滲む灰
結局、ボグラールカはその肉を持ち帰らなかった。
解体した雄鹿の死骸は、切り開いた腹に大きな石を詰め、谷底の清流の底深くへと沈めた。川底の冷水に浸しておけば腐敗は遅れ、腐臭で余計な肉食獣を引き寄せることもない。
手にあるのは、異常を伝えるために切り取った一枚の太ももの肉片だけだ。それを硬いモミの葉で幾重にも包み、革袋へ押し込んだ。
彼女がそこまでしたのは、単なる野性の勘からではない。
鹿を沈めた後、ボグラールカは尾根のさらに上、部族が「祖先の膝元」と呼ぶ聖域の大樹へ足を伸ばしていた。幼い頃、亡き父から叩き込まれた「山の教え」を確かめるためだ。
『ボグラールカ、山が健やかであるか否かは、言葉ではなく樹液が教えてくれる。祖先の大樹が流す蜜は、山の血だ。その一滴を舐めて季節の機嫌を知り、狩りの許しを得るのだ』
樹齢数百年を数えるモミの大樹は堂々と聳え、幹の傷からは琥珀色の樹液が美しく垂れていた。子供の頃から何度も目にしてきた、清らかで完璧な「命の蜜」そのものだった。
だが――指先で拭い、舌に乗せた瞬間、ボグラールカは目を見開いた。
甘みなど微塵もなく、まるで濡れた薪の灰と黒く焦げついた煤を直接流し込まれたかのような、耐え難い不快感が喉を襲ったのだ。
激しく咳き込み、苔の上に吐き捨てた樹液は、何事もなかったかのように黄金色に輝いている。
さらに素手で幹に触れ、額を叩きつけるように押し当てた時、掌に伝わってきたのは命の健やかな鼓動ではなかった。己の胸の鼓動と微妙にズレた、不自然なひっかかり。二拍ほど正常に打ったかと思えば途切れ、引きずるように揺れる小刻みな不整脈。
見た目はどこまでも正常で、どこまでも美しい。しかし、中身だけが狂っている。
その不気味な体験が、彼女に肉を持ち帰ることを拒ませたのだった。
◇
山を下り、天幕群が見えてくると、夕闇の中に小さな焚き火の煙が幾筋も立ち上っていた。駆け寄ってくる弟たちの歓声が聞こえる。だが、手ぶらで戻ったボグラールカの姿を見ると、子供たちの声は困惑に包まれて小さく萎んでいった。
「……肉は、どこ?」
幼い弟の素朴な問いに、ボグラールカは答えることができなかった。かじかんだ手で弟の頭を一度だけ力任せに撫で、そのまま集落の奥――長老オロシュの天幕へと直進した。
天幕の中は、煙と乾燥させた獣脂の臭いが充満していた。
囲炉裏の火を囲んでいたのは部族の古老たちだ。中央に坐す長老オロシュは、落ちぼくのような深く刻まれたシワの奥から、冷ややかな眼光でボグラールカを見上げた。
「……手ぶらか、ボグラールカ。初雪の前の貴重な一日を、お前は無駄にしたのか」
「オロシュ様。これを見てください」
咎める声を遮り、ボグラールカは包みを解いて肉片を囲炉裏の脇へ差し出した。
「三番目の罠にかかった雄鹿です。見た目は太って健康的でしたが……暴れもせず、痛みすら感じていなかった。自分で己の首の肉を噛みちぎっていたんです」
古老たちが顔を見合わせ、かすかなざわめきが起きた。
「それだけではありません。聖域の大樹の樹液も、この肉の血の匂いも……不吉な灰の臭気が混じっています。『返らずの溝』からは生き物が消えました。山が……おかしいのです」
オロシュは無言のまま、短刀の先で肉片を突き、囲炉裏の爆ぜる火へかざした。
じわり、と脂が溶け出し、炎に落ちて小さな青い火花を散らす。
立ち上った煙が天幕内に広がった瞬間――沈黙が落ちた。
香ばしい肉の焦げる匂いではない。冷たい水底の泥と、湿った薪をくべた時に出るような、冷たく不快な「灰の匂い」。
古老の一人が思わず鼻を覆い、囲炉裏から顔を背けた。
オロシュの動かす短刀の指先が、ほんのわずか、目立たぬほどに止まった。老人の深いシワの奥にある瞳が一瞬だけ硬直し、燃える肉片を見つめている。
しかし、オロシュは静かに短刀を鞘に収めると、重々しく吐き捨てた。
「……塩を使えば食える」
「オロシュ様!?」
ボグラールカは声を張り上げた。
「匂いだけではありません! 聖域の樹液だって、見た目は澄んでいるのに灰の味がしたんです! この肉には目に見えない何かが――」
「喰ってみねば分からん!」
オロシュの怒号が天幕を揺らし、ボグラールカの言葉を叩き潰した。
「傷もない、腐ってもいない肉だ! 昔の飢饉の時は、皮履きすら煮て食ったのだぞ! 匂いが多少異様であろうと、火を遠くまで通し、塩を揉み込めば肉は肉だ! お前の『勘』とやらで、なぜ貴重な糧を捨てた!」
「勘ではありません! 現に、そこにいる皆も異臭に気づいている!」
「黙れ!」
オロシュの眼光が、刃のようにボグラールカを射抜いた。
「お前は狩人だ。山の不吉を語り、部族を怯えさせることがお前の仕事か? 天幕の前にいる幼子たちに、明日何を食わせる? その不気味な言いがかりで腹が膨れるか!」
「……っ」
「いいか。明日、若者を引き連れてその谷へ戻れ。川底に沈めた肉を引き揚げ、塩漬けにしろ。お前が引き揚げぬなら、他の若者にやらせる」
オロシュはそれ以上、口を開かなかった。囲炉裏の火影の中で、古老たちも視線を逸らし、固く口を閉ざしている。誰一人として、ボグラールカと目を合わせようとはしなかった。
「……わかりました。明日、私が肉を引き揚げに戻ります」
絞り出すように答え、ボグラールカはオロシュの天幕を飛び出した。
◇
夜の冷気が、熱を持った頬を痛烈に冷やしていく。
自室の天幕に戻ると、弟たちが不安そうに寄り添ってきた。ボグラールカは努めて静かに微笑み、彼らの頭を撫でたが、胸の奥の不吉な確信は消えなかった。
明日、何も知らない若い狩人たちを引き連れて、あの谷へ戻らなければならない。
危険を恐れぬ鹿が佇み、生き物の気配が消えた、あの狂った谷間へ。
ボグラールカは腰を下ろし、イチイの弓の弦をそっと指で弾いた。
ベーン――
低く澄んだ音が、暗闇の中へと静かに滲んでいった。




