境界の喉鳴り
石積みの廃屋の奥、切り出された岩の隙間に、口を開けた暗闇が存在していた。
湿った煤と腐敗した水苔の臭いが、その地下孔から重く吹き上がってくる。アンドラーシュは油を染み込ませた松明に小さく火を点すと、振り返ることなくその地下水路――かつて教団が異端と断じた者たちを人知れず吐き捨てるために穿った、暗渠の古道へと足を踏み入れた。
「足元に気をつけろ。ここは教会の光も、人の目も届かぬ底だ」
アンドラーシュの冷ややかな声が、濡れた岩肌に反射して反響する。
マールトは痺れた右手を押さえ、身をすくめながらその洞門へと足を踏み入れた。折れた脚を引きずる老馬もまた、低い鼻鳴りを漏らしながら、擦れる体躯を狭い石壁に押し当てるようにして続いてくる。
チャプ……、ポツリ……
頭上の岩の亀裂から、冷たい水滴が不規則に落ちてはマールトの首筋を叩いた。
足元を覆うのは、膝まで没する泥水だった。地表の泥炭とは異なり、太陽の光を一度も浴びたことのない地下水は、骨の奥まで凍てつかせるような粘り気を含んでいる。足を踏み出すたびに、水底に溜まった腐植質が巻き上がり、鼻腔を突く酸っぱい臭いを撒き散らした。
揺れる橙色の光輪の外側には、濃密な闇がへばりついている。アーチ状に組まれた石積みは、長年の水圧によって所々が歪み、まるで巨大な獣の食道の中を這い進んでいるかのような圧迫感をもたらしていた。
歩みを進めるたびに、マールトの胸の中で、消し去ったはずの記憶が切なく疼いた。
脳裏に蘇るのは、黒泥砦の寒々しい馬小屋の風景だった。
兵士たちに罵倒され、藁屑まみれの泥の上で寒さに震えた日々。冷たい粥を投げつけられ、理不尽な蹴りを入れられた記憶。惨めで、痛ましく、人間として最も低い場所に置かれていた日常。
――だが、あそこには人がいた。
十五年の生涯で、マールトが知る世界はあの砦の泥の中しかなかった。どれほど虐げられようと、そこには自分を罵る声があり、朝になれば鐘が鳴り、馬たちの温かい吐息と干し草の臭いがあった。自分という存在が「馬飼いのマールト」として留まることを許されていた、唯一の現実だったのだ。
この暗渠を抜けてしまえば、二度とあの場所へは戻れない。
罵声すら届かない完全な「無」の世界へと吐き出されてしまう。
マールトの脚が、泥水の中で重く滞った。戻りたかった。たとえ再び地下牢へ繋がれ、枷をはめられようとも、自分を知る人間たちがいるあの世界へと回帰したかった。
「立ち止まるな」
前を行くアンドラーシュが、振り向きもせずに言った。その声には、逃れることのできない拒絶の響きがあった。
「戻る道など、最初から存在しないのだ。お前が踏みしめているのは、人間社会がお前を排せつするための孔なのだから」
マールトはもつれる舌で「あ、……ぁ」と音を漏らした。だが、その泣き声のような掠れ声は、絶え間なく落ちる水滴の音に呆気なく呑み込まれて消えた。
◇
暗渠の湿りきった闇が不意に薄れ、頭上の崩れかけた石枠から、生ぬるい風が吹き込んできた。
アンドラーシュが掲げていた松明が、急激な空気の動きに煽られて煙を吐き出し、パチパチと音を立てて消える。闇に慣れていたマールトの目が開くと、そこには地下の閉塞感を根こそぎ薙ぎ払うような、圧倒的な明かりと世界が広がっていた。
水路の出口は、傾斜した丘の亀裂に隠されるように口を開けていた。
そこを踏み出したふたりと一匹の目の前に立ち塞がっていたのは、半ば倒れかけ、青黒い苔に深く覆われた一個の巨大な石柱だった。
「……境界石だ」
アンドラーシュが膝を濡らしたまま立ち止まり、息を吐き出した。
石柱の表面には、かつて教会の権威と王国の領土を刻みつけたであろう十字の紋章と、ラテン語の古い銘文が彫られていた。だが、その文字は長い年月の風雨に削られ、今や判別することも叶わない。苔の合間から覗く歪んだ石の肌は、ここから先がいかなる国家の法も、教えも及ぬ地であることを、無言のうちに告げていた。
背後に広がるのは、見渡すかぎり黒々とした死の沼地。濡れた泥炭が放つ腐敗臭と、絶え間なく肌を苛む冷気の世界だ。
しかし、境界石を半歩越えた先に広がっていたのは、地平線の彼方までうねり続く、黄金色の草の海だった。
風が吹き抜けていく。
その風の匂いは、マールトが今まで生きてきたどの場所の匂いとも違っていた。湿った泥の重さや地下牢の煤の不快な臭いは何ひとつ含まれていない。ただひたすらに乾いた、野生の草葉が太陽に晒された青く甘やかで香ばしい匂いと、遥か遠くの砂塵を含んだ乾いた風。
風が渡るたびに、背丈ほどもある名もなき野草が一斉にざわめき、まるで巨大な生き物が呼吸をするように波打つ。
国境警備の哨戒網も、黒泥砦の兵士たちの追撃も、すべてはこの境界石の手前で完全に途切れていた。追手を脱した。彼らは間違いなく自由になったのだ。
だが、マールトの胸に押し寄せてきたのは、胸を焦がすような解放感などでは断じてなかった。
身体を刺したのは、足元から世界が根こそぎ崩れ落ちていくような、底知れぬ絶望と恐怖だった。
砦に帰る道は、完全に途絶えた。自分を「マールト」と呼ぶ人間も、過ちを咎める規律も、罪を裁く法律すら、ここには届かない。自分を縛り付けていたすべての不条理と引き換えに、マールトは「人間の一員」であるための最後の糸を切り落とされたのだ。
乾いた風が、マールトの泥まみれの頬を容赦なく撫でていく。
老馬が、不意に首を垂れ、境界石の根元に生えた乾いた草に鼻先を寄せた。ぶるりとひとつ大きく鼻を鳴らす。その吐息すら、草の海が発する強烈な生気の中に呆気なく呑み込まれて消えていった。
◇
苔むした境界石の傍らで、大草原から吹きつける強風が三者の衣類を激しく煽っていた。
アンドラーシュは懐の革袋を固く締め直すと、足元に佇む十五歳の青年へと視線を落とした。男は追放者としての冷淡さを装いつつも、目の前の「名もなき異形」として打ち捨てられた存在に対し、静かに問いを投げかけた。
「……お前の名前は、何というのだ」
その声は風の音に掻き消されそうなほど低かったが、マールトの鼓膜には落雷のように響いた。
名前。
それは人間が社会に繋ぎ止められ、他者と関わり、自らの存在を証明するための最も小さく、もっとも強固な楔だ。
マールトの瞳が激しく揺れた。
自分が「人間」であった最後の証。馬小屋の暗がりで兵士たちから呼ばれ、己の輪郭をかろうじて繋ぎ止めていた唯一の音。それをこの男に伝えなければならない。自分はただの「処分された異物」ではなく、血の通った一人の人間なのだと、言葉で刻みつけなければならない。
マールトは痺れて重くなった舌を、必死に動かそうと足掻いた。
口腔に溜まった冷たい唾液を飲み込み、麻痺した喉の奥の筋肉を激しく収縮させる。舌根が引きつり、激しい痛みが首筋を走った。息を吸い込み、声帯を震わせようと胸を波打たせる。
「あ……っ、……ぅ……」
だが、口から漏れるのは、泥水が泡立つような掠れた不快な息の音だけだった。
言葉にならない。
地下牢の煤と冷気が奪い去っていったのは、右腕の感覚だけではなかった。人間社会から排斥され、他者と対話することを断たれた長い時間が、彼の発声の仕組みそのものを壊していた。
「……あ……、……ま……」
マールトは胸元で六本指の右手拳を固く握りしめ、前屈みになりながら喉を猛烈に絞り上げた。顔の皮膚が赤黒く鬱血し、涙と泥が混じり合った汁が目角から溢れ出る。
「……マー……っ……」
喉の奥で、微かな音が鳴った。
だが、性に続く音は凍りついた舌先で滑り、空しく吐息の泡となって破裂した。
「……マー……、……ぁ……」
途切れた。
絞り出された音はあまりにも弱々しく、境界石を吹き抜ける大草原の猛烈な風の前に、呆気なく掻き消された。
隣に佇んでいた老馬が、ぶるりとひとつ、重く鼻を鳴らした。
アンドラーシュは、掠れた息を吐きながら喉を震わせる少年を見つめていた。その瞳には哀れみではなく、かつて羊皮紙の上で文字を打刻し、人間から言葉と名誉を奪い去ってきた制度の加害者としての、逃れようのない現実だけが映し出されていた。
アンドラーシュはそれ以上、名を問い正さなかった。これ以上言葉を求めることは、かつて自らが振るった暴力を、この傷ついた少年へ再び浴びせることに他ならないと悟ったからだ。
「……行こう」
アンドラーシュは短く呟くと、背を向けた。
その足取りは重かった。かつて自らが言葉で殺し、制度の外側へと放逐した命――その肉体としての不条理を、死ぬまで己の罪として背負い続けねばならないという足取りだった。
マールトは何も言わず、手負いの老馬の背にそっと手を置いた。そうして痺れた右腕をかばいながら、男の後姿を追った。
その足取りに、かつて馬小屋で見せていたような「明日を恐れる怯え」はなかった。かといって、憎悪に満ちた殺気もない。ただ風が吹く方角へ、流されるようにして歩みを進めるだけの足取りだった。
二人の後ろを、足を壊した老馬が追う。
ひょこ、ひょこ、と――不均等な足音が、乾いた土を叩く。
境界石を過ぎると、背丈ほどもある黄金色の草が、あっという間に二人の腰を、そしてマールトの肩を呑み込んでいった。
風が吹き渡るたびに草の海はざわめき、波打つ。
乾いた草葉が擦れ合う高らかな音は、教会の鐘の音も、兵士の罵声も、羊皮紙を滑る羽ペンの嫌な音も、すべてを等しく掻き消していった。
太陽の光を照り返す草の波間に、黒い影が三つ。
アンドラーシュのやつれた背中も、マールトの泥に塗れた頭頂も、一歩、また一歩と進むにつれて、うねる黄金色の茎の隙間へと埋もれていく。
遠く、地平線の彼方で風が鳴り響いていた。
二人の人間と一匹の壊れた獣の影が完全に草の海へと没したとき、そこにはただ、誰のものでもない無慈悲で雄大な大草原の風だけが、いつまでも吹き抜けていた。




