塩の不在
老泥馬の体温は、驚くべき速さで大草原の冷気の中へと溶けていった。
数刻前まで脈打っていた太い首筋に触れても、返ってくるのは冷え切った肉の重い手応えだけだった。
マールトは馬の傍らに膝をついたまま、微動だにしなかった。その手首には、先ほどまで馬の体内から僅かに奪い取っていた余熱の名残すら消え、ただ泥と乾いた血がこびりついている。
アンドラーシュは壊れた皮革の鞄から、粗悪な干し肉の切れ端を取り出した。砦を出る際、急ぎ放り込んできた二つだけの食糧。だが、最前線の黒泥砦で支給されたそれは、塩すら満足に塗られず、ただ風に晒して乾燥させただけの代物だった。
アンドラーシュはひとつをマールトに手渡し、自分も残りを口に含んだ。
モソ……モソ……
噛み締めても、肉汁の旨味など湧き出さなかった。乾いた木屑か砂の塊を噛んでいるかのような無機質な不快感が広がる。噛むほどに唾液ばかりが奪われ、喉の奥へ押し込もうとすると強烈な拒絶反応がこみ上げた。
舌の上に、塩気が一切なかった。
こめかみの奥で、重い鉄の塊が脈打つように痛む。立ち止まるたび、視界の端がチカチカと白く爆ぜ、地平線が歪んだ。
「食え、マールト……飲み込むんだ」
アンドラーシュは絞り出すような声で言った。だが、言葉をかける己の指先もすでに感覚を失い、赤紫色に変色していた。
隣のマールトもまた、干し肉を口に入れたまま固まっていた。
少年の頬は削げ、小さな唇は裂けて血が滲んでいる。マールトは虚ろな瞳で手元の肉片を見つめ、幾度も顎を動かそうとしては、諦めたように動きを止めた。
少年の脳裏に、かすかな記憶が浮かび上がる。
かつて母親が小さな土鍋で焼いてくれた羊の肉。表面にぱらぱらと振られた、ほんの少しの岩塩の粒。かまどの火の匂いと、満ち足りて眠りについた夜。
いま舌の上にある味のない砂が、その記憶すら塗り潰していく。マールトの手から、噛みかけの肉片が静かにこぼれ落ち、黒い土の上に転がった。
痛む頭を抱え、アンドラーシュの胸の奥に甘い妄執が掠めた。
……引き返せば、塩はある。
今来た道を戻れば、黒泥砦がある。そこには湯気の立つスープがあり、暖炉の火があり、塩漬けの肉があるのだと。
「……引き返せば」
掠れた声が口をついて出かけた。
だが、アンドラーシュの視線がマールトの手元に留まった瞬間、その言葉は喉の奥で凍りついた。
少年は膝の上に置いた右手を、じっと見つめていた。
赤紫色に腫れ上がった小さな手掌。その小指のさらに外側に、へばりつくように生えた小さな肉の芽――六本目の指。
「……そうだった」
アンドラーシュは吐き気を堪えながら、己の額を強く打った。
砦へ戻れば、待っているのは温かなスープなどではない。マールトは異端として即座に鎖で繋がれ、アンドラーシュ自身も脱走した罪人として絞首台へ送られるだけだ。
マールトは何も言わず、その六本目の指をもう片方の手で静かに覆い隠した。
そのときだった。
マールトが弾かれたように顔を上げ、地平線の彼方を見据えた。
アンドラーシュもまた、少年の視線を追って目を凝らした。
北東の地平線――雲の低く垂れ込める境目から、一筋の細い黒煙が立ち上っていた。
風にしごかれながらも、規則正しく空へと伸びる黒い煙。単なる野火ではない。人の手によって維持されている火の煙だった。
あそこに行けば、火がある。人の営みがあり、何より塩があるはずだった。
「……煙か」
アンドラーシュの胸の奥で、冷たい緊張が走った。
あの方向に立ち上る煙が意味するものは、ふたつにひとつだった。
異端者を追撃するために平原を巡回している、教会の武装巡回隊の野営。
あるいは、境界石の向こう側で独自の生活を営む、異端者やならず者たちの集落。
あそこへ行けば、一掴みの塩は手に入るかもしれない。だが、それが自らの首を絞める縄になるのか、それとも生き延びる糧になるのかは分からなかった。
「……行くぞ、マールト」
アンドラーシュは言った。
マールトは立ち上がった。
少年は横たわる老泥馬の冷たい鼻先へ最後にもう一度だけ手を触れると、きっぱりと背を向けた。
二人が歩き出すと、空の境界からバタバタと不吉な羽音が響いた。
数羽の黒カラスが低く旋回し、動かなくなった老泥馬の巨体の上へと降り立っていく。肉を貪る鋭い嘴音が、遠ざかる二人の背中に届いた。
二人は一度も振り返らなかった。
足を踏み出すごとに、靴底が湿った泥炭を冷たく押し潰す。
彼方の空へ揺らめきながら立ち上る一筋の黒煙だけを見据え、二人は風の吹きすさぶ果てなき草原の深みへと、静かに歩みを進めていった。




