↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大草原の徴(しるし) 〜タルトシュの馬飼い〜  作者: 武陵隠者
第2章『北の爪痕』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/35

羽音の静寂

 嶺《みね》を吹き抜ける風は、すでに氷の刃を含んでいた。


 切り立った岩壁の縁に立つボグラールカの頬を、刺すような冷気が容赦なく撫で上げていく。背には使い込んだイチイの弓と、山羊の角で作られた短角笛。鞣《なめ》し革の太い手革を巻いた左腕には、かなりの重量が重く沈み込んでいた。


 巨鷹《きょよう》、カルチャ。


 北の険しい峰々を統べる猛禽であり、幼少から共に山を歩んできた相棒だ。分厚い革越しであっても、その太く鋭い鉤爪が喰い込む圧力と、羽毛の奥に脈打つ熱い体温が生々しく伝わってくる。


 カルチャは鳴かない。ただ、琥珀色の鋭利な瞳で、眼下に広がる黒々とした針葉樹の海を見下ろしている。


 気を抜けばその鋭い嘴《くちばし》で飼い主の眼球すら抉り出す、高貴で危険な刃。ボグラールカが静かに腕の位置をずらすと、カルチャもまた倒れぬよう僅かに爪の角度を変える。その無言の駆け引きだけが二人の全てだった。


「……くそ、冷えやがる」


 かじかんだ唇の間から、ガラ声の吐息が白く漏れた。


 西の尾根に低く垂れ込める灰色の雲。あと半日もすれば本格的な初雪が降るだろう。天幕《パロタ》で待つ弟たちの顔が脳裏をよぎる。冬を越すための干し肉は、まだまったく足りていない。


「……行くよ、カルチャ」


 短く息を吐き出すと同時に、左腕を鋭く突き上げた。


 バサァッ――


 風を孕む重厚な羽音が空気を震わせる。


 指先から圧倒的な重みが消失し、巨大な影が崖から躍り出た。下降気流を捉え、蒼穹《そうきゅう》へと一気に舞い上がっていく猛禽の影を見上げながら、ボグラールカは冷え切った指先で弓の握り革の感触を確かめた。


 頭上高く舞い上がったカルチャは、上昇気流の層をとらえて旋回をはじめた。鷹の視界には、人間には決して見えぬ山の微細な蠢き――草むらを這う野ネズミの背や、岩陰に潜む雷鳥の羽毛が映っているはずだった。


 だが、今日の旋回には不自然な硬さがあった。


 円を描く途上、右翼の風切り羽を一瞬だけ引き絞る。旋回半径が歪に小さくなり、滑らかな羽ばたきの中に微かな迷いが滲んでいた。


 獲物を追う動きではない。見慣れぬ地形や、予期せぬ風の乱れを警戒するときに見せる、鋭い猜疑《さいぎ》の挙動だ。


 巨鷹は北側の不自然に深く落ち込んだ谷間――部族が「返らずの溝」と呼ぶ針葉樹林の上空を、何度も狭い半径でなぞるように飛び続けていた。


「……何を見た?」


 ボグラールカは呟き、胸元の短角笛をぎゅっと握りしめた。


 カルチャがあの谷間から目を切らない。野生の鋭利な本能が示す警戒を、無視することはできなかった。


 カルチャが細く鋭い啼き声を一度だけ風に散らした。ボグラールカは視線をその影に固定したまま、岩肌を滑り降りるようにして、暗い樹林の入口へと足を踏み出した。


 ◇


 樹林に入ると太陽の光は急速に遠のき、モミやトウヒの濃密な影がボグラールカを呑み込んだ。


 足元には年年月月をかけて積み重なった松葉と腐葉土。ここは彼女にとって己の庭も同然の狩場だ。どの木に大穴があって栗鼠《リス》が巣を張っているか、どの岩陰に山羊が羽を休めるか、樹皮の削れ具合一つで獲物の動きを読んできた。


 だが、奥へ進むにつれて、肌を刺す静けさの質が変わっていく。


 パキリ


 自らの鹿革の靴が拾った、乾いた小枝の折れる音だけが甲高く響く。


 ボグラールカは足を止め、息を殺した。膝を低く落とし、猟犬のように鼻腔を広げて深く息を吸い込む。


 漂ってくるのは、清々しくも冷たいモミの樹脂の匂いだけだった。


 おかしい、と胸の奥で警鐘が鳴る。


 この時期の森なら、冬を前に溜め込みを急ぐ小動物の足音や、雄鹿が縄張りに擦りつけた甘苦い獣脂の匂いが、必ず風に乗ってくるはずだ。死骸が転がっていれば腐敗臭が立ち上り、それを目当てにする烏や狐の気配が満ちる。


 だが、ここには何もない。


 匂いも、気配も、あらかじめ綺麗に清掃され尽くしたかのように存在しないのだ。ただ澄み切った無機質な冷気が、容赦なく肺を内側から叩いていく。


「……獲物が、逃げたのか?」


 呟いた声は、吸い込まれるように針葉樹の暗闇へと消えた。


 逃げたのだとしたら、足跡や狂乱の爪痕が残るはずだ。しかし、ここにあるのは最初から生き物など一頭も棲んでいなかったかのような、不自然な空白。


 ボグラールカは弓の柄を握る手革にしっとりと嫌な冷汗が滲むのを感じながら、さらに奥の谷間へと静かに足を踏み進めた。


 ◇


 鬱蒼とした林を抜け切ると、視界がわずかに開けた。


 すり鉢状になった谷の底には、陽光を浴びて白く輝く岩肌と、手つかずの苔を洗う清流が広がっていた。血痕もなく、引きちぎられた毛皮もない。そこにあるのは、息を呑むほどに美しく静謐な、北の山のありふれた風景だ。


 だが、ボグラールカの背筋を、冷たい氷の指が撫で上げていく。


 風はある。モミの葉が揺れ、清流は白く泡立って冷ややかな音を立てている。


 しかし、それだけだった。


 山で生きる者が無意識に耳を傾けている「世界の底鳴り」が、どこにも存在しなかった。


 木々を穿つキツツキの木霊も、幹の裏を這い回る甲虫の羽音も、笹薮の奥で小動物が落ち葉を踏み鳴らす掠れた音すら途絶えている。枝の先を見上げても、身を潜めているはずの小鳥の影一つない。


 血を撒き散らす獣なら、矢を射ち込めばいい。


 だが、ここには敵すらいない。「命の不在」という冷徹な欠落だけがそこに鎮座していた。


「……カルチャ」


 上空を見上げると、巨鷹は音もなく旋回を繰り返していた。その琥珀色の瞳もまた、地面の上に広がる恐ろしいまでの「何もなさ」を見下ろしている。


 腕の皮膚に、総毛立つような鳥肌が立った。


 怪物の咆哮よりも恐ろしい、無音の爪痕。読めるはずの山が、何も語らない。


 彼女は震える指先でイチイの弓を握り直し、弦の張りを確かめた。この無音の谷の向こうで何かが起きている。言葉にならない暗い予感だけが、凍てつく風とともに彼女の胸を固く締め上げていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。