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大草原の徴(しるし) 〜タルトシュの馬飼い〜  作者: 武陵隠者
第2章『北の爪痕』

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滲む灰

 結局、ボグラールカはその肉を持ち帰らなかった。


 解体した雄鹿の死骸は、切り開いた腹に大きな石を詰め、谷底の清流の底深くへと沈めた。川底の冷水に浸しておけば腐敗は遅れ、腐臭で余計な肉食獣を引き寄せることもない。


 手にあるのは、異常を伝えるために切り取った一枚の太ももの肉片だけだ。それを硬いモミの葉で幾重にも包み、革袋へ押し込んだ。


 彼女がそこまでしたのは、単なる野性の勘からではない。


 鹿を沈めた後、ボグラールカは尾根のさらに上、部族が「祖先の膝元」と呼ぶ聖域の大樹へ足を伸ばしていた。幼い頃、亡き父から叩き込まれた「山の教え」を確かめるためだ。


『ボグラールカ、山が健やかであるか否かは、言葉ではなく樹液が教えてくれる。祖先の大樹が流す蜜は、山の血だ。その一滴を舐めて季節の機嫌を知り、狩りの許しを得るのだ』


 樹齢数百年を数えるモミの大樹は堂々と聳《そび》え、幹の傷からは琥珀色の樹液が美しく垂れていた。子供の頃から何度も目にしてきた、清らかで完璧な「命の蜜」そのものだった。


 だが――指先で拭い、舌に乗せた瞬間、ボグラールカは目を見開いた。


 甘みなど微塵もなく、まるで濡れた薪の灰と黒く焦げついた煤《すす》を直接流し込まれたかのような、耐え難い不快感が喉を襲ったのだ。


 激しく咳き込み、苔の上に吐き捨てた樹液は、何事もなかったかのように黄金色に輝いている。


 さらに素手で幹に触れ、額を叩きつけるように押し当てた時、掌に伝わってきたのは命の健やかな鼓動ではなかった。己の胸の鼓動と微妙にズレた、不自然なひっかかり。二拍ほど正常に打ったかと思えば途切れ、引きずるように揺れる小刻みな不整脈。


 見た目はどこまでも正常で、どこまでも美しい。しかし、中身だけが狂っている。


 その不気味な体験が、彼女に肉を持ち帰ることを拒ませたのだった。


 ◇


 山を下り、天幕《パロタ》群が見えてくると、夕闇の中に小さな焚き火の煙が幾筋も立ち上っていた。駆け寄ってくる弟たちの歓声が聞こえる。だが、手ぶらで戻ったボグラールカの姿を見ると、子供たちの声は困惑に包まれて小さく萎《しぼ》んでいった。


「……肉は、どこ?」


 幼い弟の素朴な問いに、ボグラールカは答えることができなかった。かじかんだ手で弟の頭を一度だけ力任せに撫で、そのまま集落の奥――長老オロシュの天幕へと直進した。


 天幕の中は、煙と乾燥させた獣脂の臭いが充満していた。


 囲炉裏の火を囲んでいたのは部族の古老たちだ。中央に坐す長老オロシュは、落ちぼくのような深く刻まれたシワの奥から、冷ややかな眼光でボグラールカを見上げた。


「……手ぶらか、ボグラールカ。初雪の前の貴重な一日を、お前は無駄にしたのか」


「オロシュ様。これを見てください」


 咎める声を遮り、ボグラールカは包みを解いて肉片を囲炉裏の脇へ差し出した。


「三番目の罠にかかった雄鹿です。見た目は太って健康的でしたが……暴れもせず、痛みすら感じていなかった。自分で己の首の肉を噛みちぎっていたんです」


 古老たちが顔を見合わせ、かすかなざわめきが起きた。


「それだけではありません。聖域の大樹の樹液も、この肉の血の匂いも……不吉な灰の臭気が混じっています。『返らずの溝』からは生き物が消えました。山が……おかしいのです」


 オロシュは無言のまま、短刀の先で肉片を突き、囲炉裏の爆ぜる火へかざした。


 じわり、と脂が溶け出し、炎に落ちて小さな青い火花を散らす。


 立ち上った煙が天幕内に広がった瞬間――沈黙が落ちた。


 香ばしい肉の焦げる匂いではない。冷たい水底の泥と、湿った薪をくべた時に出るような、冷たく不快な「灰の匂い」。


 古老の一人が思わず鼻を覆い、囲炉裏から顔を背けた。


 オロシュの動かす短刀の指先が、ほんのわずか、目立たぬほどに止まった。老人の深いシワの奥にある瞳が一瞬だけ硬直し、燃える肉片を見つめている。


 しかし、オロシュは静かに短刀を鞘に収めると、重々しく吐き捨てた。


「……塩を使えば食える」


「オロシュ様!?」


 ボグラールカは声を張り上げた。


「匂いだけではありません! 聖域の樹液だって、見た目は澄んでいるのに灰の味がしたんです! この肉には目に見えない何かが――」


「喰ってみねば分からん!」


 オロシュの怒号が天幕を揺らし、ボグラールカの言葉を叩き潰した。


「傷もない、腐ってもいない肉だ! 昔の飢饉の時は、皮履きすら煮て食ったのだぞ! 匂いが多少異様であろうと、火を遠くまで通し、塩を揉み込めば肉は肉だ! お前の『勘』とやらで、なぜ貴重な糧を捨てた!」


「勘ではありません! 現に、そこにいる皆も異臭に気づいている!」


「黙れ!」


 オロシュの眼光が、刃のようにボグラールカを射抜いた。


「お前は狩人だ。山の不吉を語り、部族を怯えさせることがお前の仕事か? 天幕の前にいる幼子たちに、明日何を食わせる? その不気味な言いがかりで腹が膨れるか!」


「……っ」


「いいか。明日、若者を引き連れてその谷へ戻れ。川底に沈めた肉を引き揚げ、塩漬けにしろ。お前が引き揚げぬなら、他の若者にやらせる」


 オロシュはそれ以上、口を開かなかった。囲炉裏の火影の中で、古老たちも視線を逸らし、固く口を閉ざしている。誰一人として、ボグラールカと目を合わせようとはしなかった。


「……わかりました。明日、私が肉を引き揚げに戻ります」


 絞り出すように答え、ボグラールカはオロシュの天幕を飛び出した。


 ◇


 夜の冷気が、熱を持った頬を痛烈に冷やしていく。


 自室の天幕に戻ると、弟たちが不安そうに寄り添ってきた。ボグラールカは努めて静かに微笑み、彼らの頭を撫でたが、胸の奥の不吉な確信は消えなかった。


 明日、何も知らない若い狩人たちを引き連れて、あの谷へ戻らなければならない。


 危険を恐れぬ鹿が佇み、生き物の気配が消えた、あの狂った谷間へ。


 ボグラールカは腰を下ろし、イチイの弓の弦をそっと指で弾いた。


 ベーン――


 低く澄んだ音が、暗闇の中へと静かに滲んでいった。

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