落という静かな死だった。
マールトが静かに手を伸ばし、井戸の縁の石肌を擦った。彼の指先――特に右手の「余剰の肉」と呼ばれる6本目の指が、冷え切った石に触れる。少年の喉がカツリと音を立てて鳴った。声にならぬ乾いた呼気が、廃村の静寂に吸い込まれていく。
日没とともに大草原の冷気が地表を覆い、凍てつく闇が集落の輪郭を塗り潰し始めた。
井戸から這い出た二人は、吸い寄せられるように広場に面した一軒の住居へ身を滑り込ませた。半ば傾いた土壁と腐ちかけた藁屋根。外れた木扉の隙間から夜風が吹き込むたびに、キシ……キシ……と乾燥した蝶番が悲鳴を上げる。
屋内へ足を踏み入れた瞬間、アンドラーシュの鼻腔を突いたのは、強い木腐れの臭気と冷え切った土の匂いだった。
「……火を、熾さねば」
アンドラーシュは震える膝を押さえ、土間へと這いつくばった。手探りで炉の跡を探す。指先に触れたのは、冷え切った鉄鍋の感触と、柄の折れた鍬の鉄刃だった。略奪の跡はない。生活の道具がそのまま残されているということは、住人は去ることもできずに消え去ったのだ。
囲炉裏の窪みに残された灰に手を突っ込む。湿り気を含んだ灰が指の隙間にこぼれ落ちた。熱の余韻などどこにもない。
灰を掻き集め、鼻先を近づける。だが、そこから立ち上ったのは、かつて羊の脂や乾草が燃えた甘やかな匂いではなく、舌の裏までざらつくような無機質な異臭だけだった。
人間の営みがある場所には、汗や食事によって必ず塩の気配が残るはずだった。アンドラーシュは壁際に置かれた小さな木箱を力任せに引き寄せた。箱の底をかき抱くように指で擦ってみる。
かつて肉を保存していたなら、木肌の隙間に塩の白い結晶が粉となってへばりついているはずだった。だが、指先が捉えたのは乾いた木粉だけで、舐めてみても舌を刺す塩気は一切ない。肉を収めていたはずの箱からは、腐った臭いすら残っていなかった。
「……逃げたのではない」
アンドラーシュは膝を抱え、土間に崩れ落ちた。歯の根が合わず、ガチガチと音を立てる。
「塩が途絶えたのだ。交易が途絶え、草が乾き、家畜の血から塩気が失われた。この村の者たちは……塩を求めて彷徨い出で、泥の中で力尽きたのだ……」
聖堂で学んだ記述も、統治の法も、この虚無の前には何の役にも立たなかった。
隣で膝を抱えていたマールトが、微かに身体を震わせた。
言葉を持たぬ少年は、土壁の隙間から差し込む月光の下で、じっと自分の右腕を見つめている。手袋の破れ目から覗く、あの6本目の指。蔑まれてきた不細工な肉芽が、冷え切った闇の中で、まるで意志を持つ生き物のようにドクンと一度だけ跳ねた。
月が冴え冴えと冴えわたり、廃屋の裂け目から差し込む光が、土間に落ちた塵を真っ白に浮かび上がらせていた。
静寂の奥から、何かが近づいてくる。
最初は風が枯れ草を撫でる音かと思った。だが、違った。
ズ……ズリ……。
重い肉のかたまりが湿った土を擦り、乾いた蹄が不揃いに地面を削る、粘りついた音だった。まるで巨大な死肉の塊を、目に見えない糸で引きずっているかのような、破滅的に遅く、覚束ない歩調。
アンドラーシュは息を呑み、腐ちかけた土壁に背中を押し付けた。追手か。いや、こんな足取りの人間がいるはずもない。
ズリ……コツン。
蹄が砕けた土器の破片を弾く甲高い音が響き、続いて、生き物の体内から漏れ出すような重苦しい喘鳴が闇を振るわせた。
グ、シュ……ハ……と、粘土を煮詰めたような濁った呼気。それとともに、木腐れ臭を塗り潰すほど強烈な、湿地の泥の臭いと生肉の刺激臭が土間に流れ込んでくる。
月光が照らし出す戸口の暗がりに、巨躯の影がぬっと現れた。
アンドラーシュの眼孔が限界まで見開かれる。喉から引きつった雑音が漏れた。
そこに立っていたのは、馬だった。
だが、それはまともな生の形を保った獣ではない。
過酷な逃走の果て、膝の関節を折られ、泥の低地に棄ててきたはずの老泥馬――あの時、死を待つだけだったはずの巨躯が、そこに佇んでいた。
左前脚の膝は本来折れ曲がるはずのない外側へと不自然に歪み、骨の尖端が皮膚を内側から押し上げている。歩くたびに破断した関節の肉がぐにゃりと潰れ、蹄は正しく着地することなく地を擦る。
露出した黒ずんだ肌からは、血ではなく粘り気のある灰色の体液が垂れ落ちていた。
「……あ……あ……」
アンドラーシュの理性が激しい拒絶反応を起こした。
骨折した馬が歩けるはずがない。彼が学んできた一切の博物学的知識も、目の前の現象を説明できなかった。壊れたまま、死ぬことすら許されずに動き続けている。
老泥馬は、ゆっくりと首を垂れた。
不自然に引きつった首筋の筋肉が細かく震えている。鼻穴からは粘ついた黒い泥と灰の混じった水泡が、呼吸のたびにプツプツと潰れていた。馬の濁った眼球は、アンドラーシュを見てはいなかった。
ただ静かに、土間に座り込む少年の姿――マールトだけを、その落ちぼくろのような暗い瞳で捉えていた。
「……下がるんだ、マールト!」
アンドラーシュの悲鳴は掠れた呼気となり、薄闇の土間に消えた。必死で少年を引っ張り込もうとするが、膝が激しく蠢き、身体は金縛りに遭ったように動かない。
老泥馬は踏み込んできた。
襲いかかるような獰猛さはない。ただ、己の肉体の壊れようにも気づいていないかのように、一歩、また一歩と歪んだ脚を引きずる。
その歩みに宿るのは敵意ではなく、ただかつて己を育んだ少年の手つきや匂いを覚えているかのような、破滅的な遅さだった。
マールトは逃げなかった。
全身の毛穴が収縮し、鳥肌が立つ。だが少年は、退こうとするアンドラーシュの手をすり抜け、膝立ちのまま近づいてくる巨躯から目を逸らさなかった。
馬の大きな頭部が、月光の射す土間へと下りてくる。
その瞳の奥底には、耐えがたい苦悶が渦巻いていた。
「……あ……」
マールトの喉から、声にならない吐息が漏れた。
馬はマールトの目と鼻の先で足を止めた。不自然に歪んでいた胸郭が大きく波打ち、ガクンと前脚の折れた膝が崩れ去る。
ズゥン……!
家屋全体を揺らすような重い地鳴りが起こり、土間の塵が舞い上がった。
老泥馬の巨躯は、マールトの足元へ倒れ込んだ。落下の衝撃で馬の鼻孔から「ブフッ」という破裂音とともに、泥と灰の混じった黒い塊が吐き出される。
馬の横腹が荒く、不規則に上下している。呼気のたびに、ヒュー……ゴロ……と、水と灰が肺の奥で泡立つような不快な音が混ざる。完全に息絶えたわけではなく、かといって生きているとも言い難い。
生と死の境界線上で身を捩る肉の巨体を挟み、マールトとアンドラーシュはただ息を殺して立ち尽くしていた。
冷え切った廃屋の中に、馬の苦痛に満ちた脈動だけが、重く不気味に響き続けていた。




