羊皮紙の毒
二基の石に守られた油布の炎が、かすかに煤混じりの橙色を強めていた。
だが、獣脂を吸わせた布切れなど、一瞬の熱をもたらすに過ぎない。敷きつめた枯れ草の細茎は瞬く間に黒く爆ぜ、火床の温度が下がり始めると、大草原の猛烈な冷気が再び足元から這い上がってきた。
アンドラーシュは息を殺し、膝の上に置いた羊皮紙の束に目を落とした。
破り取った一片を、そっと石の陰の火床へ滑り込ませる。
熱気を孕んだ炭が皮の裏面に触れた瞬間、じじ……と湿った虫が這うような音が上がった。
羊皮紙の端が生き物のように収縮を始める。角が黒く反り返り、不気味に丸まりながら、表面に塗布された定着剤がわずかな泡を吹いた。やがて、整然と並んでいた漆黒の文字が、熱によって波打ち、歪んでいく。
パチッ
不意にインクの塊が弾け、小さな火花が跳ねた。
丸まった皮の皺から、ぬっと淡い炎が立ち上る。一度熱を取り込んだ羊皮紙は、草の葉とは異なる重々しい揺らぎを見せながら、ゆっくりと燃え広がり始めた。
そこに記されていたのは、かつて彼が審問官の指示にしたがい、冷徹な筆致で記録した異端者の処分報告書だった。誰が生み出され、誰が人間社会の秩序を乱す者として排除されたのか。かつて暖かな執務室の机で、己の知性と権威の証として滑らせた文字。
それが今、暗闇の中で単なる炭素へと変わり、己の凍えきった爪先を温めるためだけの「燃料」として失われていく。
文字が炭化して黒く崩れるたび、アンドラーシュの指先は小刻みに震えた。
炎が破片を飲み込み、再び陰りを見せ始めると、アンドラーシュは次の紙片へと手を伸ばし、力任せに引き破った。壊れた機械のように文字を火へ投げ入れ続ける彼の膝元で、焦げたインクの匂いが濃く立ち上る。
引き裂く皮の鈍い音が、静まり返った暗闇に響いた。
「……これで、三十二人だ」
かさついた唇の隙間から、掠れた声がこぼれ落ちる。
破り取った羊皮紙を、そっと石の陰の炎へと注ぎ込む。かつてはただの記号であり、報告書の数字に過ぎなかった羊の皮が、熱を受け取ると蠢くように歪み、端から黒い炭となって縮みあがっていく。
「……十七。いや、十八か」
呟きは短く、途切れ途切れだった。頁を繰るたびに、紙面に刻まれた人間たちの数が吐息とともに漏れる。
じじ……とインクが泡立ち、焦げた匂いが立ち上る。
アンドラーシュの右手の親指からは、削れた皮膚の隙間から滲み出た血が、乾いた羊皮紙の縁を濡らしていた。血とインクが交じり合い、炎の中で黒く爆ぜる。破り捨てる動作を止めてしまえば、指先から這い上がる凍えと罪悪感に、一瞬で心が押し潰されそうだった。
「……本当は、三十三人だった」
小さく裂いた最後の破片をくべながら、アンドラーシュは荒い息を吐いた。
「最後のひとりは……羊膜を被って生まれた、赤子だった」
炎がその破片を丸ごと呑み込み、一瞬だけ強く、青みがかった橙色の光を放つ。その光が、対角に座る少年の顔を鮮明に浮かび上がらせた。
マールトは無言だった。
燃やされている羊皮紙に書かれた文字の意味を、少年が理解できるはずもない。しかし、少年はアンドラーシュの荒くなった呼吸と、紙を掴む指先から滴る血、そして揺れる瞳の奥をじっと見つめていた。
アンドラーシュは少年の視線から逃れるように顔を背けた。胸の奥から、喉元へとせり上がってくるものがあった。
――自分はただ、与えられた職務を全うしたに過ぎない。自分自身がその命令を下したわけではないのだと。
弁明の言葉が口から溢れ出そうとした。
だが、アンドラーシュの視線が少年の顔にぶつかった瞬間、言葉は喉に突っかかった。
マールトの瞳は黒く、ただまっすぐにアンドラーシュという人間の輪郭を映し出していた。
少年は知っていた。目の前の男の胸郭が不自然に浅く速く上下していること。喉の奥で唾を呑み込む音が小さく震えたこと。眼球が定まらず、燃える火の残骸と暗闇の間を忙しなく往復していること。
文字を持たぬ少年の前で、文字で己を飾ってきた男は、何も言えなくなった。
背筋を冷たい汗が伝う。
「…………」
アンドラーシュは深く頭を垂れ、口を噤んだ。
血の滲む指先で次の羊皮紙を一枚、静かに引き破った。その破断音だけが、暗闇へと落ちていく。
皮革の鞄は、すでにスカスカに軽く痩せ細っていた。
束の半分以上が灰と化し、小さな火床の周りには、濃密で重苦しい匂いが渦を巻いていた。
鞣された羊の脂が熱で分解されて焦げる脂臭さ。そこに、鉄と倍子のタンニンから作られた古インクが熱分解を起こし、煤となって立ち上る酸っぱい金属臭が混ざり合う。文字によって人を裁き、命を紙の上に封じ込めてきた履歴が発する、毒のような悪臭だった。
ゴホッ、ゴホッ
アンドラーシュは思わず肘で口元を覆い、荒く咳き込んだ。
煙が目を刺し、喉の奥に焦げついた脂の不快な甘みがこびりつく。一息吸い込むごとに、吐き気が胃の腑を撫で上げていくかのようだった。
逃げ出したいほどの悪臭だった。だが、ふたりはこの煙を放つ火床から一歩たりとも身を引くことができない。一尺でも火から離れれば、大草原の夜を支配する冷気が、即座に爪先から全身の熱を奪い去っていくからだ。
生き残るために縋りついているのが、かつて己の手で汚した「紙の屍」であるという不条理。アンドラーシュは悪臭に顔を歪めながらも、熱に吸い寄せられる手を止めることができなかった。
マールトもまた、眉間に皺を寄せ、鼻をひくつかせながら火を見つめていた。
煙が眼球を刺激し、少年の目から一筋の涙が頬をつたって落ちる。それでも少年は立ち上がらず、震える手を火の上にかざし、羊皮紙が爆ぜる熱をじっと掌で受け止めていた。
じ……じじ……
やがて、最後の紙片が黒く崩れ、小さな炎が沈んでいく。
煙の勢いが次第に衰え、周囲には焦げた羊脂の残り香と、石の窪みに積もった熱い灰だけが残された。
静寂が戻った大草原の闇の向こうで、それまで荒く途切れていた老泥馬の息遣いが、不意に別の足音を含んだような、微かな摩擦音へと変わり始めていた。馬の鼻先が、冷えゆく泥の上をずるりと這う音が、暗闇の中から二人の方へと静かに近づいてくる。




