飢えた灰
最後の一片が灰に飲まれると、橙色の残光は一瞬で姿を消した。
大草原の漆黒が、波のように押し寄せる。風よけの二基の石の陰には、微かに熱を孕んだ黒く湿った灰だけが残されていた。焦げた羊脂の不快な甘みとインクの煙が、冷気の中で鈍く滞っている。
アンドラーシュは小さく肩をすくめ、凍りつく両掌を灰の熱気の上へかざした。だが、火を失った空気は容赦なく体温を奪い、指先の皮膚は即座に紫黒く硬化しはじめる。
そのときだった。
闇の向こうから、地を劃すような不吉な摩擦音が近づいてきた。
ずるっ、ずるり……
粘り気のある泥炭を押し潰し、草の根を削ぎ落としながら、重い肉体がじわじわと移動している。
アンドラーシュの背筋に、氷のような戦慄が駆け抜けた。思わずマールトの肩を引き寄せ、闇の奥行きへと目を凝らす。少年の体もまた、硬く強張っていた。
ヒュー……ヒュー……
胸郭の奥で血と粘液が混ざり合い、気道を塞ぎかけている生き物の、凄惨な喘鳴が闇を割る。
暗闇の切れ目から、ぬっと蠢く巨大な影が現れた。
老泥馬だった。
折れた前脚は無造作に後ろへ引きずられ、泥と自分の血で塗れていた。巨体を三本の脚だけで歪に引っ張り、胸を地面に叩きつけるようにして這い進んでくる。荒い鼻息が吹き出すたび、泥の上に白く短い泡が飛び散った。
馬の大きな頭部が、二人の目と鼻の先まで迫る。
左右に開いた大きな瞳孔は光を吸い込んで鈍く濁っていた。正気の光は失われ、ただ生への病的な執着だけが、その剥き出しの眼球に宿っている。だらりと垂れ下がった唇からは、血と泡の混じった唾液が糸を引いて泥に落ちていた。
馬の鼻先はアンドラーシュたちの身体を完全に無視し、石の隙間に残された灰へ向けて一直線に伸びた。
鼻孔を極限まで広げ、かすかに煤煙を上げる黒い灰の山を、狂乱したように貪り嗅ぎ始める。熱を孕んだ灰が鼻腔を刺激するのも構わず、馬は喉の奥からグ、グ……と低く狂おしい声を漏らした。
石の隙間へ強引に長い顔をねじ込み、ザラついた長大な黒い舌をぬっと突き出す。
ジャリ……ジュル、ジュル……
湿った重い音が、暗闇の静寂を掻き乱す。
馬の舌は、まだ底に微熱を残す黒い灰を削ぎ落とすように舐めとり始めた。熱を孕んだ炭の粒が口腔に入り込むのも意に介さず、泥と血に塗れた唇を歪め、唾液と灰を交ぜ合わせながら無我夢中で咀嚼する。
ジャリッ、ジャリッ
歯と歯の間で未燃焼の炭や石片が砕ける不快な音が響く。舌を動かすたび、唇の端から灰と血の混ざり合った黒い泡が溢れ出し、あごひげをつたって地面へ落ちた。
「……っ」
アンドラーシュの隣で、マールトが息を呑んだ。
マールトは身体を硬直させ、アンドラーシュの袖口を強く掴み寄せた。指先が小刻みに震えている。馬飼いの子として育てられたマールトにとっても、眼前の光景は異様で、恐ろしい禁忌のように映っていた。
アンドラーシュは震えそうになる声を抑え、努めて冷淡に囁こうとした。枯れ草の灰に含まれる塩分やミネラルを、衰弱した獣の本能が求めているだけなのだと――博物誌の知識で目の前の惨劇を解釈し、理性を繋ぎ止めようとした。
しかし、言葉は声にならなかった。
いま目の前で血と黒い泡を撒き散らしながら貪り喰われているのは、単なる草木の残骸ではない。
彼が破り捨てた羊皮紙――誰かの処分を確定させ、血と涙を吸い上げた鉄胆インクの煤だ。異形たちの運命を縛り付けた「文字の残骸」を、死に瀕した獣が泥とともに呑み込んでいる。
「あるいは……」
アンドラーシュの口から、理性の防壁を突き破って不吉な言葉が漏れ出た。
「あの紙に刻まれた、殺された者たちの念いや毒を……喰っているのか」
ジュル……ジャリ……
老馬の大きな瞳孔には二人も、周囲の暗闇も映っていない。ただ過去の記録が姿を変えた黒い灰だけに、その剥き出しの執着を向け続けている。
マールトの掴む手が、さらに強くなる。二人は息を殺したまま、闇の中でひたすら灰を刮ぎ取り続ける黒い舌の音を聞き続けていた。
◇
夜が明け始める平原は、氷のような薄縹色の光に包まれていた。
地表を洗う風の冷たさは変わらない。石の陰に積もっていた黒い灰は完全に舐め尽くされ、削り取られた土の窪みだけが空しく残されていた。
アンドラーシュがかじかんだ身体を起こすと、視界の端で大きな影が蠢いた。
ミシ……ミシ……
乾いた骨と関節が軋む、重い異音が静寂を打つ。
横たわっていた老泥馬が、折りたたまれていた前脚に力を込め、巨体を起こそうとしていた。首の太い筋が幾本も浮かび上がり、泥と血に塗れた鬣が大きく揺れる。
ドゥ……フッ!
馬が荒々しく鼻息を吹き鳴らした。鼻孔から噴き出した白い気胞が、氷点下の空気に鮮やかな太い柱を描く。
壊れていたはずの左前脚に強烈な緊張が走り、腫れ上がった関節が地を掴むように硬く張る。馬は全身の筋肉を波打たせながら、泥炭の土を後脚の蹄で激しく蹴りつけた。
ズンという重厚な響きとともに、巨大な肉体が地上へと押し上げられる。
老泥馬は、立った。
四本の脚でしっかりと立ち上がり、高く頭部を掲げて見せた。朝日が地平線の端から薄橙色の光を投げかけ、巨体の輪郭を鮮明に切り取っていく。
背筋を伸ばし、深く広大な草原を見渡すその瞳からは、昨夜の濁った狂気が消えていた。朗々と胸郭を広げて吐息を吐き出す。
「……立った」
アンドラーシュの喉から、声が漏れた。
あの羊皮紙の灰が、真にこの獣の生命を呼び覚ましたというのだろうか。もし馬が動けるのなら、この過酷な平原を越えられるかもしれない。失われかけた希望の熱が、冷え切った胸の奥で浅ましく跳ね上がった。
横では、マールトが弾かれたように駆け出していた。
言葉にならない声を喉の奥で鳴らしながら、泥馬の長い首筋へと飛びつく。馬もまた、マールトの頭へ鼻先を寄せ、温かい吐息を髪に吹きかけた。
マールトは愛おしそうに首筋を擦りながら、古びた革の手綱を慎重に手繰り寄せた。「行こう」と促すように、少年が小さな身体で前傾姿勢をとる。
老泥馬は少年の意図を汲み取ったかのように深く鼻息を吐き、静かに前脚を踏み出した。
一歩。
泥炭の湿った土を蹄が踏みしめ、重厚な踏破音が朝の空気に響く。
二歩。
朝日を背に受けた巨体が、確かに前進を始めた。
ベキッ
乾いた無機質な音が、静寂を包んでいた大草原に鋭く突き刺さった。
それは生き物の悲鳴ではなく、ただの硬い木切れが内部から破断したかのような、冷酷な摩擦音だった。
直後、老馬の左前膝が、あり得ない角度で内側へと折れ曲がった。
メリ、メリメリッ……
粉砕された骨片が肉を突き破る手応えが、地響きとなって足元から伝わってくる。
馬は嘶くことすら許されなかった。声帯を鳴らす間もなく、四肢から一瞬にしてすべての緊張が失われる。圧倒的な質量を持った巨体が、そのまま泥の地上へ斜めに叩きつけられた。
ドスン――ッ!
激しい衝撃とともに、凍てついた泥炭の粉塵と昨夜の残骸である黒い煤が舞い上がる。
マールトの手から手綱が弾き飛ばされた。少年は地面を転がり、這いつくばったまま、目の前に横たわる巨体を見つめた。
老泥馬は、ぴくりとも動かなかった。
大きな眼球は瞬きひとつすることなく見開かれたまま、空虚な天を映している。口元からは、昨夜貪り食った煤と血が混ざり合った黒い泡が、小さな泥溜まりとなって静かに溢れ出していた。
灰を食んだことが奇蹟を起こしたわけではなかった。死に瀕した身体が、ただ最後の力を振り絞っただけだったのかも知れなかった。
「……あ、あ……」
マールトが膝立ちになり、なりふり構わず馬の元へ這い寄った。
濡れて冷たくなりゆく泥泥馬の首筋にしがみつき、小さな拳で幾度も幾度もその太い肉体を揺さぶる。喉の奥から、声にならない嗚咽を漏らし、顔をくしゃくしゃにして泣いた。
朝日に照らされた少年の背中は、広大な大草原の中であまりにも小さかった。
アンドラーシュはゆっくりとマールトの元へ歩み寄り、立ち上がろうとしない少年の肩の上に、かじかんだ手をそっと置いた。
「……マールト」
その声には感傷も、己を庇う言葉も含まれていなかった。ただ、目の前にある事実だけを削り出したような、冷たく乾いた響きだった。
「治ったんじゃない」
泣きじゃくる少年の首筋を見つめながら、アンドラーシュは静かに言った。
「……死ぬ場所を、変えただけだ」
少年は言葉の意味を解さずとも、その声に込められた絶望の深さを察し、馬の首に顔を埋めたまま肩を激しく震わせた。
足を完全に奪われたふたりは、果てのない死の平原の真っ只中に、ただぽつんと取り残されていた。




