不発の火
境界石を過ぎた途端、世界を遮るものが一切消え失せた。
黒泥砦を背にして広がる大草原――プスタの風は、音もなくただ絶え間なく吹いていた。
草の茎を揺らす乾いた擦過音の合間に、とき折、ヒュウと喉を鳴らすような低音を混ぜ込みながら、地の果てから滑り込んでくる。逃げ場のない平原において、風は単なる現象ではなく、空間そのものを満たす質量を持った拒絶だった。
アンドラーシュは地面に膝をつき、必死に指先を動かそうとしたが、もはや関節の感覚が途絶えていた。
湿った泥炭地を歩き通したせいで、羊毛の靴下は泥水を含んだまま足指の皮膚へぴたりと張り付き、氷のように冷えて固まっている。一歩踏み出すごとに、冷気が骨の髄まで痛みの針を刺し込んできた。かみ合わない奥歯がガチガチと不快な音を立てて鳴り、その振動が頭蓋の裏側にまで響く。
「……くそ、鞄の……紐が……」
呟いた声は、吐き出された瞬間に白く短い塊となり、強風にしごかれて霧散した。
羊皮紙や数冊の記録を詰めた皮革の鞄は、雨と汗を吸って硬く強張っていた。かじかんだ指先では締め紐を結び直すことすらできず、爪が剥がれるような痛みが走るだけだった。執務室の温かな暖炉の脇で、滑らかな革を撫でていた記憶は、遥か彼方の出来事のように遠い。
数歩離れた草むらでは、老いた泥馬が泥地に腹をつけて伏していた。
折れた前脚は不自然な角度で折れ曲がり、荒い息を吐くたびに肋骨の形が浮き上がる。マールトはその濡れた背に抱きつくようにしてしがみついていた。首筋の毛皮に顔を埋め、馬の体内から漏れ出す微かな余熱だけを頼りに、身を縮めさせて震えている。
言葉を持たぬ少年の耳は、寒さで赤黒く腫れ上がっていた。馬の腹が大きく上下するたび、マールトの胸も一緒に揺れる。だが、その獣のぬくもりすら、吹きつける風によって一刻ごとに奪われ、冷やされていくのが分かった。
追っ手の兵士たちの足音も、甲冑の鳴る音も、ここには届かない。自分たちを縛っていた教会の掟も、背信の罪を問う審問官の視線も、すべてはあの重い石壁の向こう側に置き去りにされた。
しかし、そこに広がっていたのは自由などではなかった。
ここにあるのは、ただひたすらに体温を削り取り、肉を枯らし、骨を冷やし尽くそうとする、剥き出しの物理の暴力だけだった。風が服の隙間から侵入するたび、皮膚の表面から生きている証拠が奪われていく。息を吸い込むことすら、冷たい刃を喉奥へ突きたてられるような苦痛だった。
アンドラーシュは震える膝を泥に押しつけ、ただ眼前で浅い息を繰り返す少年と馬の姿を、白く濁っていく視界の隅で見つめ続けていた。
◇
アンドラーシュは懐の奥底から、小さな皮革の袋を引きずり出した。
指の感覚は失われて久しく、角張った火打石と打金を取り出すだけで、手の甲の皮膚が引きちぎれるような痛みが走る。
足元に寄せ集めたのは、道すがら拾い集めた枯れ草の束だった。だが、湿った泥炭の冷気を含んだ草は、掌の中でもやけに重く湿り気を帯びている。
打金を石の縁へと叩きつける。
カン
乾いた金属音が、吹きすさぶ草の海へと虚しく吸い込まれていった。火花は一瞬だけ暗闇を切り裂いて散ったが、湿った枯れ草に届く前に風にさらわれ、黒い沈黙の中へと消える。
カン、カン、カチッ
幾度目かの打撃ののち、ようやく一筋の火花が草の末端に届いた。細い細い橙色の糸が草の表面を走り、小さな煙が立ち上る。酸っぱい、草の焦げる匂いが鼻を突いた。
アンドラーシュは思わず顔を近づけ、かじかんだ唇をすぼめて静かに息を吹きかけようとした。
だが、その瞬間に突風が地を這うように吹き抜ける。せっかく灯りかけた微かな火種は、息を吹き込む間もなく一瞬で掻き消された。残されたのは、指先を撫でる冷たい煙の残り香だけだった。
アンドラーシュは無言のまま、再び打金を振り下ろした。何度も、何度も。
暗記していた理論が、静かに破綻を告げていた。
打金を振るう手元が狂う。ズツという不快な感触とともに、鋭い石の角がアンドラーシュの親指の付け根を深く削ぎ落とした。
赤黒い血がぬっと溢れ出す。だが痛みすら曖昧で、ただ生温かい液体が手首をつたっていく感触しか伝わらない。その僅かな血の温もりすら、容赦のない草の風にあっけなく奪われ、黒い筋となって指先で固まっていった。
膝の上の枯れ草は、もはや火種を育む温床ではなく、湿ったただの冷たいゴミくずにしか見えなかった。
アンドラーシュは半分取り憑かれたような手つきで、皮革の鞄へ手を突っ込んだ。
爪先が硬い角に当たる。引きずり出したのは、彼が肌身離さず携えてきた記録文書の写しだった。かつて教会の中枢で、自らの手で没食子インクを滑らせ、異形や罪人の処分を決議した冷徹な羊の皮の束。思考の結晶であり、彼にとっての世界のすべて、権力の象徴そのもの。
アンドラーシュは歯で端を噛みちぎり、力任せに引きちぎった。破口から覗く白けた皮の繊維を、打ち石の脇に添える。
打金を叩きつけると、飛び散った一筋の火花が羊皮紙の断端に触れた。
ふっと、微かな音がした。
黒い文字が刻まれた縁から、淡い青みを帯んだ小さな炎が立ち上る。インクの鉄分と羊脂が混じり合った焦げくさい匂いが広がった。
だが、炎は三息とも持たなかった。
油分を失い固く乾ききった羊皮紙は炎を吸い込まず、表面を不気味に丸め、角を縮こまらせただけで、瞬く間に煤けた灰へと姿を変えていく。火種は周囲の枯れ草へ燃え移ることもなく、ただ黒く焦げた丸まりを残して冷えていった。
かつて誰かの命を途絶えさせた「文字」が、今や自分を暖める炎の足しにすらならない。文字すらも、皮が縮む熱でぐにゃりと歪み、黒い煤の中に消えていくだけの無力な記号に過ぎなかった。
「この火種を逃せば、次はない……!」
彼は鞄の中からさらに二枚、三枚と羊皮紙の束を掴み出し、そのまま火口へ覆いかぶせようとした。
ガシッと、手首を万力のような力で締めつけられた。
「……離せ!」
血の滲む手首を掴んでいたのは、泥馬の脇から這い出してきたマールトだった。言葉を持たぬ少年の瞳が、暗がりの中で静かに、そして射抜くような強さでアンドラーシュを見つめ返していた。
マールトは抗議の言葉に答えることもなく、手に込めていた力をゆっくりと緩めた。
アンドラーシュの手から、折りたたまれた羊皮紙の束が滑り落ちる。
マールトは羊皮紙に見向きもしなかった。少年の視線が向いていたのは、足元の泥の上に打ち捨てられていた、湿気除けの粗末な油布切れだった。
マールトは無言のまま膝をつくと、油布を拾い上げ、石の角を使って端を小さく引き裂いて糸の繊維を毛羽立たせた。そしてアンドラーシュの削ぎ落とされた親指を一瞬見つめると、引き裂いた油布の小さな端切れを、無言でアンドラーシュの傷口に固く巻きつけた。
手応えのある圧迫感が、血の溢れる親指を包む。
それからマールトは地面の窪みに転がっていた二つの大きな石を寄せ合わせ、風上に向けて小さな壁を作った。石の隙間、風の渦が途切れる死角へ、毛羽立たせた油布の端を押し込む。
その上へ、枯れ草の中から乾いた細い茎だけを数本、交差させるように粗く組んで被せた。風を遮り、空気の通る道を確保する――それは書物に記された抽象的な理論ではなく、泥炭地の馬飼いたちが身体で覚えている「火の巣」だった。
マールトはアンドラーシュの手元を指差した。
打金を持て、と。
アンドラーシュは不格好に震える手で打金を握り直し、石の隙間、油布の端を狙って一撃を振り下ろした。
カチッ
火花が落ちる。
獣脂を吸った布の繊維に触れた瞬間、パチと小さな爆ぜる音が鳴った。
立ち上ったのは、先ほどの不快な煙ではない。濃く、重い、黄色みがかった炎が油布の端からじわじわと這い進み、確かな熱を孕んで燃え上がり始めた。
風よけの石の中で、小さな火種が力強く息づく。かさついた草の茎へ炎が燃え移り、橙色の光が二人の濡れた手元と顔を明るく照らし出した。
温かい。
たったそれだけの熱が、凍てついていた肺を満たしていく。
アンドラーシュは親指に固く巻かれた油布を見た。
それから、石陰で小さく踊る炎を見た。
そして最後に、無言で火を見つめるマールトの横顔を見つめた。
自分はこの少年を導き、救っているつもりだった。
いつから、逆になったのだろう。
言葉を持たない少年の静かな呼吸だけが、風の音に混じっていた。




