逃げない獲物
無音の谷間を後にし、尾根沿いの薄暗い樹林へ足を踏み戻すと、ボグラールカは荒く吐息をついた。吐き出した息は白く凍りつき、そのまま寒風の中に消えていく。
背中で重く揺れるイチイの弓と、腰の薪割り斧。肩を圧迫する革紐の痛みが、冷え切った身体に「生活」という現実の重みを叩きつけた。
不気味な静寂に怯えている暇など、今の彼女にはない。
麓の谷間に集う部族の天幕では、古老たちや幼い弟たちが、冷たい風に身を寄せ合って待っている。初雪が山を覆い尽くす前に、どれだけの肉を塩漬けにし、どれだけの油を蓄えられるかが部族の生死を分けるのだ。
ボグラールカの指先は、絶え間ない弦の擦れと血脂の洗浄で、固く頑丈な皮に変色していた。その角質化した皮膚こそが、彼女が共同体の中で勝ち得てきた生存の証だった。
「……まずは、三番目の罠だ」
低く呟き、ボグラールカは鹿革の靴底で硬く凍りついた土を確かめながら進む。
三日前、尾根の小径に仕掛けた「くくり罠」がある。太い麻縄と青銅の滑車を噛ませ、しならせたブナの若木の跳ね返りを利用して獲物の足首を一瞬で締め上げる仕掛けだ。山林の肉を喰らう以上、仕掛けの不備で無駄な苦痛を与えたまま放置することは、山に対する重大な無作法とされる。
かじかんだ指先で手革の結び目を確かめながら、彼女は身を低くし、低木の密集する斜面へと踏み込んでいった。
◇
低木の茂みをくぐり抜けた先で、ボグラールカの足がぴたりと止まった。
仕掛けの若木が、勢いよく跳ね上がった姿勢で固定されている。罠は作動していた。
霜の降りた枯れ草のただ中に、その獲物はいた。
立派な大角を抱いた、毛並みの深い雄鹿だった。見事な体躯――一頭で部族の数日分の肉と、極上の革、道具の柄になる硬質な骨をもたらしてくれる。
だが、ボグラールカは弓を構えることすら忘れ、その場に固まった。
罠の麻縄が、鹿の右後脚の関節部分へ苛烈に噛み込んでいた。若木の張力で締め上げられた縄は皮を切り裂き、白い骨が覗く寸前まで肉へ食い込んでいる。裂け目から赤黒い血が滴り、足元の枯れ草を赤く染めていた。
本来なら、脚を捕らわれた野獣は狂乱する。目を剥き、後脚を引きちぎらんばかりに暴れ回り、立ち木に角をぶつけて絶望的な悲鳴をあげるはずだ。それが、生に執着する野性が示す当たり前の拒絶反応だった。
だが、その鹿は静かだった。
暴れた形跡などどこにもない。縄で縛りつけられた脚を地面に投げ出したまま、鹿は日の当たる草原で休息でもしているかのように、のんびりと佇んでいた。
ヌゥ……
喉の奥で微かに鳴き、鹿は足元の霜の降りた枯れ草をごく自然な動作で喰み続けている。
右後脚を締め上げる猛烈な苦痛も、自由を奪われている恐怖もないかのような身のこなしだった。草を噛みながら不自由な脚をすっと引くと、肉に喰い込んだ縄がさらに深く絞られ、新鮮な血がドッと溢れ出す。だが鹿は眉一つ動かさず、ただ静かに草を噛み続け、口端から青草の汁を垂らしていた。
肉は破れ、血は流れている。しかし、鹿の目には苦痛の色すらなかった。
怪物に変貌しているわけでもない。毛並みは美しく、瞳は透き通っている。ただ「普通の鹿」としてそこに存在している。それなのに、ボグラールカの皮膚には寒風とは別の凄惨な冷気がまとわりついた。
ボグラールカは息を殺し、指先で矢の筈を静かに弦へ番えた。嫌な冷や汗で、弓の柄が滑った。
◇
弓を引き絞ったまま、ボグラールカは踏み出した。
カサ、と落ち葉が音を立てると、雄鹿はゆっくりと首を巡らせた。大きな茶色の瞳が、まっすぐにボグラールカを捕らえる。
狂気も、怒りも、死への恐怖もない。人里で飼い慣らされた羊のように、無垢で甘やかな光だった。
鹿は鼻を鳴らすと、あろうことかボグラールカの方へ向かって、ゆっくりと一歩を踏み出した。罠の麻縄が右後脚の肉を締め上げ、メリメリと骨の軋む異音が響く。血が噴き出したが、鹿は気にした様子もなく、ボグラールカの差し出した弓の先へそっと鼻先を寄せてきた。
「……な、にを……」
ボグラールカの喉から掠れた声が漏れる。
鹿は満足げに革服の匂いを嗅ぐと、血と青草の匂う温かい吐息を彼女の手元に吹きかけた。そしてそのまま――まるで足元の枯れ草でも喰むかのように、血に濡れた口先でボグラールカの腕の革手革を、悪気もなくバリバリと噛み砕こうとしてきた。
「っ……!」
ボグラールカは跳び下がり、腕を振り払った。
恐怖や威嚇ではない。ただそこに「ある」から噛む。自分を傷つける苦痛も、目の前の人間が捕食者であることも理解していない。その無機質で無防備な挙動に、強烈な吐き気がこみ上げた。
その時、ボグラールカの視線は鹿の太い首筋に釘付けになった。
毛並みが途切れ、赤黒い肉が露出した生々しい傷跡。傷の角度と歯形は、明らかにこの鹿自身のものだった。自分で自分の首筋の肉を幾度も噛みちぎり、血を流しながら反芻するように喰らっていたのだ。
鹿は腕を振り払われても意に介さず、ただ静かに佇んでいる。
――狂っているのではない。
「……すまない」
声が震えた。ボグラールカは引き絞った矢の筈を極限まで引き込み、鹿の無防備な頸脈へ狙いを定めた。
ヒュン――
短く空気を切り裂く音とともに放たれた矢が、鹿の首を深く穿った。鹿は倒れる瞬間すら驚きも苦しみも見せず、ただ静かに膝から崩れ落ち、湿った枯れ草の上へ横たわった。
◇
ボグラールカはゆっくりと倒れた雄鹿の前へひざまずいた。
胸の前で手を合わせ、短祷を滑らかに唱える。
「山に還る命に感謝を。我が天幕に糧を与え給え」
祈りを終えると、顔つきを瞬時に狩人のそれへと切り替えた。腰から鋼の狩猟刀を抜き放つ。
腹側に切れ込みを入れ、皮下に刃を滑らせる。シャリ、シャリと筋膜が切れる音とともに外皮を剥ぎ取り、腹膜を慎重に開いて内臓を取り出した。ここで胃や胆嚢を傷つければ全体が台無しになる。熟練の手つきで落とされた消化器官からは、生温かい湯気と濃密な獣脂の香気が立ち上った。冬を越すための命の匂いであり、最も信頼できる生の感触だった。
だが――大腿部の肉を削ぎ落とそうと刃を向けた瞬間、ボグラールカの手が止まった。
鼻腔を突いたのは、いつもの血の匂いだけではない。
切り開かれた筋肉の繊維の隙間から、何かが密かに立ち上っていた。
血生臭さの奥底に滑り込んでいる不快な臭気。焦げた木炭でも腐敗臭でもない。まるで湿った灰と煤のような、乾いた異臭。
見た目は健康的で、極上の赤身肉だ。
刀を握るボグラールカの手が、微かに震えた。
麓の天幕では、凍える手を擦り合わせながら肉を待つ幼い弟たちがいる。この肉を持ち帰れば、彼らは今夜、温かい汁物にありつけるはずだった。
ボグラールカは血に濡れた刃を握りしめたまま、動かなかった。
切り開かれた肉の断面から、もう一度だけ、冷たい灰の匂いが立ち上った。




