南の忌み地
厚い獣皮で覆われた長老の天幕の内部は、外の寒気とは隔絶された重苦しい熱気に満ちていた。
中央の炉からは不吉を払う乾燥野草の青白い煙が立ち上り、暗がりの中に坐す長老オロシュの深いシワの奥から、冷ややかな眼光がボグラールカを射抜いていた。
ボグラールカは膝をついた姿勢のまま、感情を殺し、狩人として観察した事実だけを静かに叩きつけた。
「罠にかかった鹿だけではありません。山の上層で出会った狐や山鳥の足跡も、すべて南のぬかるみへ向かって下りていました。痛みも恐怖も失った獲物たちが、まるで何かに吸い寄せられるように『忌み地』を目指しているのです。……ならば教えくだされ、長よ。なぜ生きる術を失った獣たちが、こぞって南へ向かうのですか」
問いの刃が投げかけられた瞬間、炉の炭がパチと爆ぜた。
教条的な言葉で突っぱねると思われたオロシュは、しかし怒鳴らなかった。沈黙が引き伸ばされ、落ち木のような老人の唇がかすかに震える。
深くくぼんだ暗い瞳の奥に浮かんだのは、頑迷さではない。遠い過去の記憶を呼び覚まされたかのような、色濃い濁りだった。
「……昔も、そうなった」
かすれた低い声が、煙の中に落ちた。ボグラールカは息を呑んだ。
「お前が生まれる前、わしがまだ若かった頃だ。山から鳥が消え、狂った獣がこぞって南の谷へ引き寄せられていった。……行った者は、誰ひとり戻らんかった」
オロシュはそれ以上、語ろうとはしなかった。重い手で膝を叩き、拒絶するように目を閉じる。
「知らぬほうが、生きられることもあるのだ、ボグラールカ。天幕へ戻り、祈りを捧げよ」
◇
その夜、ボグラールカは一度も深く眠ることができなかった。
天幕を打つ冬風の音を聞きながら、炭火の微かな明かりの下で旅の支度を静かに整えた。
頑丈な熊革の胸当てと、油を染み込ませた防寒用の狼皮の外套。干し肉のわずかな蓄え、火打ち石、塩。そして肩には、指になじんだイチイの弓。
古老オロシュに従い、明朝、谷底の肉を引き揚げに向かうフリをして部族を去る。
それが、彼女の出した答えだった。肉を引き揚げたところで、あの不吉な肉が部族を救うはずもない。山で何が起きているのかを自らの目で確かめない限り、この問いから逃れることはできなかった。
夜明け前、薄暗い天幕の隅で眠る二人の弟の傍らにかがみ込んだ。
泥のように眠る幼い頬。かじかんだ指先でそっと触れると、温かい血の通った、愛おしい家族の熱が伝わってくる。
(……ごめんな。勝手な姉で)
「逃げ出した」と責められるかもしれない。だが、南へ踏み出せば、二度とこの集落の火を囲むことは許されないのだ。ボグラールカは唇を噛み締め、静かに天幕をあとにした。
◇
集落の外れの断崖で、胸元の短角笛に息を吹き込む。音にはならない高音の振動が冬空を揺らした。
直後、暗鬱な雲を切り裂いて、巨大な影が滑空してきた。
バサァッ――
左腕に降り立った巨鷹カルチャの太い鉤爪が、革手革へずしりと食い込む。強靭な爪の圧力だけが、今のボグラールカにとって唯一の確かな道標だった。
「行くよ、カルチャ。もう戻らない」
巨鷹は短く喉を鳴らした。ボグラールカは村に背を向け、南へ続く峻険な尾根筋を走り始めた。
気味の悪い静寂に包まれた針葉樹林を抜け、数時間の強行軍の末、彼女は北の山脈の南端――「竜の顎」と呼ばれる断崖の頂に立ち立った。
そこが、山と世界の境界だった。
凍てついた岩肌を蹴り、崖の縁に立った瞬間、それまでの世界を覆っていた息苦しい閉塞感が不意に破れ去った。
「……あ」
ボグラールカの口から、かすかな息が漏れた。
眼下に広がっていたのは、北の山の暗闇を完全に吹き散らす、圧倒的な南の大草原だった。
波打つ地平線まで遮るものの何ひとつない、黄金色と褐色の草の海。冬の陽光を浴びた枯れ草の波が眩いばかりに煌めき、大地そのものが大きく息を吐き出しているかのような壮大な広がりがそこにあった。
吹き抜ける強烈な南風が乱れた髪を浚い、冷えた頬を叩いた。山を覆っていた湿った空気はない。乾いた草と大地の匂いを含んだ生の風が、胸の奥の重苦しい澱を一気に押し流していく。
「飛べ、カルチャ!」
左腕を突き出すと、巨鷹は歓喜の羽音を立てて大空へ躍り出た。バサリ、バサリと風を叩く大きな翼の音が、山での長い沈黙を鮮やかに塗り替えていく。
だが――広大な開放感の直後、狩人の視線が地平線の不穏を捉えた。
本来ならこの時期のプスタに大群をなして移動しているはずの、野馬や野牛の姿がひとつもない。見渡す限りの黄金色の草原は、不自然なほどの静寂に包まれていた。
それだけではない。遠く地平線の揺らめきの向こうに、炎の熱を感じさせない不自然な灰色の靄が、帯のように低く漂っていた。
そして、吹き付ける風に乗って――ほんのわずかに、あの喉を焼く「湿った薪の灰」の匂いが届いた。
カルチャが上空で鋭く一度啼き、迷いなく南の灰靄を目指して羽ばたいた。
ボグラールカは背の弓の柄を深く握り直し、冷え切った頬を両手で強く叩いた。
故郷を捨てた狩人は、圧倒的な光と不気味な灰靄が交錯する果てなき大草原へ向けて、静かに崖を駆け下りて行った。




